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★ファースト・バプテスト教会 オーランド★
日本人ミニストリーへようこそ 日時:毎週金曜日 午後7時〜8時半 場所:米国フロリダ州 オーランド First Baptist Church of Orlando (http://myfirstorlando.com/) 3000 S. John Young Parkway, Orlando, FL 32805 会場:E-2 Building 2F - 215 内容:日本語で聖書の学びをしたり、賛美歌やワーシップソングを歌ったり、 日本茶を飲みながら楽しく会話をしたりしています。 日本人や、日本に興味のあるアメリカ人が集まって カジュアルな雰囲気の中、楽しい時間を過ごしています。 お近くにお越しの際は、ぜひお気軽にお立ち寄りください。 教会に今まで行ったことのある方も、はじめての方でも大歓迎です。 注)日本語中心での集まりなので、英語の通訳はご用意しておりません。ご了承ください。 ご質問・お問い合わせ: jm.fbco@gmail.com Japanese Ministryの日記 [全20件]
デイヴィッド先生続編です。 第一コリント人への手紙 10:1−13の前回からの学びの残りの部分を行いました。 旧約時代に 神様を信じる者であるにも関わらずイスラエルの民たちが犯していたたくさんの罪について、パウロが話しています。 1)むさぼり(民数記11:4−15) 2)偶像礼拝 (出エジプト32:1−6) 3)姦淫 (民数記 25:1−9) 4)主を試しみる(民数記21:1−9) 5)つぶやき(民数記 14:1−24) なぜ神様はこれらのことが起こることを赦されたのでしょうか? 答え:私たちへの戒めのためです (1コリント10:6) 私たちへの教訓 (1コリント 10:11) それらを踏まえて パウロは何を私たちに述べつたえているでしょうか? 答え:立っている!と思う人ほど気をつけよう!! 倒れないように気をつけよう!! (1コリント 10:12) それらに伴う神様からの恵み深い約束は何だろうか? 答え:神様は私たち一人一人に今何が起こっているのか、すべてご存知です。 神のご計画の中で、私たちは生かされています。 主は個人個人の成長の段階に応じて、できない、乗り越えることができないことは お与えになりません。 そして、必ずその苦しみから解放される その素晴らしい脱出の道をも備えてくださっ ているのです。 (1コリント 10:13) 大切なこと。 それは、私たちクリスチャンが”神の御心がなされるように”と願い祈り求めること。 そして、神の御声に耳と心を傾けて、従順にしたがうこと。 今は見えない、今は良く分からない。そんな先が分からずにどうしよう?と思うことってたくさんあります。 でも、主はご存知です 今、私たちが倒れないように、そして押しつぶされないように。 主の助けを求め、その先にある本物の光を求めて、イエスキリストとともにある勝利の道を 歩ませて頂こう。 私たちにはできないけれど、主がそう成し遂げてくださいます 感謝です Last updated 2009年3月6日 2時19分7秒
2月20日は、マイクさんによる、詩篇13章の学びでした〜 この章は、神様に対して、大胆に激しく訴え掛ける口調で書かれています。 私たちが神様に対して向き合う際に、神様の御前に正直に大胆になることは、 時に簡単ではありません。 神様に向かって、憤りの感情を向けてもいいのか? とためらう気持ちをつい抱いてしまう人も多いと思います。 しかしそもそも、親しくない人には自分の気持ちをさらけ出せないように、 神様を信頼して身近に感じ、真摯に向き合っていない状態では、 文句も言えないのではないでしょうか??? この章では、私たちの思い・感情を神様に伝えて良いのだ、ということが示されています。 私たちは時に、神様の前から自分の罪深い身を隠そうとしてしまいますが、 神様は私たち一人一人が、 神様とコミュニケーションを取ろうと努める姿勢を奨励されています。 ですから、信仰を持つ者だからといって、何事にもただひたすら耐え忍び、 常に従順でなければならないということはありません。 時に神様に文句を言ってよいのです。 但し、神様に信仰深く訴えるよう注意しなければなりません。 信仰深く訴えるってなに 例えば、怒りのあまり他人を呪う、自分が努力をしなかったことを神様の所為にする等、 憤りの感情から罪を犯さないように気をつけなければいけない、ということです。 そして、神様に向かって憤りや悩み等の負の感情をさらけ出し、 自分の願いを知って頂く時にも、祈りの中で御心を求めること・・・。 うーん、難しいですね 要するに、祈りの結末が神様の約束、御心が叶うことを求めることがポイント でも…、罪にまみれている私は、自分の気持ちを一番にかなえて欲しいので、 理論では分かっても憤りの只中にいるときは、そんな風にはなかなか心から祈れな〜い しかし!!