近藤芳美『短歌と人生」語録』 (25)
6月17日(月)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (25) 作歌机辺私記(94年8月)「素材のパターン化」五月中旬、十一日間の中国の旅をして来た。すなわち、北京に向かい、さらに洛陽、西安をめぐり、上海を経て帰国した。中国は四年ぶり、北京は一九八九年の天安門事件直前に訪れてから五年ということになる。ひそかにその後の中国を知りたい思いもあった。平安であり、街が豊かになった印象を抱いて帰ったともいえる。旅自体のことはここではふれない。帰ってきて、たまっていた「未来」の選歌をしなければならなかった。そうして、みなさんの作品の中に、例の南アフリカの選挙のことをうたったものが少なからず交じっているのにやや気付いた。黒人の指導者、マンデラが大統領になったことなどである。平常、そのようなことをうたわないはずとおもっていた作者までが、一様といってよいまでに同じことをうたっていた。南アフリカの選挙の黒人勝利がニュースとして伝えられたのはわたしの旅以前であり、事実を知らないわけではなかった。そうして、それらみなさんの、相次ぐといってよい同じ素材の作品を、わたしは選歌しながら多分ほとんど落としたのではなかったかと思っている。理由、一様に短歌一首として水準が低いとしたからである。みなさんの作品はその素材への関心に拘わらずはぼ一様に同じ事実、同じ感動を申し合わせたかのように同じパターンとしてうたっており、そのための常識的という水準を越えられなかった。なぜなら、それらはすべて新聞で読み、テレビで見た感動の範囲でうたわれていたからである。作品の感動はその範囲のものであり、それはどの作品にも一様に、その範囲の程度において分けられているということになる。常識的な範囲ということに結果はなるのであろう。詩としての、作者ひとりの「個」といい「内面」というものの不足である。ないしは作者ひとりの「思想」であるものである。時事詠ということばがある。わたしはそのことばを嫌うが、たとえばかっての戦争の日に、斎藤茂吉は新聞や当時のニュース映画を見ては激しいその日の時事詠、戦争作品を作っている。そうしてその多くに、わたしは優れたものがあると思っている。なぜなのか。茂吉はニュース映画などを見ながら、それこそのめり込むような感動としてそこで見たものをうたっている。戦争は茂吉にとり、全身全霊としてのものであり、単にそれを見て知った感動という程度のことではなかったのである。みなさんは南アフリカの選挙を、どの程度に全身全霊のこととしてうたわれたであろうか。それにも拘らずわたしたちは、もしそれが心の関心であり感動であるならそれをうたうことを避けてはならないものとも思わなければならない。なぜなら、それもまたわたしたちの生きる現実であり、ついには「個」の「内面」のことでもあるからである。(1994・8)