近藤芳美『短歌と人生」語録』 (24) 「軽すぎないか」
6月16日(日)近藤芳美『短歌と人生」語録』 (24) 作歌机辺私記(94年5月)「軽すぎないか」選歌と言う仕事が、やや重労働に思えるようになって来た。そうして、この「机辺私記」がそのわたし自身の選歌の後の疲労の上に書くのを例となって来た。選歌の間の感想であると共に、疲労に伴う不機嫌が、多分みなさんに気付かれているのであろうと思うことがある。今回選歌をしながら、みなさんの作品の中にしきりと擬声語とでもいうべきものが交えられているのが気になった。雪が「ほっかり」と積むとか、子供が「ピチピチ」と跳ねるように、といった例である。それらの多くは一種の幼児語であり、それらを交えることは作品を当然に幼いものとする。ある種の軽み、ともいえるかも知れないが、やはり基本的において、不用意に用いるべきでないということを承知しておくべきであろう。少なくとも、わたしたちはそうしたことを最初にだれかに教えられてこの世界に入った。今はそれが何か恰好がよいものだという程度に受けとめられ、流行を生んでいるのであろうか。そうしたことを含め、みなさんの作る作品が一体に軽々しく、上すべりになって来ているのではないかと思うことがある。軽々しいちょっとした体験の上にうたわれ、ないしはその上の機知の範囲で作られている作品が、しだいに普通となっていると気付くことがある。否、わたしたち周囲にある短歌世界はほとんどそうしたものばかりとなって来ているのを知っている。わたしの選歌欄はそうであってはならない、というのが選者であるわたしのひそかな願いであるぐらい、気付いていて欲しい。旅行詠というものがある。物見遊山の程度でそれを作るものでない、と一度書いたことがある。その意味は旅行詠だけにかぎらない。すべてにわたっていえる。今回選歌で気付いたものに、内閣改造や福祉税の怒りの歌が少なからずあったことがある。それらの多くが新聞報道ならびにテレビ解説の範囲でありその繰り返しであったりする。むかし、床屋政談という言葉があった。物見遊山の時局詠版であってはならない。一体に歌が軽々しくなって来ているといった。わたしたち自身のすべての日常が、そうした間に過ぎ、そうした中に生きていることから来るものといえよう。それが「当世」的であるぐらい、知らないわけではない。しかし、わたしたちが短歌を作る地点とは、それとはやや違うのではなかろうか。その「当世」の中に生き、しかも今短歌を作ること自体、或る意味では一種の愚直ともいうべきものへの敢えての選択ではなかろうか。なぜなら「当世」と言う板一枚底に、本当は今日の現実が渦巻き、その歴史現実の渦流に恐れ戦くことを知るのみが、本当は愚直の言葉を吐き、詩人である他はないといえるからではなかろうか。(1994・5)