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カテゴリ:文芸情報
我居住環境変遷史(六)じゅんぺい 90年4月1日から、青森市に住むことになり、まずアパート探しから始めた。3月に、青森に来たときに不動産会社に行き、部屋探しを始めた。 それまでは、K市時代の家賃一万の住宅地図には「小屋」と載っている借家、M市時代の築25年近く経つ実家、そして仙台時代の築35年以上経つというJRアパートと、総じて古い家に住んでいたので、新しい家に住みたくてたまらなかった。実は仙台時代も勤務している東仙台駅の近くに借りようと思ったが、賃金の半分くらい出さなければならずとても、新しい所に住むことなど出来なかった。 そこで「新しい家に住みたい」という欲望が渦巻くなかで「部屋探し」をした。しかし職場の近くのA町周辺は、新築や築1年というアパートはとても高く、しかも駐車場を含めるとちょっと私の低賃金では、無理であった。そこで当然、視点は郊外へと移る。 「郊外なら、実家に近い東部地域がいいな」という単純な理由で、東部地域を探すと、矢田前の盲学校近くに築1年、2階建ての2階で6畳の和室と10畳のLDKというシュチェーションで4万3千円というところがあった。そのころフローリングの部屋に憧れていて一回フローリングの生活をしたいと思っていたので、職場から6キロとちょっと離れていたが、借りることにした。 4月上旬引越しをした。前の日、仙台で積み込みを終えたトラックが翌朝、青森に到着する手はずで、私は前日、仙台の国労の仲間が開いてくれた送別会に出席し、その後二次会か三次会あたりまで行って、その日は小田原寮のOの部屋に泊まった。何時に帰ってきたかわからないが気がついたら、朝の4時半を過ぎていた。その日の朝の9時にトラックが新しいアパートに着く予定だったので慌てて、高速道路で青森に向かった。朝は道路もすいており確か3時間くらいで着いたと思った。 引越し当日、職場の人を中心に、たくさんの仲間が手伝いにきてくれて、午前中くらいで引越しは終わった。仙台へ強制配転された時とは大違いであった。当時、私が仙台から青森に来るのとほぼ同時に職場もH町から現在のA町に引越しをして新築ピカピカになっていた。 新居での生活は快適そのものであった。シャワーもひねればすぐ出てくるし、何よりほぼ新築で綺麗な部屋だったこと。また新たに買ったソファーベッドもベッド生活に憧れていた私を満足させた。そして、JRの退職金の一部で買った衛星放送テレビとWOWOWを契約した。映画が好きな私には最高であった。ほとんど毎日のように、ビデオ録画しては、「いつか見よう」ととっておいた。しかし、ほとんど見る暇がなく、10本中1本見たか見ないかで、ほとんど録画だけで終わっていた。現在は5年くらい前に、ビデオは壊れて、それでも見る暇がないので直すのでもなく新しく買うでもなく放っておいている。(昨年10月DVDビデオを購入。写らなかったBSもブログ仲間のゆうとでんさんのおかげで4月26日から観られるようになりました。ありがとうございました。ゆうとでんさんヽ(=´▽`=)ノ)。 このようにいいこと尽くめの新居ではあったが、ただ難点は、職場と遠いということであった。仕事柄飲みも多く、そういう時は、タクシーで帰って翌日はすぐそばにある弘南バスの営業所発のバスで出勤するか一時間かけて歩いていくかしていた。また矢田前駅も近かったので、たまにJRも利用するなど交通の便は割りと良かった。冬は常に階下の住人がいるようで、夜中遅く帰って来てもポカポカと暖かく、暖房代がかなり節約できた。 私の仕事は、のべつ幕なし会議やオルグや行事が続き、今まで仕事(JR)を終えてから、運動をしていて、気持ちがいずれにしても切り替えることができたが、仕事=運動という専従の仕事は、どこからどこまで仕事でどこからどこまで運動がわからないという側面を持っていた(ぶっちゃけて言えば、いつでも仕事という感じだが)。 その事件が起きたのは、もう1人いた専従の先輩がやめて、専従1人になって迎えた2年目の91年の夏のことだった。数年前から始まっていた「反核平和の火リレー」を休みごとに走るというのを、県内を毎日走りつなぐという方式に変えた。しかし、笛吹けど踊らずでなかなか準備も進まない、人も集まってこないという焦燥感から、ついに私は登社拒否になって2日ほど、職場を休み、「もう専従なんてやりたくない」と決意し、逃げ出す決意をした。行くところは「北海道がいい」と北海道のマップを買い、貯金を30万円下ろして、今夜「決行」というときに、いきなりドアを叩く音がした。先輩の専従や臨時雇用の女性そして仲間が数人が入ってきた。ドアを開けるなり、「良かった。まだいだか」という声があがった。「こんなに夜遅くなんですか?」としらばくれると、「なに言ってんだ。全部オメのやることワガッテンダぞ」と言われた。なおも「ハァ?」としらばくれると、「オメ逃げる気してたべ。K子ちゃんから電話があって、2日間職場に来ないって、ホレオメのそのスポーツバッグなんなんだじゃ」と居間に置いてあった旅行用のスポーツバッグを指差した。全部ばれたと思って、みんなの前で、「とてもじゃないけど今の状態ではやっていけない。リレー終わるまで北海道を1ヵ月くらい旅するつもりでいた。もちろん、もう専従はやめる覚悟でいた」などと今の自分の思いの丈を言った。涙が止め処もなくあふれた。その晩は遅くまで、みんなで語り明かした。そして自分の気持ちを言えたことと、それを仲間が受け止めてくれたおかけで、なんか肩の力がスッーと抜けた。 「そうだよな、初めてやることだもんな。完璧に出来るわけないしな」と開き直った。その晩は遅くまで語り合った。翌日から人も集まるようになり、初めての全県一周の反核平和の火リレーは成功した。あのとき、もう少し来るのが遅ければ、また私がもう少し出るのが早かったら、今の自分はここにいないと思う。そういう意味では、この強烈な想いが矢田前のアパートには詰まっている。 矢田前のアパートには、93年の11月までいたが、やがて出ることになった。それは、どんどん物(とくに本)が増え、手狭になっただめだ。1LDKでは本棚なども置くところもないし、とにかく広い部屋に移りたかった。そういう時、先輩のIさんから「家を建てて今のアパート出て行くことになったけどお前入らないか」と言われた。そこは中佃にあり、矢田前から比べると職場まで半分の距離だった。また2階建ての3DKと家族用のアパートであり、1人で住むには十分な広さだった。また、何より住環境が良かった。合浦公園もあり、近くにはスーパーマーケットや本屋もあり、便利このうえなかった。 この中佃のアパートには、2年いた。すぐそばにラーメン屋がありしょっちゅう通った。またアパートの前は、リサイクルショップがあり、結構ここから家財道具なども買っていた。また仲間を、「飲み会」と称し、家に集めて、酒を飲んだり、マージャンをやったり、2次会として近くのカラオケ屋も行ったりした。そしてその目的は私の部屋の掃除をしてもらうこともあった。まず飲む前に部屋の掃除から始まる。これで私の部屋の4半期ごとに少しは綺麗になっていった。その中佃のアパートを出たのは95年の12月であった。そして現在住んでいるS町に移り住んだ。その移るいきさつから現在に至るまでは次の号で書きたい。(続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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