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2021年06月15日
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私の受けた迫害の思い出   斎藤宗次郎
      一九四九年六月天沼聖書研究会に於て
(三)
(編者曰う。斎藤宗次郎氏の思い出は多くの人に感謝されているが、これは迫害に関する事だけを、僅かに二時間の天沼の集まりで話していただいたので、その話に出てくる病気の事についてはちょっとしかふれていない。先日斎藤氏が拙宅を訪問して下さった際、編者がその病歴について質問したら、左の如く話して下さった。迫害談の註解として、又その他にも教えらるる所少なくないので、前回の続きとしては中断されるが、ここに掲載する。文責は編者のものである。)
 私(斎藤宗次郎)の結核は明治三十三年七月二十四歳の時、小学校でイエス様のお話をしている時に起った大喀血から始まります。いつまでもいつまでも血が止らず、物が言えなくなり、生徒らが泣き出したので、黒板に「しばらく学校を休むから他の先生が来られても、よく従うように」という意味の事を書いて医者の所に行きました。七、八町歩いて医者の門の近くまで行った時、医者は車に乗って出かける所でした。しかし声が出なかったので呼び止める事が出来ませんでした。車に乗ったからには旅行するに違いない。旅行されては大変だと思って、私も車を雇って花巻駅にかけつけましたが、医者は来なかったとの事でしたので、町中をさがしまわり、やっとある骨董店で見かけ、ようやく診てもらいました。辛うじて帰宅すると養父は「それ見ろ、お前があまりに学校の事に熱心だからそんなになった」と怒りました。それから私は一か年ばかり自宅で療養しましたが、時々は学校にも出かけました。
 明治三十四年の三月、内村先生に初手紙を差し上げましら御懇切な御返事をいただき、その手紙を「無教会」誌にのせたいと申し越されました。その中に
 キリストを信ずるとは、斯くも辛らき事に有之、然し之に伴う栄光も亦人の知らざる所有之候、其栄光を思ふて其困難を考ふれば、後者はむしろ数ふるに足らざる事と存候。願くは君が最終まで君の信仰を守り得て、君の友をして君に就て深く誇る所のあらしめ給はんことを。
とあります。私の手紙は「無教会」の五月号(第三号)にのりました。
 明三十五年、先に申したように、郡視学から教育方針をかえるようにせまられ、私が拒んだので「それでは職権を以て処断する」と言われた後の事ですが、私は「どうせ肺病で死ぬのなら、一度東京に出て名医に見て貰おう。それには北里柴三郎博士がいいだろう」と思って上京し、六月十九日先づ内村先生を訪問しました。すると先生は、
 十九世紀の医術は進歩しているが、君、君の霊な
 る体を全然医者のみにまかすということは出来な
いよ。
と申されました。その時、私は、全能なる医者イエス・キリストに頼るべきことを教えられ、先生の御心を察知し、はるばる上京して先生にお目にかかってよかったと思いました。先生は更に「しかし念のために診て貰い給え。ただし医者は金高で診察の差別扱いをするから困る。私が善い人を紹介してあげよう。」と言って入澤達吉博士を紹介して下さいました。入澤博士は「まあ病名をつけて見れば慢性の気管支カタルだ。早く帰って松林の中を散歩せよ」と申されました。
花巻に帰郷して見ると、友人が」やって来て私がキリスト教教育を学校でした為追放(休職)されたことを告げ知らせました。私は「来るべきものが遂に来た。これも御恵みである」と感謝しました。その時、内村先生から左の御手紙をいただきました。
御無事御帰宅を賀す。今回君の頭上に落来りし世の所謂不幸に就ては、余は深き同情を君に寄す。余は確かに信ず、神は此世に於ける君の希望を塞いで、彼世に於ける君の希望を聞きたまうを。願くは恩恵豊かに此時に於て君の上にあり、君をして能く此試誘に耐えしめ、主の栄光を知る益々深きに至らんことを。希伯来書(ヘブル人への手紙)十二章一より十三節まで。
(一九〇二年)六月二十四日  内村鑑三
斎藤君(日記書簡全集6書簡、第二百八信)
 入澤博士にすすめられたので、私は毎日自転車で松林の間を散歩しましたが一向よくなりませんでした。そのずっと後で又上京して神田の高田畊安博士に診て貰ったら診断も養生も何もかも正反対で、肺結核の初期だから安静にしているようにと申されました。
 第二回の大喀血は明治三十五年の七月内村先生の第三回夏期講談会に出席の為、上京した時でした。その時私は浅野、大賀、小山内、葛巻などと云うよい友人を沢山与えられました。会期中のある日、友人たちと神田に行って氷を飲んで店を出ようとしたら突然喀血しました。急いで新宿角筈の宿舎に帰りましたが、血はなかなか止まりませんでした。先生や皆さんにご迷惑をかけてはと思い、次の日曜日帰郷の途につきました。
 一か月ばかり休養しましたが、内村先生が北海道に行かれるという話(*)を聞いたので、九月二日、突然先生の乗っておられる汽車にのり込んで先生を驚かせ、お伴して参りました。青森の旅館の屋上から津軽海峡を眺めて、先生はあそこはクラーク博士の通られた所だ、さあ北海道の為に祈ろう、と申され、二人で祈りました。札幌で講演数日の後、先生と私は小樽に行きました。小樽では大きな坂の上にある教会で講演会があり、私は先生の重いカバンを提げてこの坂を登りました。そして満堂の聴衆の前に坐ってお話を筆記しました。その晩、先生と一所にその教会の牧師館に泊まりましたが、翌朝洗面所に行って顔を洗おうとした時、又喀血をしました。これが第三回目の喀血です。先生のおすすめにより、札幌に行って医者に診て貰って、独立教会の宮川牧師のお宅に一晩とまりましたが、ご迷惑を思って次の日帰途につき、花巻に帰りました。
*日記書簡全集6書簡、第二一三信(和文葉書)
花巻川口町斎藤宗次郎様
若し聖旨に叶わば、明後二日午前八時三十九分御地ステーションを通過します。二等汽車の中に居ります。天気危険のため航海は廃めました。
(一九〇二年)八月三十一日
 帰ってから私は諸処を歩き回って伝道をしました。その間小喀血する事、数を知らず、讃美歌を歌っている時、少しなまぐさいな、と思うと血が出ましたが、少しもひるまず伝道しました。非常識であったかも知れませんが、内に燃ゆるものがあったので、やむにやまれなかったのです。
 こうしているうちに明治三十七年のある日、第四回目の大喀血をしました。その時は大変衰弱し、右手では箸も持てなくなったので、左手にスプーンを持って、これで粥をすくってすすりました。その中、内村先生から「君には高価で買い難いかも知れぬが、四十五円出すとコンパウンドオキシヂエン(オゾーン)と云うものがある。肺病にこれを吸用するとよく効くと云う事だ。(*)」とお便りがありましたので、私は家財を売ってこれを買いました。

