『本物以上のフィクション』には『本物』が必要である
いきなり格言じみたことを書きましたが、この言葉のモデルは『シーザーを理解するためにシーザーである必要はない。そうでなければ、あらゆる歴史記述は無意味であろう』という、マックス・ウェーバーさんの『理解社会学のカテゴリー』の一説です。前半は映画『イノセンス』で公安9課の荒巻課長が引用していたので、多くの方が聞き覚えがあるのではないでしょうか。 この言葉は写実主義とか経験主義のようなものに対するアンチテーゼでもあって、我らオタクのために言葉を改めるなら『二次元を理解するために二次元人である必要は無い』とすればいいですかね。 ウェーバーさんは歴史記述をある程度フィクショナルである前提で、記述者の考証などを交えたものをリアルもしくはリアル以上の場合もあると提言しています。そりゃあ、歴史学者さんは他国の資料や状況などを俯瞰して、この場合シーザー以上に情報を得た状態で歴史研究に挑めますから、実は当事者以上の物の見方が出来る場合もあるでしょう。 で、我らオタクが愛する『二次元』や『偶像』についても、同じ事が言えます。 私はよく斜に構えて「アイドルや声優は人間だ」と、まあファンからすれば耳を覆って「わーわーわーきーこーえーなーいー!」と叫んでスルーしたい事を言いますが、この言葉を言うとき、ファンの求める偶像への要求仕様の高さを感じます。AKB48だってパフォーマンスは頑張っているし、メイクやセットも高水準を維持して、なおかつ握手会というファンとの最接近を許す環境を維持しているわけです。言っとくけど本来ステージ用のメイクやセットって、ステージの時間中しか持たないようなタイトなものですからね。 また声優さんも、数年、あるいは十数年(数十年という例もある)同じ声を維持する恐るべきプロフェッショナルさを持っており、最近なら一度は引退した宮村優子さんが、10年前とあまり変わらないアスカの声を当てたりネルフのメンバーがまったく年取っていなかったりと、恐ろしい人々のオンパレードになっています。 が、ちょっと待てよ? これってリアルサイドの努力と根性とその他諸々に依存してないか? というのが、今回の話題のキモです。 AKB48のファンは、まあ恒常的に大量のCDを買い支えないとお気に入りの女の子が露出しないので、その幻想のためにCDにお金を突っ込みます。アニメファンも生身の無い女の子(や男の子)に、お金や時間を突っ込んで、続編の要望などの実現を目指します。どっちも『商業主義』というものが関与しているのですが、彼らファンは望んでその商業主義に踊らされているわけです。 が、現実で踊るには、時間やお金と言ったリソースを必要とします。 創作者も同じで、例えば絵師は萌え画で人間外を描かれても困るし、恋愛したことのないラノベ作家がまともなボーイ・ミーツ・ガールを書けるかというと疑問。そこには人生の厚みが、如実に表れると個人的には考えます。 都市伝説的には『女を知った男の絵師は画が死ぬ』と言われることがありますが、私の立場は「決してそんなことはない」です。リアルを知らずにフィクションで売れようというのは、正直小手先感バリバリで今ひとつ感が否めません。 別に、女を知らないならプロの女性ンとこ行ってこいという話じゃないですよ? 現実に興味の無い人は、商業でやって行くのは難しいぞー、という話です。 『事実は小説よりも奇なり』と言いますが、多くの場合『小説は事実よりも奇なり』で、そのフィクショナルな部分は『本物』を知る人による妄想の産物がなり得るのではないかと、自分は愚考します。 これが私の習いですが、まあいちいち「あのブドウは酸っぱい」と確認するので、多少は大変かもしれません。 多くの創作者を目指す方は、まずリアルを知る努力を、ぜひしていただきたいです。そしてリアル以上を目指す。 さすれば、いつか多くの人々の目に触れる機会も出来るのではないでしょうか。