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カテゴリ:YO教諭の摂理
神様&神様&大国常立大御神様&太素盞鳴神様
神様&神様&神様&太陽神様&北斗七星神様&北極星神様&カシオペア座神様 その部族の毎日の生活のあり方に、自分の心、想いのあり方がそぐわないならば、自分の心、想いにそぐった部族を探して、その部族の住人となればよろしいのである。 そうはいっても、霊界の各部族には、それぞれ生活のあり方、想念のあり方に対する自然にできあがった規約があり、それを守るための部族長がいることはいる。しかし、霊界ではたいていの場合、たがいに想念、想いが通じ合うために、この部族の長は、実際に問題の解決とか意見のとりまとめを行うということはほとんどない。部族長とは、いわば部族の象徴的存在である。 そのうえに、この霊界においては経済の発展ということが皆無である。なぜならば、五十年、七十年、百年と人間界で培ってきた心にピツタリ合つた霊界生活であれば、霊人たちには、たとえばあのようなものがほしい、このようなものがほしいといった、経済的な発展を促すことにつながる人間界的な欲というものが、まったくないからである。 したがって、この霊界には、新しいものを生産するとか、生産技術を開発して特定のものの大量生産をするなどという生産的な仕事はほとんどない。あるのは、各人(霊)の心の質をより高める芸術的な研修、模索につながる仕事、それに、環境をより美しくするための、草花を植えたり、植林をするなどの仕事である。このような仕事は、毎日毎日営まれている。 また、この霊界には交通機関というものがない。人間界で、過去にわたって何十年とすごしてきた想念の生活。その想念にピツタリ合った霊界であれば、よほどのことがないかぎり、他の部族、他の世界にいくということがないから、交通機関は不要なのである。 さらに、霊界人には食物がいらない。人間が、その歴史のなかで、食べるということのためにどれほど血みどろの争いをくり返してきたかを考えると、これは霊界と人間界との決定的なちがいでもある。 では、これらの霊界人は食物を摂取せずに、どのようにして永遠の生命を保つことができるのであろうか。彼らは、天地創造の神が放射されるエネルギーを天界から受けて、それによって己が魂、霊界人としての命脈を保っているのである。その天地創造の神のエネルギーとは、この大霊界がはじまって以来数百億年にわたって大霊界を照射しつづけ、そして、今後においても霊界、物質界(人間界)の双方を照射しつづけていくであろう、神の光である。 こうして、霊界で一年、十年、百年とすごして、霊界の真理を学び、心の芸術性を深めた霊は、どんどん、どんどん、その霊質が高まると同時に、さらに上界へとすすみゆくための資質もできあがっていくのである。 そしてある日、この霊界に天界より一条の光が射しこみ、もたらされる。その光にのって、上界より三名ばかりの、多いときには五名の上界人が天下ってくるのである。 上界人は、その霊界の部族の長としばしの話し合いをする。やがて両者は、霊界にあって上界へすすみゆくための資質の高まった霊人をよび、部族長がつぎのように語りかける。 「そなたの魂、霊質の波動の高まりが上界に通じ、このように上界から迎えにこられた」 と。 もちろんその霊人もそれを望むところであれば、上界より下ってきた霊人にいざなわれて、上界へ昇りゆくのである。こうして、霊界人は仏界入りを果たすことになる。 仏界人の生活 仏界入りを果たした霊は、当初のうちは、いままで住んでいた霊界とのちがいに驚きと喜びとを隠しきれないでいる。ここ仏界は、山あり、森あり、海あり、谷あり、川あり、人家あり、町並みあり……というところまでは霊界と同じなのだが、その様子となるとまったくちがっている。霊界のようにゴミゴミとした家やいろいろな施設が密集した狭苦しい町並みはなく、どこも、それこそ広々として、ゆったりとしている。大気までがすみわたっていて、まったく、いままで長年すごしてきた霊界とはくらべものにならない美しさなのである。 それにもまして、新人の仏界人がさらに感心することがある。それは、霊界においては、いってみれば人間界とあまり変わりなく、毎日、セコセコ、セコセコ、あくせくと生活していたのであったが、仏界においてはそのようなことがなく、まことにまことに心の世界であるということが、ひしひしと感じられることである。 仏界人たちは、それぞれ、より質の高い芸術性の探究、より質の高い心の悟りの探究で日々をすごしつつ、自らの仏界人としての資質を高めつづけているのである。 見わたせば、この広大無辺の仏界にも、共通の想念をもった仏界人の集団、すなわち部族が、まだ点在している。 