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カテゴリ:パワーか、フォースか
新井奥邃
今其れ人を愛するに於て一法有り。 人工の法に非ず。 姑(しばら)く之を循環黙愛と謂はん。 何ぞや。 譬へば此に友十人ありとせん、 我れ静黙以て日に其の一人を胸裏に特愛し 十日にして全部に及ぶ。 終りて復た始まる。 諸友、各々此の如くにす。 此れ集団を神愛するの法 林竹二先生と森信三先生が別々の文脈でこの人に触れられ、深い敬愛を示されているのであう。 「新井奥邃 (1846-1922) 明治のキリスト教伝道師にしてトマス・レイク・ハリスの弟子。隠者。 仙台藩士の家に生まれ、藩校養賢堂に学ぶ。のちに江戸の昌平黌に留学するも戊辰戦争に従軍。さらに榎本武揚の幕府海軍に入り函館まで転戦。同地ではじめてロシア正教を知る。維新後は捕縛を恐れて友人宅にかくまわれていたが、この潜伏期間中にキリスト教信仰を深めている。やがて森有礼に見出され、1871年にアメリカのハリス教団に送り込まれる。教団ではおもにハリスの秘書として原稿を整理し、印刷出版に従事している。 1875年、ハリスとともにサンタローザに移住してさらなる信仰労働生活を送る。 1899年、実に28年余の教団生活ののちに日本に帰還。ほぼ無一文という身の上であったため、友人知人宅を転々とする。 1903年、巣鴨に私塾「謙和舎」を開き、伝道生活に入る。名誉欲など微塵もない人柄であり、一枚の写真も肖像画も残さぬまま隠棲し、1922年、巣鴨の謙和舎にて死去。享年77歳。 新井はハリスの信仰を引き継ぎ、生涯を貧のなかで過ごした。謙和舎には奥邃の無私無欲の人柄を慕う人が集い、幾多の奥邃語録が編まれていった。かれの塾に出入りした人間のなかには、内村鑑三や田中正造といった明治日本を代表するキリスト教関係者も見受けられる。」 林竹二先生は「田中正造と新井奥邃」の論文で谷中村の闘いの中で田中正造がいかに新井奥邃という人との出会いで救われたかを詳述している。 「久々にて新井奥邃氏を訪うて治す。 厄介とまる。安眠す。 ほとんど深山に寝たるごとし。 清風静かに、身辺和らかに神心清きを感ず。」 「安眠す」に田中正造の幼子が母のもとで安らかであるような気持ちまで感得できる。 「新井奥邃氏と話す。 一泊厄介を得て親しく長時間を対話するごとくするも、一物の存するなきがごとし。 ただ何事か心清まりて高尚にすすむを覚ゆ。 これ神のめぐみのみ。 神は物をさして教えることなし。 すべてを育するのみ。」 田中正造は大正2年9月4日亡くなった。 胃ガンであった。 大正2年(1913)8月2日、田中は最後の河川視察を終えて、谷中に引き返す途中、病状が重くなり、足利郡吾妻村の庭田清四郎の家にころがりこんだ。 その1週間後、8月9日午後4時頃、島田宗造が知らせを受けて駆けつけ、夜を徹して百枚ばかりハガキを書いて諸方に知らせを発した。 このハガキを受けて新井奥邃が8月13日付けで島田に手紙を寄せて、新井の著書「静間読」の一節を田中に読み聞かすように指示した。 島田が田中正造に読み聞かせると、田中は大変喜んだとある。 8月22日夜半、病状はさらに悪化し、田中は大声で 「現在を救え、ありのままを救え」 と叫んで、意識不明となった。 新井奥邃は旅行して帰宅していたが、体調を悪くして静養していた。 島田からの田中翁危篤の手紙を受けて、島田に手紙を出した。 「(略) 今朝の新聞によれば翁いささかおよろしき方とあり、まず翁自身の安心の程度に安心いたし候。 肉体も実に大切なるものに候へども、人の生命は誠に永久にして肉体以上にあることを明らかにせざるべからず。 田中翁はその肉に死するもその人は死せず、何事のその身辺に起こるも必ず翁のために悲しむなかれ。 またいたずらに喜ぶなかれ。 翁の使命その奮闘今後千年なおいまだ尽きざればなり。 ただし、その身辺何事起こるも、周囲必ず清々粛々たること緊要なり。 8月26日午前9時しるす 奥邃」 「翁自身の安心の程度に安心いたし候」りある。 奥邃のいう「安心」は単なる病状が少しよくなって安心しましたということではないことはそれ以下の文章を見ればわかる。 「田中翁とあいしる12,3年。兄弟ただならず。」ともその後、正造の訃報を聞いて記している。 奥邃と田中翁は肉親よりも心の通じ合う間柄で、田中翁の心をおもんぱかって、出た言葉であろうか。 「肉体も実に大切なるものに候へども、人の生命は誠に永久にして肉体以上にあることを明らかにせざるべからず。 田中翁はその肉に死するもその人は死せず、何事のその身辺に起こるも必ず翁のために悲しむなかれ。またいたずらに喜ぶなかれ。」 奥邃の文章は独特の調べがあり、美しい。 そしてこの文章は私にも感慨を持たせる。 人は肉体は死んでも人の生命(魂)は永久であると奥邃は言う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年06月17日 19時35分04秒
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