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さて、龍馬が推し薦めた案に伴って長崎・亀山社中へやってきたもう一人の若者がいた。 若者の名は井上聞多である。通称が門多、諱は惟精、その後馨を名乗った明治期の藩閥政治家である。 井上は、萩藩士で湯田温泉に生まれ、江川太郎左衛門に砲術・蘭学などを学び、藩主小姓となった。 そして一時は志道(しじ)家の養子となり、藩主からその才をを認められ門多(もんた)の名を賜った。 尊攘運動に携わり、品川の外国公使館焼き討ちを実行している。のち、伊藤博文等と英国へ留学するが、外地で長州藩の危機(四カ国連合艦隊の下関攻撃計画)を知り、急遽帰国して戦闘に参加している。 維新後は諸官を歴任の後、一旦は実業界に身を投じたが、また政界に復帰し、その後外務大臣となり、鹿鳴館外交(条約改正交渉や欧化政策の推進)を推し進めた。 明治34年には組閣の大命を受けたが辞退し、気骨のあるところを示している。 以降は財政通の元老として活動し、81才で没した。 侯爵 この様に、長州から有為な二人の若者が長崎へやってきたのである。 此処で、井上馨の写真と華やかな社交の場で、外交が行われた「鹿鳴館時代」の絵図を掲げておく。
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Last updated
2006/08/17 10:30:11 AM
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