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じゅんぺいの潤滑ブログ

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2006年04月27日
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カテゴリ:文芸情報

24日(月)オラが入っている雑文集団「遥」の例会があり行って来ました。新人2人が参加し、これから大いに飛躍を誓い合いました。写真は遥23号です。

遥23号

 エッセイ「我居住環境変遷史」2

 高校を卒業した私は、「とりあえず働きたくない」という下卑た理由から、好きでもないとある大学の商学科に入学した。その頃私の姉は神奈川のT大学に入学しており、秦野市というところに住んでいた。私の大学も横浜市にあったため姉と一緒に姉の借家に住むことになった。その借家は小田急線の鶴巻温泉駅から歩いて10分程度のところにあり、まだ借家の周りは田圃が広がり、夏には「グワァ・グワァ」と蛙の鳴き声が聞こえてくる田園地帯にあり、借家のすぐ上には東名高速道路が通っており、夏の暑い日など窓を開けて寝ると「ゴオー・ゴオー」と長距離トラックが走り、はじめはうるさくて寝られなかった。

 借家は、六畳と四畳半と台所・バス・トイレつきでとりあえず一戸建てであった。当時としても一戸建て3万5千円というのはかなり安いものであったが、すぐ頭上を東名高速道路が走り、常に騒音とともに暮らさなければならないロケーションならではの家賃であった。六畳の部屋が姉の部屋で四畳半が私の部屋であった。借家の周りには何軒かの温泉旅館があり、東京近郊の「連れ込み温泉旅館」という風情があった。

 当初、服を入れるファンシーケース以外はほとんど家具などなかった私は、自分の部屋に何か家具が欲しいと考えていたが、ある朝家の近くのゴミ集積所に、茶箪笥が置いてあったのを見つけた。よく見るとそれは粗大ゴミであり、ベニヤ化粧板作りであまり高いものではなかったが、「どうせ投げているものだから」と思い、他人の目を盗みながら、その茶箪笥を借家に運び込んだ。姉からは「そんなゴミ拾ってきて」と叱責されたが、それまで積読ままであった本が、本棚代わりの茶箪笥に収まった。これに味をしめた私は、ゴミ集積所を度々見て周り、使えそうな家具や電化製品などを拾い集めてきた。こんなことは、とても実家ではできそうにもないが、「どうせ仮の住まいだし、周りは誰も知らない人ばかり」という気持ちがゴミ漁りをさせていたのだと思う。

 その年の6月であったと思う。高校時代からの悪友3人が私の部屋に遊びにきた。Iは姉と同じT大学に通っており、その他東京に来ている当時予備校にいたKと栄養士学校にいたYと4人で飲み、外にラーメンを食べにいこうと夜中の町に出て行きラーメンを食べ、その帰り道で、近道をしようと田圃のあぜ道を通って歩いていると後から「ギャッー」という悲鳴が聞こえるではないか、驚いて後を振り向くと、Iが田圃に足からズボズボと浜っているではないか。「ギャハギャハ」と笑いながら、ひっばり上げようとしたが、今度は私も一緒に田圃に入ってしまった。二人とも靴はドロドロになってしまい、どうしようかと歩いていると、自宅近くの温泉旅館の温水プールが目にはいった。「よしここで少し、洗っていくか」と二人して入ろうと柵を乗り越えて裸になり温水プールに入った途端、YとKとそして一緒にプールに入っていたはずのIまでもが、「コラッ誰だ!温水プールに入っているのは!」と叫ぶではないか。ビックリしてとりあえずパンツだけはいて服は持ったままで半裸の状態で柵を乗り越え、とにかく家まで無我夢中で走った。家について「ハァハァ・ゼイゼイ」としているとあとから3人が笑いながら帰ってきた。

 まあ楽しかったのはこの頃までで、あとは私がとある新興宗教につかまって、そこをやめるために大学をやめて、新しい大学に入るために受験勉強に入り、予備校に通ったが、そこもやめて結局実家に強制送還されたのは19歳の秋であった・

 高校時代まで過ごした家は、そのままのあったが、母は私の卒業を機会に下宿屋を食事・弁当を作らなければならない高校生相手から自衛隊に変え、手作りのパン・ケーキ屋を開業し、ほどなくしてその下宿屋もやめた。親父は自衛隊を退職して、碁盤・将棋盤作りをしていた。18年間生まれ育ったわが家が、これほど疎ましく思ったことはなかった。自らが蒔いた種とはいえ、青春まっさかりのこの自分が、漆にかぶれながら、碁盤・将棋盤作りを一日中作業場となった元私の部屋だった場所で手伝っている。その当時私にとって未来はまったくなかった。「もしかして一生、この家に囚われて生きるのか」と考えただけで、気が重くなった。