神様は、今起こっていることをご存知なので、 わけがわからなくなったら、それもそのまま神様に委ねて大丈夫なのです。 6節でも、「あなたの慈しみに依り頼みます」と神様に委ねられて、その章が閉じられています。 このように、行き詰って例え結果が見えない時でも、 神様に呟き、気持ちを聞いて頂いていいのですね。 そういえば以前、クリスチャンのおばあさんに 「神様に文句いってもいいんだよ、胸がすっとするでしょ、神様の恵だよ」 と、アドバイス頂いたことがありました。 私は人生後悔だらけ、皆や神様に向かいあうことが恥ずかしい! 穴があったら100回くらい入りた〜いと、よく一人であわあわしてしまうのですが、 そんな私(たち)でも、感情をぶつけることが許される程、 神様と親しい距離で対話することができる、という恵が与えられていることを、 学ばせていただきました。 マイクさん、日本語のレジュメまで作ってくださって、どうもありがとうございました〜 Last updated 2009年2月26日 12時14分12秒
2009年、二回目のミニスとリーでは、デイビッド先生がお話をしてくださいました 第一コリント人への手紙10:1〜13 <私たちの素朴な疑問 クリスチャンはイエスさまを信じるのだから、イエスさまが生まれる前の旧約聖書は別に読まなくてもいいんじゃないの? どうして旧約聖書も大切なの? <答え 私たちが昔の人たちから学ぶように書かれた。 ↑ 答えは一つだけじゃなくて、いくつかあるのだろうけど、今回の聖書箇所からはこんな答えが出てきました。 神さまは、奴隷として苦しんでいたエジプトの地から、イスラエルの人たちを連れ出してくださった。目をみはるような奇跡の数々が起こり、とうとうイスラエル人はエジプトから脱出します。 そんな神さまの奇跡を見たというのに、何か問題がおこるとブーブー文句を言ったり、神さまを疑ったりするイスラエル人。 私は昔、旧約聖書のイスラエル人の記事を読んでいて、よくこう思ってました。 「あんなにすごい奇跡を見たというのに、ちょっと何か嫌なことがあると、なんでこんなに神さまを疑って文句ばかり言うんだろう?なかなか学ばない人たちだな〜」 でもある時、わたしもイスラエル人と全く同じだということに気がつきました。 いっぱい賛美して、神さまってすばらしい!と感動して、「神さまが大好きです、神さまと一緒に歩みたいです!」と言った次の日に限って、なんだか聖書が読みたくないなあ〜と思ったり。 あの感動はどこに?あの信仰はどこに?? こんな例をあげたら、きりがない!本当にわたしもイスラエルの人たちと同じ、弱くてなかなか学ばない者なんだなあと思います。 旧約聖書はすばらしい信仰者、勇士ばかりが出てくる話ではありません。 むしろ、弱い人、失敗ばかりする人、落ちこぼれ、権威におぼれる王様、浮気する人、殺人を犯す人。。。そんな人がたくさん出てきます。 それは私たちが彼らから学ぶため。 彼らの失敗から学ぶために、あえて聖書は隠さず、私たちに人間の弱さも大胆に語っています。 そしてその弱い人間に対する神さまの大きな愛と義なる戒めも書かれています。 そんなことを今回のレッスンから学びました。デイビッド先生、ありがとう。 Last updated 2009年2月20日 8時39分15秒
参加者8人 全員クリスチャン!! という素晴らしい豪華メンバーとともに、ミニストリーを再開していくことができました 日本語で歌う賛美 最高でした そして、ハイチに宣教活動にいっていた Dさんの証は素晴らしかったです。 食べ物があたえられていること。 飲み物が与えられていること。 着るものが与えられていること。 住むところが与えれていること。 こんなことって、すっごく当然って思ってしまっているアメリカや日本に住む私たち。 でも、それが当然ではない国に住んでいる人々も一杯います。 そんな物質的にぬくぬく環境にいて感謝を覚えることなく、心が麻痺している私たち。 そうだ、そうだ。 感謝の心 改めて覚えていこう 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。 ピリピ4:17 主を愛する。 主に感謝する。 神様は私たちのその心を求めていらっしゃるのですね。 何か具体的に行動をし続けるとか、お金とかそういう物質ではなく、心を見てくれる神様 ありがとう 主よ、私たちはあなたを愛します。それは、あなたが私たちを愛してくださっているからです!! アーメン Last updated 2009年2月8日 15時2分30秒
