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2006年04月29日
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カテゴリ:文芸情報
我居住環境変遷史(四・蛇足)じゅんぺい

 国鉄バス仙台自動車営業所に強制配転になり、1987年3月15日に着任し、営業所の隣にある宿舎に引越ししてきた。引越しした日は、誰も仙台自動車営業所の人たちは手伝いに来ず、国労仙台地本青年部の仲間を中心にして、引越しの手伝いをしてもらった。当時、独身者は独身寮に入ることになっていたが「当局の都合で勝手に配転したのだから、宿舎に入れろ」と主張し、部屋数が3つある宿舎に入ることが出来た。

 当時、4月1日の国鉄分割民営化を直前にして、当局の目論見がはずれ、「定員割れ」をしたために、「採用したくなかった」人材活用センターに入れられていた国労の活動家などを中心にして、強制配転がされており、遠くは私の青森をはじめとして、秋田県や福島県の会津若松等、多くの仲間が仙台に強制配転されてきており、その多くは「青葉寮」などの独身寮に入れられた。

 同じ、配転された境遇の仲間として、私の宿舎が溜まり場になるのにそう時間がかからなかった。当時仙石線の宮城野原駅のすぐそばにあった宿舎は仙台駅にも近く、それぞれの職場にも近かったために、1人2人と泊まっていく人間が増えていき、一番泊まったときは7人も泊まったことがあった。そうなると布団が当然足りなくなるわけで、国労会館から、管理人さんの許可を得て、古い布団を借りてきて、そこに寝泊りしていた。

 とにかくそういう状況なので、宿舎に帰ると誰か彼かがいて、「誰の家かわからない」ような状態であった。夕食などは、みんな割り勘で支度し、鍋とか焼肉とか、色んなものをつくって、飲んで食べた。毎日が居酒屋状態であった。

 仕事はしばらくぶりでバスの運転に復帰できた。ところが、人材活用センターに入れられて、数ヶ月バスの運転をはずされて、右も左もわからない仙台の地で、国鉄当局は、考えられないようなことをしてきた。まず路線見習として、築館町までの北路線と丸森町での南路線とを1日ずつ、路線バスを運転する人の後ろで行い、3日目と4日目には指導運転手がついてはいたが、数ヶ月ハンドルをもったことのない私を、乗客を乗せた路線バスに乗車させたのである。私は数ヶ月、ハンドルをもっていないし、初めての路線だから、1回空バスで、実車訓練させてくれと頼んだが、それも無視された。そして5日目からは、なんと路線も停留所もよくわからない私を一本にして、一人で乗車させたのである。

 当然、これだけの訓練では、路線や停留所がわかるはずもなく、仕事を終えてから、自家用車で北と南の路線を自分で走った。一本になる日が来た。なぜかその日、点呼の助役はニヤニヤ笑っているように感じられた。仙台市内はまだいいとして、仙台を離れるとどちらの道に行っていいかわからなくなった。お客さんに、「次は、どっち曲がるんですかね」と聞いた。聞かれた客はビックリして「運転手さん道わからないの?」と聞いてきた。教えてもらってことなきをえたが、「路線バスの運転手さんに道聞かれたのは初めてだ」と言われ、仙台までの強制配転とこの乗車までの経緯を話すと、「そんな道もわからない、停留所もわからない運転手を乗車させるなんてひどい」と憤っていた。停留所がどこにあるのかもわからないので、お客さんに聞きながら運転をする始末。また、数ヶ月ぶりにハンドルを握ったことと、片道一車線しかなかったO自動車営業所の田舎道と片道5車線もあるような、大都市仙台のしかもわからない道路である。運転している当人もさることながら、そういう運転手のバスに乗車させれたお客もたまったものではなかったであろう。

 当時、採用したくなかった私を、色んな口実で処分したいと「虎視眈々」と狙っていた国鉄当局は、あろうことか乗客の安全や命より、私が事故やトラブルを起こすことを期待して、このような仕打ちにでたのであった。当時の国鉄当局の非人間性を象徴する出来事であった。 しかし、国鉄当局の「期待」した事故もトラブルもなく、4月1日のJR発足を迎えたのであった。

 当時、バスの宿舎には、岩手県の遠野の営業所から配転させられてきたKさんという女性も子ども二人とともに住んでいた。Kさんは、国労を脱退して鉄産労にいったものの、当時の「女性はいらない」という当局の方針のもと、遠く離れた仙台営業所に配転させられた。また昔、国労の青年部で一緒にやったSという独身青年もいた。

 組合が違うものの、同じ配転された者同士、また同じ独身同士ということで、それぞれの宿舎を行ったりきたりするうちに、今のJR会社に対する不満や新しく出来た鉄産労に対する不満などを、語り合うなかで、私のところに居候している仲間や国労東北自動車支部の役員も加わり国労復帰のオルグを行い、前述の2人とあわせて、3人が国労に復帰することとなった。

 実は、これには伏線がある。鉄産労の分会長を行ったBさんという人が、ある日乗務中に事故を起こした。当局は、制限速度30キロのところを45キロで走行していた(バスのタコチャートでわかる)として、Bさんを1ヵ月、乗務停止にした。しかしバスのダイヤは、常時10キロ以上スピード違反していなければ、間に合わないダイヤが組まれており、速度超過を理由に処分することはそういうダイヤを組んでいる当局の責任をまったく省みないものであった。

