近藤芳美『短歌と人生」語録』 「トータルの世界」
6月9日(日)近藤芳美『短歌と人生」語録』 作歌机辺私記(91年3月)「トータルの世界」短歌という一民族詩型が、かって、どのように発生していったかは本当には知り得ないことなのであろう。しかし、それが六世紀から七世紀、万葉集の初期成立の時期とほぼ重なると考えてよいはずであろうし、またそのころの中国詩の影響も、わたしは必ずあったことと思っている。いずれにせよ同じ日に古代歌謡であったものが詩歌となり、さらに長く、日本の文芸の根幹をなして来たことは記すまでもない。それは万葉集、王朝和歌を経て自らの歴史を重ね、その間に一文芸世界を展開して来た。今、どのような批判があろうと短歌はその歴史の事実、ないしは文学伝統であるものを背後にし、その上にあることは間違いない。そうして、わたしたちがどう思うと、現在、短歌を作ることに関わるかぎりそのことから逃れるわけにはいかず、その背後にあるものを負わないわけにはいかない。歴史であり伝統であり、その間に、無数の作品として蓄積されて来たもの、ないしはそれらすべてのトータルの世界でもある。古典、と呼ぶことばがある。短歌を作ることとは、初めからその古典に連なることを自らに負うことでもある。そうであれば、短歌を作ることは、ただ三十一文字で何かいえばよい、というだけのものではないはずである。若い日にわたしもまた歌を作り出し、はじめ、そのことを軽蔑し、そのことに反抗した。短歌の新しさはそれら伝統の意味と断ち切るところから始まるものとも思ってみた。だが、そうではないのであろう。石田波郷さんという俳人がいた。作家の横光利一のもとに若く出入りしていた。或るとき、俳人として生きる決心を告げた。それに対し、利一は、古典と競い立つ、ということばを告げ、励ましたという。波郷はまだ少年、新しい俳句を志して気負っていたのであろう。そうして彼は、それをはなむけのことばとして最初の日に刻んだものであろう。わたしがまだ初心であり、東京の一大学生として青山の「アララギ」発行所に出入りしていたころ、土屋文明先生による月一度の万葉集の会があった。歌会と違って集るものも少なく、いつも十名足らずの小集会であったが、大学生である間、わたしは熱心な出席者であった。当時、退屈でもあり、あまり面白いとも思わなかった先生の講義は、後に万葉集私注の労作として結実したはずである。わたしの万葉集の知識、ないしは古典の勉強はそれからあまり出ていない。みなさんに古典を読めなどとあまりいえた義理ではないが、それでも、それは読み、それをひそかにつねに内面に積み重ねおく必要は自分のこととして知っておかなければならない。無論、万葉集にかぎらない。(91年3月)