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カテゴリ:言葉
数日前から、冤罪についてブログに書きたいと思っている。
作文による供述調書、強要される自白証拠、隠される証拠写真など、 とても民主主義先進経済大国日本の裁判とは思えないことが行われている。 冤罪で死刑になった人は、幽霊になって裁判官に訴えているかもしれない。 気の毒なのは、痴漢容疑で社会制裁を受ける人たち。 「容疑」だけで犯人扱いされ、テレビ・週刊誌などマスコミで叩かれる。 職場を追われ、妻に去られ。 これまだ「容疑」なんです。 痴漢容疑の大半が冤罪らしい。 常習プロの痴漢は、女性に捕まるようなヘマはしないそうだ。 自白主義の裁判だが、本の受け売り(私の誤解アリ)で言えば、 人間の本質として「やった」ことを「やってない」と否定し続けられるものではないようだ。 これは厳しい取調べで1週間も2週間も否認しつづけ「やっていない」ことを「やっていない」という容疑者、苦しい裁判を闘ってまで「やっていない」を貫く人は、犯人ではない可能性が高い、ということになる。 しかし30年も否認し続けて死刑執行された「容疑者」「被告」が現にいる。 死刑になって1年後に「無罪」になった元容疑者もいる。 このようなことを書きたかったのだが。 *参考文献『裁判官はなぜ誤るのか』(秋山賢三 岩波新書) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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