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2022年07月24日
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カテゴリ:遠州の報徳運動
二、松島授三郎
(一)◎松島授三郎君の伝(『岳陽名士伝』)
●平民農●引佐郡●伊平村伊平
君は遠江国豊田郡羽鳥村に生まれる。明治八年中、引佐郡(いなさぐん)伊平村に移り、薬舗を以て業とした。君は常に大志を抱き目前の小利をわずかなことに争うことを欲しなかった。明治十二年に同村に博徒が横行し良民を無理に誘い自分たちの仲間に入れようとした。全村の民があいついでこれに赴いて、ほとんど不良者のすみかとなろうとした。戸長の山本氏等はこれを大変に憂い、救済の策を君にはかった。君は落ち着いて言った。「そもそも民を治めるには、あたかも水を治めるようにするだけです。速やかに功を奏せんと欲すればかえって破れる憂いがあります。おもむろにこれを処置する策を講ずるのがいいでしょう」とくわしくその方法を述べた。人はみな高論に服した。のちに郷里の民を誘導するに、一に君の議に従って措置を托した。そこで君は野末某とはかって一社を創立し名づけて農学誠報社といった。野末氏が社長となった。専ら農業を勧め、道徳を講じ、風俗の淳厚をはかることを目的とした。忙しく働き勉励数年ののちに、全村百五十余戸に、だましたり争う声がなくなり、敦厚の風俗は隣村に聞こえた。ああこの際に当たって松島氏の救済策がなかったならば一郷の悲運は実に言うに忍びないことになったであろう。のちに明治十四年九月静岡県令大迫氏は、誠報社の主意を喜んで特に金円を賜った。君は常に言った。「人民の怠惰に流れるのは救済しなければならない。農業が衰えて元気がなくなるのは振い起さなければならない。人心は日にあやうく道義は月にかすかなのは振って回復しなければならない。今や社会の表面はにわかに一転をなし、欧米の文物がいたずらに皮相に入って奢ってみだらな安逸の風となっている。」君は深くそのよって起こる所を考察し、道徳仁義のもとを注入し、しきりに古くから続いている弊害の改良をさとした。同十五年九月に至って率先して西遠農学社を創立し、農学の研究をなし、かたわら道徳の学を講じて、また自邸に夜学場を起して、学生数十人を教授した。書籍器具から薪炭・灯火の費用など、すべて君の自ら調達する所であるという。
初め君が西遠農学社を起すと、賛成者と共に四方を走りまわって会員を募った。到るところ、続々入社する者があった。ついに千有余名に達した。それ以来入社を乞う者が日一日に増加した。ここにおいて更に奥山・気賀の二か所に支社を設立して、連月一回定会を開いて、また各地有志家の請いに応じて、社員と共に農談を行い、ほとんど平穏無事な日がなかった。今や君の説を聞こうと欲する者は、駿河・遠江二三国の大半にわたった。その農談を開始するに当たり、来会する者は七八百名の多きに至る。一回は一回より多く、県下を風靡して隣県に及ぼすようであった。これはほかでもない。本社の組織のよろしきを得ることと、その実行のこのように顕著なことによるが、君の忍耐率先の功績は一番大きいといわなければならない。
明治十六年前の引佐麁玉(あらたま)郡長・松島吉平氏は、永峯書記官と坐談し、話のついでに、この社の事に及んだ。永峯氏は大いにこれを喜び賞して、維持金として若干を寄贈した。のちに関口県令が金円および揮毫を贈った。同十九年松島氏等は有志者とはかり西遠農学社の本館を気賀町に新築し、松島氏を社長とし、連月十二日を以て会日とし、春秋の二季大会を開いて、互いに農業上の得失を討論し、学理と実際とを応用し、精を探り幽をきわめた。のち三遠農学社と改称し、社員の多いことは、現に三千名に達するという。三遠農学社の隆盛は実にこのようであった。そして君の功績は偉大といわなければならない。しかし君は自らの功績をくらましてあえてこれを辞色(言葉や顔色)に出すことなく、かえってこれが顕れることを恐れる者のようであった。君が謙譲の徳に富むことは、推して知ることができる。