親愛なる皆様 Dear My Fiends ご無沙汰しておりました。皆様いかがお過ごしでしょうか?新たな年2009年を迎え、心機一転ど同様に、私たちの日本人ミニストリーも新たな出発をさせていただきたいと思います。 How have you been? I hope all of you have been doing good.Well, it has been alrady about one months since 2009 started and finally we are ready to start JM for 2009! ファーストバプティストのメンバー代表として、牧師ビルと その秘書ナンシーの応援のもと、私がFBCO代表 そして、デイビッドが顧問。 マイク、ジェン が専門講師として入ってくださいます。 I is going to be a representative of JM for this year and we have David as a counslor and Mike and Jen as biblical adviser under supervision of Pastor B and his secretary Mis.N from FBCO. 正直なところ、これを機会にミニストリーを終了させてしまおうと思っていました。 To be honest with you, I was thinking to quit this ministry during winter vacation. しかし、日本語でみことばを学び、祈り、周りの人とシェアしていくことの大切さ、力強さを覚えます。However, I realized how much important for us to learn God's words in our own language, pray and share the gospel! Language, just itself, has power. That is another special tool that God has given us:D そして数の多い、少ないにかかわらず 様々な方から この日本人ミニストリーで励まされたとう証をいただくなかで、主の御栄光のためにFBCOからのサポートのもと、奉仕をさせてもらいという決断をしていくことができました。 I was also encouraged by those who left comment for our ministry and let us know how much this ministry could be used to reach out, encourage and noulish each of attendant's faith. 本日、ビル牧師とも話し、日本人ミニストリー今年度は以下のような聖句目標を掲げて行きたいと思っています。 I met Pastor Bill today and raised these verses as this year's verse for our ministry. ルカ15:4−6あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか?見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰ってきて、友達や近所の人たちを呼び集め、"いなくなった羊をみつけましたから、いっしょに喜んでください。"というでしょう。 Luke 15:4-6"Suppose one of you has a hundred sheep and loses one of them. Does he not leave the ninety-nine in the open country and go after the lost sheep until he finds it? 5And when he finds it, he joyfully puts it on his shoulders 6and goes home. Then he calls his friends and neighbors together and says, 'Rejoice with me; I have found my lost sheep.' お一人お一人が本当に主に触れられて、主からの素晴らしい祝福、恵みそして光に満ちた体験をともにしていきたいです!! I expect that we can experieneGod's blessings, grace and share the delightful life together with God! 前代表の 素晴らしいクリスチャン姉妹であるFさんがいなくなってしまう分、たよりないミニストリーかも分かりませんが、お祈りに覚えてもらえたら感謝です。 Our wonderful great sister, Miss N, is not with us, so our minisry might become a little bit less powerful for missing her; but we believe that God leads us.I appreciate if you remember our ministry and pray for it. そして、過去2年間 力強くこのミニストリーを指揮してきてくださった姉が今後より主に高く用いられていくように 是非お祈りをつづけてお願いします。 