 しかし転機は意外なところから来るものである。蟄居している私の身を案じて、隣に住んでいる叔父が国鉄バスの車掌のアルバイトを紹介してくれ、そこから国鉄バスの入社試験に合格し、80年の4月1日には、岩手県のK自動車営業所に採用され、そこの独身寮に入ることになった。いままで親や姉を含めて肉親と暮らしていた私にとって、「家」からの呪縛から解き放たのであった。

 寮は営業所から道路隔てて15秒というところにあり、まさしく職住一体であった。寮は一人部屋で、食堂、娯楽室、風呂等が完備していた。寮生活は、とにかくシッチャカメッチャッカな日々であった。とにかく酒浸りの日々を過ごした。当時初任給が、8万円というなかで月5万円も酒代を使っていた。寮ではとにかくその日いる若手が、買出しをして鍋などの支度をする。酒の買出しは、すぐそばにあるTという酒屋に電話すると、すぐ持ってきてくれた。そして酒代は大体均等になるように、それぞれがつけて調達した。

 また寮では当時、釣りが流行っており、川釣り・海釣りなどで釣ってきた魚を焼いたり、刺身にしたり、鍋にしたりと海の幸で宴会は盛り上がった。

娯楽室で始まる酒盛りは大体ビールから始まって、日本酒・ウイスキー・ワイン・焼酎など何でもチャンポンで飲んだ。当時はカラオケが流行りだした頃で、就職して一番先に買ったのは、カラオケセットでそのカラオケセットで飲んで歌った。そして金がある賃金日のあとなどには街に繰り出していった。またとある夏の日には、今日は「大生ビール大会だと朝から寮の庭でバーベキューをやりながら夜中まで飲み続けた。確かそのとき八人で50リッターくらいは飲んだはずである。

こうした暴飲暴食の結果、寮に入って半年で10キロも一気に太ってしまい立派なデブの仲間いりをしてしまった。

寮というのは非常に封建的なもので年功序列そして長幼の序ということで採用が遅く、さらにあとに入ってきた後輩2人が、私より年上だったため、いつまでも使い走りは私の仕事であった。

寮にはさまざまな人たちがいて、とにかく酔っ払うと何をするかわからない人たちの集まりでもあった。ある朝、M先輩の部屋にいくと、広告宣伝用の女性の人形が置いてあった。先輩に聞いても「どこから持ってきたかわからない」という。またある日あるN先輩とスナックに飲みにいったとき、そこの客と喧嘩になったらしく、血相を変えて「やばい逃げるぞ」とそのスナックを飛びでた。そしてタクシーをとばして寮の前にくると、いきなり寮の玄関からスコップを取り出し、「ホレオメェも持て」とスコップを私に渡した。

「何するんですか?」と聞くと、その先輩は「さっきの八戸の奴だ。あれは絶対ぼってくる。あれば返り討ちにしねばねえ」と言い、スコップ片手に「こら八戸来い」と雄たけびをあげたが、その八戸は夜が明けても追ってこなかった。

 寮は朝・昼・晩の食事が出て、しかも泊まり勤務のときなどは弁当もつくってもらえたので月の食費は1万円もかからなかった。

寮にいると当然女人禁制である。しかしY先輩(とはいっても私と同じ年だが)は、すごいプレイボーイだったが、まだ低賃金の身、そうそうラブホテルにも行ってられず、夜中にこっそり付き合ってる女性を自分の部屋に連れ込んでいた。本人達は抑えているつもりであったもしれないが、あえぎ声が廊下に漏れだしていた。

それなりに楽しい寮生であったが、電話も公衆電話で誰から電話が来たかわかるなど、ほとんどプライバシーもなく、いつまでたっても「使い走り」と仕事の延長のような状況が続いた。そして、そのころ地区労運動などで国労以外の人たちと付き合う機会が多くなるにつれ、この寮生活が自分にとって非常にうっとうしく感じて、23才のときに岩教組の大先輩の屋敷の一角にある「離れ」に転居することとし、初めて一人で生活することになった。(続く)






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最終更新日  2006年04月27日 06時06分44秒
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