明治元年中、長く雨が降り続くこと数月、天竜川が決壊して横流し氾濫して水は数十の村落を浸した。羽鳥石原等の諸村が最も甚だしかった。家屋を流出して、野には青色なく、人民の半ばは家がなく、食料がなかった。みな里正小栗某の門に集まり、しきりに救助を乞うた。惨状は実に見るに忍びないものがあった。里正は策を施すことができず、これを君にはかった。君は言った。「簡単なことです。願わくはわたしに百両を貸してください。わたしがあの困窮の民を救いましょう」と。里正は言った「百金で大勢の人命を救うことができれば、どうして私が惜しむことがあろう。しかし百両を数十の貧民に分かっても、よく数日を支えることができようか」と。君は笑って言った。「わたしに策があります。憂えることをやめなさい。」すなわち下石田村の神谷某にはかって、窮民を集めて告げて言った。「時すでに冱寒(ごかん:凍り閉ざす寒さ)、年寄りや幼い者は野外で仕事につくことは難しい。壮丁(成年男子)はみな粉骨砕身してこの疾苦を免れなければならない。わたしは、今あなたがたのためにはかる。あえて背いてはならない。わたしもまたあなたがたと共に業に就こうと。衆は皆わかりましたと命を奉じた。そこで君は率先してもっことすきをとって、荒蕪の地を開拓して、旧状に復させた。そしてその労力に応じて賃金を支払って家族を養わせた。そしてまだ足らない者があれば里正に告げて米麦を給付した。このようにして、五か月がたって四月になると麦が実る秋になり、ついに困窮した民も安堵するに至った。そして里正の財を散ずることは前後数十両を出なかった。人は君の良策に驚いた。この時に当って、君もまたひとしくその災いにかかって家屋や田園すべて流失してわずかな蓄えもなかった。よく一家の生計をなげうって他人の急に赴くことは、大丈夫の心胆を有していなければ、できないところである。
明治十八年七月再び天竜川の堤防が決壊して豊田郡の西部及び長上郡の村落また洪水の浸す所となった。時期は田植えの前後に接した。稲の苗は腐敗して用いることができない。君はこれを聞いて、嘆いて言った。「ああ緩急互いに救うことは人の世の通義である。まして私は農業に身をまかせる者だからなおさらだ。どうして秦の人が趙の人を見るような時であろうか」と。名倉藤三郎、早戸仙二郎、井村又三郎らの農学社員にはかって、昼夜東西に奔走して各村の残りの苗を集め、二万四千八百有余束を得て、すぐにこれを被害の村落に贈って、その急を救った。二郡の人は、君の厚い友諠に服し、仁恵に浴した、決してその小さくないことを知る。君はその性格は快活豪毅で、好んで人の良い言葉や善行を高く表彰した。常に道徳仁義を講じて、殖産興業を論じた。その談論するに当って雄弁快活で聞く者をして手が舞い足が踊るに至らしめるという人もある。君に実歴を問うと、君は笑って答えない。強いて聞くと、「わたしは一老農である。何の実際の功績があろうか。しかしある年の水災に非常の困厄に陥って、またある人のために家政をととのえて、かえって破綻を生じて失敗したことがある。」また言った。「わたしは若い時に羽鳥村にあって村民に代って中泉代官の訟庭に争ったことがあった。のちに大いにこれが非であることを悟って、総代の任を辞し、終生訴訟に関しない」などの事を述べるに止まった。かつてその功績を説かず、かえってその失敗を併列し、問う者をして恥じて赤くならさせるものがあった。しかし君の励精研磨は決して一朝一夕の習熟によるものではなく、学理と実際とによって研究した要素で深く報徳の道を実践した結果であるというべきである。君は、安政三年に相模人安居院某と浅田某について報徳の道を学んだ。のちに浅田氏去り、安居院氏がなくなった。そこでしきりに先覚者の門を叩いて、その奥義を究めることに努力した。今や君自らが報徳の道の拡張をはかり、古今の実理に鑑みて、確実動かないものを自論とした。だからひとたび君の説を聞くと、いわゆる世の風をとらえ影を捕えるような論者を恥じて死なせるに至らせるほどである。ああ、君は実に毅然とした大丈夫と称するべきであろう。





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最終更新日  2022年07月24日 17時57分08秒
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