Also, I would like you to pray for Miss N who had been graciously leading this ministry for last 2 years so that she will be guided and used to glorify God more! 定期的メンバーにかかわらず 裏で支え、祈りささえてくださっている方々にも心より感謝申し上げます。今後ともよろしくお願いします!! I am thankful to people who have been praying for our ministry and supporting us as the backstage personnel as well. Thank you very much:) 晴れて2009年初回を迎えるのは Here is new information of our ministry. 日にち: 2月6日 金曜日 時間 : 午後7:00から8:30 場所 : ファーストバプティスト オブ オーランド: E-2 building Room 215 Date: Feb 6 ( Fri) : every Fridays Time: 7:00-8:30 pm Place: First Baptist Church of Orlando E-2 building Room215 これから毎週この曜日と時間になります。 This is going to be a weekly thing. お子様づれの場合、以前同様に前もって その週の火曜日までに連絡いだたけると幸いです。ご協力よろしくお願いいたします。 Please let us know how many kids would be able to come in the case you bring your kids in advance. I appreciate if you can tell me till Tuesday of the same week, では、来週の金曜日にお会いできることを楽しみにしています!! Then, I am looking for ward to seeing you on Feb 6!! 主の祝福がありまうように。 Last updated 2009年2月4日 11時13分38秒
詩篇46 1節 ”避け所” 神はわれらの避けどころとなる。 避けどころどいうことがどのように私たちの心を納められるか? 避け所=安全な場所。避難場所。信頼できるところ。 ダビデは600人くらいが入れる洞窟に行って、敵から免れるために行っていた。 ”力” 自分が弱くて、衰えたとしても、神様が”力”を与えてくれる。 支えられている。 Q1: 力を失ったとき、どのように神様は力を与えてくれるでしょうか? フェローシップ(主の愛に基づいた兄弟姉妹との交わり) 聖霊(聖霊には力がある。聖霊を浴びる) ”苦しむとき、そこにある助け” Q2: 苦しんでいるときに抱く、私たちの心に起きる間違った気持ち。 神を責める。 神への感謝を忘れる。 神様の性質を忘れる。 私たちが苦しんでいるとき、神の存在が遠く感じる。 しかし、神様は実は苦しみのとき、近いところにいるということを覚えることが大切。 聖書の中で、一人だけ神様から見放された人がいる。 =イエス様。 イエスが十字架にかけられたとき、イエスは神様に叫んだ。 ”神様どうして 私を見放されたのですか?” 2,3節 私たちが遭遇する自然災害を示しているが、同時に私たちにも自然災害以外で起こる地震がある。 例)離婚、交通事故、借金 など 4章: ヨハネ7:37−38 川:聖霊を示す。 苦しみのときに、神が聖霊を流し私たちを癒してくれる。(クリスチャンに与えられている特権) クリスチャンもノンクリスチャン同様に、苦しみを受ける。でも避け所がある。助けが与えられている。 私たちに力を与える4つのポイント 聖書、祈り人、聖霊、交わり クリスチャンの生活は体のつながり。互いに苦しみを分かち会う、励ましあい続けることが大切。 Last updated 2008年5月12日 7時50分22秒
今日は、『いけにえ』についてお話をさせていただきたいと思います。 日本人が『いけにえ』と聞くと、少し難しくて、私たちの日常生活にも関係がないように感じますが、『おそなえもの』とか、『神に捧げるもの』、と言い換えれば分かりやすいでしょうか。『いけにえ』とはわかりやすくいえば、『神への捧げもの』です。 たとえば、日本では、お寺や神棚やおじぞうさんがいたるところにありますが、自分が仏や神に向かう時、いつも手ぶらで行くでしょうか。お花や水をそなえたり、果物や、お賽銭などでお金を捧げたり、お香をささげたりするのが日本でも普通ではないでしょうか。 旧約聖書、新約聖書を読みますと、紀元前何千年、なん百年も前から、人は、神に捧げものをしていた、『いけにえ』をかみにさずけていたということが分かります。