そして、この仏界で心の芸術性をより深め、霊質をより高めた霊人(仏界人)たちは、ある日突然、上界より光が射しこみ、上界人の出迎えを受け、さらに上界へと昇っていくのである。 もちろん、同じ仏界であっても、上段へいけばいくほど、なお一層広々として、明るく、美しくなっていく。 このように霊界から仏界へ、また、仏界でも上段へ上段へと向上していく霊というのは、やはり人間界にあった時代にも、一年、一年、自分の想念、精神世界の深さ、幅を広げ、己の魂、霊質をみがくことに努力、精進した人である。 こうして仏界の上位まできた霊人は、もう霊界の学者といってもはばかることがないほどで、人間界にあった当時の霊質、魂とは、ぜんぜんその質をちがえている。広義の霊界人としての風格も備わり、英知、洞察力、寛容性など、あらゆる美徳を備えていて、人間界のことばで表現するならば、これこそまことの仏なり、といったところである。その仏の発する波動、エネルギーに対しては、誰しも、対面しただけで思わずひれ伏し、身も心もすくむ思いがするのである。 霊界(広義の霊界)というところは、下界の霊人が己の意志のみで上段にすすむことは絶対にかなわない世界である。幽界から霊界にすすむ場合、霊界から仏界にすすむ場合、さらに、どんどん、どんどん、上界にすすむ場合、いずれの場合も、かならず上界からの出迎えがなければすすめないのである。 すなわち、霊界にいる霊は、さきほどもいったように自己の心の芸術性を高め、霊質を高めることによって、また、同じ界にいる霊人のために役に立つ資質を備えることによって、はじめて、その波動が上界に通じ、上界人の出迎えを受けることになるのである。 しかし、上界の霊界人にあっては、霊界の学者、知者として、たとえば仏界人であれば仏界人の同意を得て、霊界や幽界にさがり、霊界人、幽界人の教育、指導、薫陶にあたることが、何年、何十年に一度とみられるのである。 さて、わたしは幽界、霊界、仏界のいろいろな状況、また、それらの世界に住まう霊界人の模様、心のあり方を説明してきたが、各霊界における霊界人の目的とするところは、つまるところ霊界人としての知識を深めること、仁徳を高めることにある。霊界で、多くの霊界人たちがともどもに、永遠の平和と喜びと繁栄と愛とに満ちた生活を営むことができるよう、その心の資質を高めるための道のりなのである。 けっきょく、幽界、霊界、仏界をとおしていえることは、霊界人の永遠の生活のための学問と、己自身の霊質を高めるための世界である、ということだ。 神界人の生活 この仏界の最上段階であらゆる学問、知識を修め、また、その霊質を高めた霊人は、つぎの上段へと昇りゆくことができるのであるが、それが神界である。この神界というのは、もう学問の世界ではない。知識を修める世界ではない。霊質を高める世界ではない。 この神界に生活する霊人は、なんら周囲から知識を与えられるのでもなく、また、己の霊質を高めるためになんらかのものを与えられて吸収するというのでもない。 神界の霊人たるもの、すべて己自身で、なにもかもを生みだし、つくりだし、編みだし、創造し、開発しなければ、決してさらに上界へはすすめないのである。 いままで、人間界、幽界、霊界、仏界をとおして得たあらゆる経験、学んだ知識、見きき、知ったことなどは、もちろん、当の霊人の基本的な霊質を形成してはいるが、しかし、神界においては、それらのものはほとんど役に立つことはない。神界とは、それらのさらに上に立つ、無から有を生みださなければならない世界なのである。 たとえば、新しい真理を自分自身で編みだす。また、新しい飛翔の術を生みだす。大霊界の中を一瞬にして何万キロ、何十万キロと飛翔するような術を自分自身で編みださなければならないのである。 あるいは、自分の霊体の容積を巨大なる山脈のようにあらわすかと思えば、小さく小さく、微生物以下の原子、素粒子、それよりももっと小さな極微生物のようにしてしまう術。 あるいは、五年、十年はおろか、百年、千年、万年のさきのありさままでをも見通す、すなわち透視の術。 ……このように、神界においては、仏界までの世界では考えつきもしなかったような、まったくの無から有を生みだすあらゆる技術、能力、発想を自分自身で開発し、自分自身の霊体に具現させなければならないのである。 ほかのどこに、これほど苛酷な修行があるだろうか。無の世界から有を生みだす、そのような能力、術をひとつ、自己の霊体から編みだし、発現させるために、十年、百年、千年と深い瞑想の歳月をすごす神人もいる。 さらに、神界でも上段にすすめばすすむほど、神々が有する不思議な力、はたらき、術、発想力は、どんどん、どんどん昇華されて高度なものとなっていく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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