しかし、当時の鉄産労はなにもせず、傍観していただけだった。私は、当局に「あんたがたのダイヤ通り走ってスピード違反をして事故を起こして処分されるなら、スピード違反はしない」と言った。Bさんへの処分の抗議の意志もこめて、それから制限速度を守って走ることにした。当然、時刻表どおりに走れないので、バスの時刻表通りに走れなくなる。お客からは「なんでこんなに遅れるんだ。ヘタクソ」とまで言われながら、制限速度を守って走っていることを説明し、「問い合わせは仙台の自動車営業所にしていただけませんか」とお客に話した。当然、抗議の電話が営業所に行くことになる。そこで、あらためて当局に言うのである。「私はここにテープレコーダーを持ってきています。スピード違反しても運行ダイヤを守れというなら、業務命令に従います。だけど、そのテープを警察署と陸運局に持っていきますよ」と言うと、黙ってしまった。また一つ余禄があった。それは遅れ超勤といって、遅れた分の時間が、超過勤務となって積み上げられて、月に8時間近くなり、休日出勤を一日するくらいの超勤がついた。そういうことだから、「制限速度守って超過勤務」は私のスローガンになり、鉄産労組合員のなかにも同調する人が出てきた(私ほど極端ではないが、処分の一件以来、みんな当局に対する不満がたまっていたのであろう)。当時の乗客には大変迷惑をかけたことになり、今思えば大変お客には申し訳ないと思うが、運行管理に全く責任を持ず、運転手にだけ、しわ寄せをしてくる合法的な抗議であったと思う。そういうなかから国労を脱退し、鉄産労にいった2人の運転手が「国労の運動は正しい」として国労に復帰してくれた。

また、強制配転させられたKさんは、新しい組合の鉄産労が、元職場の「遠野への戻せ」という闘いをしてくれなかったために、国労に復帰し、他にも同じように地元から遠くはなれた営業所に強制配転させられた女性2人とあわせて3人で裁判闘争を戦うことに成った。結果として、計4人の国労仙台自動車営業所分会を立ち上げた。

びっくりしたのは、JRである。遠く離れた国労組合員が1人もいない「仙台自動車営業所」に強制配転し、嫌がらせをしたつもりが、逆に国労組合員の3人復帰という会社にとってはもっとも好ましくない結果になってしまったのである。また私だけでなく、そのように強制配転させられたバスの活動家の仲間は、行った先々で国労への復帰を勝ち取っていった。当局のやったことは「病原菌(私たちは病原菌とは思っていないが)」を拡散させ、増殖をさせた結果に終わったのである。

ここで当局は労務政策を変えた「病原菌は完全排除か逆に1ヶ所に固めろ」である。翌年1988年4月1日、JRバスはJR東日本の完全子会社として「JRバス東北株式会社」として発足したが、私を含め、国労の支部の役員を中心に5人が、新会社に採用(出向)させられず、私は東北本線仙台駅から1つ盛岡よりの東仙台駅という中間駅に配転させられた。ここの駅は駅長1人、助役2人という管理職しかいない駅であり、国労の組合員を拡大しようにも拡大できない職場で、ある意味では完全隔離であった。他の仲間は国労が多いレール側(当時、バスの人はこう呼んでいた)の職場やJR東日本直営の売店(ここもほとんどが国労組合員)などに配転させられていった。私たち5人は、地労委に「不当労動行為」として訴えた。

また、いまでもその当時のことで鮮烈に記憶に残っていることがある。当時87年の2月だったと思う。Hさんという運転手が出勤してきた。そのHさんは前の日少しお酒を飲みすぎていたらしく、酒の匂いがしていたらしい。それを同僚のTという運転手が気づいた。普通なら、そのHさんに対して「酒の匂いがするよ。ちょっとやばいんじゃないかな。いまから休んだら」などと言うだろう。それを本人には言わず、点呼をしている助役のところに行って「Hは少し酒臭いから、アルコール検知をしたほうがいい」と言った。Hさんは、酒臭いと検知器にかけられ、数値が出て、そのまま乗務停止、そして1ヵ月の停職の処分が出された。当時、このKとHさんは、貸切バスの運転を主に行っていたが、年長のHさんの方に、いい条件(金になる)の貸切業務が行くので、「Hを追い落とせば、自分にいい貸切が来る」ということで、当局に諫言したのであった。まさに一人ひとりの労働者が「自分のことだけを考え、自分だけが良くなりたい金が欲しい」と競争に走れば、平気で仲間(しかも同じ労組)を売るようになってしまう。本当に労働組合が形骸化され、もしくはないところは、このように人間性まで破壊されていくのか思った。

そういう意味で、もっと労働組合の団結と連帯を口だけじゃなくて、本当に信頼できる仲間としての団結を作っていくことがいま求められているような気がする。少なくとも同じ労働者同士が自分の生活を良くするために、仲間を蹴落として自分がのしあがっていく、「自分さえよければ他の仲間はどうなっていい」というところをなくしていかなければならないと思う。

ちょっと居住環境とは大きく離れて、当時の国労の活動状況報告みたいになってしまったが、次回は居住環境を中心に書くこととしたい(続く)。






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最終更新日  2006年04月29日 08時12分09秒
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