聖書を読むには、この神に捧げる行為、『いけにえ』のコンセプトを理解しないと、聖書を読んでも意味が分からないことがたくさんあるかと思います。それだけ聖書には『いけにえ』がたくさん描かれているからです。今日は皆様と一緒に『いけにえ』について少し学んで、みなさまが聖書を読んだときに、聖書の意味がより深く分かる助けになればな、と思っています。 では、『いけにえ』、『神への捧げもの』の目的は、一体なんでしょうか。なんのために、人は神にいけにえを捧げるのでしょうか。 聖書ではおもに、『いけにえ』を捧げる目的は、人の罪をおおうという意味と、神のいかりをなだめるという意味が含まれています。(expiation & propitiation) 今日は『人の罪をおおう』ことに、焦点を当てて聖書を見て行きたいと思います。 まず、おおわれなければならない人の『罪』についてです。聖書にはこう書かれています。 『この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいない。』 (伝道者の書 7:21) 神様によって創造された最初の人間「アダム」は罪のない『聖い人間』でした。神様を個人的に知り、神様と話をしたり、神様との関係が豊かに祝福され、平安の中生活していました。 しかし、サタンの誘惑に負け、「自分は神のようになり自分で善悪の判断をして生きていく」という道を選んだのです。その神に背く道を選んだことにより、聖い人間であったアダムに罪が入ります。そして、アダムを通してこの世にも罪が入り、その罪の罰である『死』もこの世の中に入ってきたのです。そしてその子孫である私たちは「神の存在を知らずに、神に背を向けて生きる」というDNAが受け継がれています。 罪人は、それぞれが自分を「神のような存在」と思い込んで生きているのではないでしょうか。努力したならなんでもできる、叶うとかですね。 聖書のいう「罪」とは法律をやぶる違法行為の意味だけでなく、たとえば、盗難や殺人も罪ですが、もう一つ重要な意味があります。 「原罪」とも言われているその「罪」とは、「神様に背を向けて生きる」こと、それが罪です。自分の思うままに生きる、その神に背を向ける行為が、聖書のいう罪であります。 聖なる神様と罪が関わることは一切ありません。聖なる神様に、罪のある人が近づくことはできません。罪によって壊れた神との関係を修復するには、罪をまず解決しなければいけません。 では、アダムが失った『罪のない聖い人間のいのち』を回復するためには、どうするべきなのでしょうか。聖書は、こう言っています。 『いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。』(申命19:21) 罪のない聖い人間のいのちを回復するためには、罪のない聖い人間のいのちを神に捧げなければ回復できません。『いのちには、いのち。』 といっても、さきほど申し上げましたように、この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいないと学びました。では、紀元前、罪人である人は、どのようにしていたのでしょうか。 たくさんある中から一つ見てみたいと思います。いけにえの話が書かれています。旧約聖書、レビ記1:2−5。 『「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。』 ポイントを見てみましょう。 3節 ? いけにえとして捧げられる動物は、『傷のないもの』でなければなりませんでした。 4節 ? 『その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を購うため、彼の代わりに受け入れられるためである。』、とあります。これは、手をいけにえの上に置くことによって、いけにえを捧げる祭司の罪、人の罪が、人から動物へと移されることを象徴しています。 5節 ? その傷のない、ひとの罪を背負った「いけにえ」は、主の前で殺されなければならない。『いのちには、いのち。』そして、その血をとって、祭壇の周りにその血をそそぎかけなければなりませんでした。 これが、一般的な旧約聖書に繰り返し出て来る『いけにえ』の一例です。 罪のために必要なものは、動物ではありません。このような、いけにえの「儀式」でもありません。なにが大事なのか。それは、動物から注ぎ出た『血』が大切であると、聖書は言っています。 レビ記 17:11 『なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で購うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして購いをするのは血である。』 ヘブル人への手紙 9:22 『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』 いのちの象徴が血であります。血がないと、罪の赦しはありません。 