*日記書簡全集6書簡、第二七一信
御書並に封入の為替と正に落掌仕り候。
小生は斯く貴兄に申上たく候。貴兄目下の最大義務は、貴兄の肉体を健全ならしむるにあり、此事を怠るは貴兄に取り大なる罪悪なり、神ハ今は貴兄より伝道を求め給わず、健全なる肉体を求め給う。貴兄は此事を解するや否や。貴下に勧めたきもの一つあり。米国製化合酸素コンパウンドオキシジン是なり。価少々高し。一箱入二ヶ月分用四十五円なり。肺病に用いて偉功を奏せし者、日本にも数十人あり。余の友人某之を受次す。貴兄、若し之を要せば、小生委細を問合わすべし。藪医者にかかりたると思って、試みられては如何。只一つ小生の保証すべきあり。之に些少の害なきこと是なり。酸素を吸入するなり。他の滋養薬を用いつつありても可なり。右申上候匆々
(一九〇四年)一月二十九日夜鑑三
斎藤兄

これを吸用し始めてから一週間は悪くなる一方でありましたが、八日目からメキメキとよくなり、一か月後にはもう起き上がって重いツルハシで硬い土地を掘り返して畠を作る事が出来るようになりました。私は私の霊を救った上、肉体の病も癒して下さった恩師に何か差し上げたいと思い、北海道から苗をとりよせイチゴを作り、毎年それが出来ると内村先生に送りました。
 その後、上京して先生を訪ね、お宅で二人して昼寝した後で、私の生活について相談しました。先生は私に書籍雑誌の取次店をすすめられ、諸店に紹介して下さいました。その後間もなく新聞の取次配達をすることになりました。諸新聞が皆同じ汽車では着かないので、私は一刻も早く読者にニュースを知らせようと思い、一日に三回も四回も、しかもかけ足で三、四貫目もある新聞を配達してまわりました。朝刊がすむとすぐ夕刊の配達です。それで朝は三時に起き、晩は九時十時まで労働し、それから執務、読書するという生活を、祈りつつ二十年間続けましたが、その間もその後上京してからも一度も病気しませんでした。





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最終更新日  2021年06月15日 18時01分41秒
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