しかし、このいけにえの儀式は繰り返し繰り返し、何回も、何回も行わなければなりませんでした。なぜか。それは、人の捧げるいけにえは、罪のなだめものとして、神を完全に満足させることができなかったからです。 ヘブル人への手紙 10:11 『また、すべて祭司は毎日立って礼拝の努めをなし、同じいけにえを繰り返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることが出来ません。』 ヘブル人への手紙 10:6 『あなたは全焼のいけにえと、罪のためのいけにえとで満足されませんでした。』 ヘブル人への手紙 10:4 『雄牛とやぎの血は、罪を除くことが出来ません。』 はっきりと、動物の血は罪を除くことが出来ないとあります。そのいけにえによって、 神様は罪を完全に解決するのではなく、 過越のように、罪を見逃して来られただけなのです。 では、神が満足しない『いけにえ』を、なぜ、祭司は何度も捧げていたのでしょうか。 ヘブル人への手紙 10:1−3 『律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることが出来ないのです。』 『もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。』 『ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。』 後に来るすばらしい実物が来るまで、いけにえの儀式は続きました。旧約聖書のいけにえは、神を満足させる、罪を本当に清めることの出来るいけにえではありませんでした。ただ、後に来る、神を完全に満足させる、最高のいけにえのひながた、影、比喩、にすぎなかったのです。 では、本物の、実際のいけにえとは、何でしょうか。神を最高に、完全に満足させる過去、現在、未来、すべての罪を完全に赦す力のある『いけにえ』とはなんでしょうか。 それは、イエス・キリストの血です。 第一ヨハネ 1:7 『しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光りの中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』 エペソ人への手紙 1:7 『この方(キリスト)にあってわたしたちは、その血によるあがない、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。』 ペテロの手紙 第一 1:18−19 『ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方からあがないだされたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』 1、神の子であるキリストは罪のない人間でした。(ヨハネ第一 3:5) 2、わたしたちの罪とすべてののろいとを、その身に負われました。 (ペテロ第一2:24) 3、 十字架の上で殺されました。そして、私たちのために血を流されました。 旧約聖書にあったいけにえは、人が用意しました。傷のない動物を探しまわって、一番良いものを選んだのです。しかし、人が用意したいけにえは、どんなに努力しても、神を満足させることができませんでした。何をやっても、聖なる完全なる神の目からすると、いたらない、欠けているもの、ということです。良い行いでもっても、哲学や、お金や、ポジティブな生き方や、なんでもっても、人の全力で用意したものは、罪の赦しや、義や、天国への切符や、平安や、神様との和解を勝ち取ることが出来ません。昔ささげたいけにえのように、それらは本当に良いものの『影』でしかなく、自分の力や努力だけでは、罪を自分で背負ったままであるということです。 しかし、神様ご自身が、完璧ないけにえを私たちのために用意してくださったのです。神が私たちを救うためにはまず、罪を解決しなければいけませんでした。しかし、人の努力では十分でなかった。そこで、神が私たちを救うためにいけにえを用意してくださいました。それが、イエス・キリストです。キリストの完全ななだめものであるいけにえにより、罪のためのささげものはもはや必要ありません。ヘブル 10:18) 神様は、私たちを愛するがゆえに、また、私たちを永遠の滅びではなく、永遠の祝福へと導くために、自分の御子であるキリストをこの世に送りました。そして、神の御子であるキリスト、神ご自身が、進んでいけにえとなり、私たちの罪をその身に背負い、十字架に架かって死んでくださいました。そのキリストの血潮によって、私たちは癒され、罪が赦され、神様と和解することが出来、永遠の命をいただくことができるのです。 信じない者にならないで、信じる者になりなさい。 イエスキリストの言葉 ヨハネの福音書 20:21 Last updated 2007年12月20日 0時32分2秒 |一覧| |
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