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2011.08.22
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唯一無二の真実

人間が死ぬというのは、自分の気持ちで死ぬのです。自分の気持ちで勝手に死ぬのです。命を見つけることができないので、死なねばならないことになるのです。それだけのことです。
イエス・キリストの復活によって、人間の命が新しくなった。これが紀元元年です。仮に、イエス・キリストの復活がなくても、人間は死なない命を持っているはずです。そうするとイエス・キリストの復活は、余計なことのように思えるかもしれませんが、そうではないのです。ここが難しいのです。
人間は十重、二十重に誤解しています。人間の常識、知識は、錯覚、誤解の塊です。しかし自分が錯覚していますから、錯覚だとは思えません。自分が考えていることが錯覚だと分かれば、自分が考えていることを捨てるはずです。それができないのは、自分が間違っていないと思っているからです。
自分は真面目に生活していると思っている。これが間違っているのです。これは道徳的な間違いとか、法律的な間違いではありません。生命の本質についての間違った考えを握り込んでいるのです。先祖代々、親代々、世間一般が全部そうだったから困ったものなのです。十重二十重の錯覚というのはそういう意味なのです。
アブラハムは聖書ができる前に神を信じていました。もちろんアブラハムは、イエスがキリストであることを知りません。従って、イエス・キリストが復活したことは、歴史の流れから言いますと、何の関係もないことのように思えるのです。ところが、アブラハムが神を信じていたその信じ方が、イエスと同じだったのです。
イエスが復活して、復活の命を人々に与えた。例えばタルソのパウロがもらったのです。パウロはイエスの復活を知っている人間です。しかしパウロは、イエスの復活にどうしてもあやかりたい。復活の命の本物をどうしても知りたいと切願しているのです。既に得たというのではない。得たいと思ってそれを追い求めていると言っているのです。本当にそれを得るために一生懸命に勉強すると言っているのです。
実は、パウロはイエスの復活が分かっていたのです。分かっていたからこういういい方をしていたのです。イエスの復活が分かった。信じたというのは、今という瞬間です。明日になれば、それはもう昨日のことです。人間は瞬間、瞬間、違った命に生きているのです。
皆様の命の本質は生命的にいえば、鼻から息を出し入れしているだけのことです。神から見れば、ただの息にすぎないのです。
鼻から息をしているのが人間です。瞬間、瞬間に生きているのです。それを昨日も生きていた。明日も又生きるのだという気持ちを持っていることが、間違っているのです。持ってもいいですけれど、明日生きる自分は、今生きている命とは違います。今生きている命を、そのまま明日生きるのではないのです。今日は今日の命、明日は明日の命、これが人間の命の実質、実体です。
そういう訳ですから、皆様は昨日生きていた命の考え方を、今日も持ち続けなければならないと、考える必要がないのです。間違っていたらしいと思ったら、やめたらいいのです。
人間は知ら知らずの間に、勝手に泥棒根性を持っています。皆様が人に騙されたことが、何十回も何百回もあるでしょう。そこで皆様は人が信じられなくなっているのです。そのために、皆様自身が他人に本当のことを言わなくなっていますし、又、人の話を信用しなくなってしまったのです。
お互いに信じられない国どうしが、条約を結んで嘘を言い合っている。だから今の文明は潰れるに決まっているのです。
ただ神けが本当ですから背信じたらいいのですが、今の人間は神を信じることができないのです。
神を信じるための一番良い方法は何かと言いますと、神に惚れることです。惚れた相手に嘘がつけないのです。惚れ合うという形で、自然に心情を打ち解けあうことになるのです。
神に惚れた者けが分かるのです。神に惚れますと、神はその人を絶対に裏切りません。清い心を持って神に接する者は、神の方でも必ず清くなります。ひがんだ根性を持っている者には、神も又ひがむのです。
神は皆様の命の根源です。これに惚れずに誰に惚れたらいいのでしょうか。
仏教の仏は、人間が造った概念です。宗教でいう神仏は、人間が造ったものです。こんなものは信じられません。
地球の命が、そのまま神の言になっています。なぜかと言いますと、地球が造られたことが神の約束です。約束とは神の計画という意味です。計画は今はこのような状態ですが、将来はこのようになるという目的をはっきり持っている。これが計画です。計画も約束も同じ意味です。将来を当てにして、それに対して望みを持つことが約束、計画です。
聖書はそれを書いているのです。地球が造られたことが、キリスト計画です。キリストいう言葉は、神の地球計画そのものを意味するのです。
皆様が聖書を信じても信じなくても、これは地球そのものの絶対的な事実です。皆様の命に関する絶対的な事実です。皆様の命は聖書に書かれているとおりになります。
例えば、神を信じれば救われると書いています。神を信じない者は滅ぼされると書いています。神を信じなければ、その人は聖書に書かれているとおりに滅ぼされます。これが聖書です。
聖書はキリスト教ではありません。キリスト教は信じても信じなくてもいいのです。聖書は皆様の命の本源であり、同時に皆様の命の行く末をはっきり書いています。
聖書どおりにしか人間の命は動きません。又、世界の政治状態、社会状態も、聖書に示されているとおりになるのです。
唯一無二の真実は、聖書にしかないのです。
絶対

良い結婚相手を見つける。商売で成功してお金を儲ける。豪華な家を建てる。貯金をする。地位や名誉を得る。これは単なる生活の中の座標です。これは人生目的と言えるものではありません。
とにかく意識が非常に低いのです。次元的に思想が低級です。大学教授がそうです。評論家、政治家がそうです。学校教育が目的を持っているかと言うと、持っていないのです。社会に役立つような人間を造るという目的は持っていますが、これは単なる人生の指標です。
社会に役立つ人間を造って何になるのでしょうか。人間社会は目的を持っていません。文明は目的を持っていません。国家も目的を持っていない。皆様の人生にも、目的はありません。これでいいのでしょうか。
現在の人間は生活していますけれど、本当に生きていないのです。生きていることは命を経験していることです。だから、本当に生きているのでしたら、命を経験していらっしゃるはずですから、命について具体的に説明できるはずです。命とはこういうものだと言うように、実体的に説明ができるはずです。ところが、できないのです。
全世界の人間は、命を全然知りません。宗教は腐るほどありますが、命を全く教えていないのです。ただ人間にご利益を与えるだけです。ご利益は命ではありません。現在の人間生活に、へつらうだけです。皆様からお金を取り上げる、時間を取り上げる、そうして皆様を食い物にするのです。
宗教に近づくと、必ず食い物にされます。現在の人間は人生目的を持っていない。魂の盲者ばかりです。
とにかく現代文明はひどいものです。皆様はこれに対して、どういう信頼感をお持ちでしょうか。皆様は恐らく無条件で文明を信じておいでになりますが、文明を信じてどうなるのでしょうか。皆様の生活の安定さえも、文明は保障しないのです。
現在の地球は、いつ地震が起こるか分かりません。現在の学者は、地震を予知することができないのです。学理、学説、ノーベル賞と偉そうなことを言っていますが、地震予知さえもできないのです。
いつ、地震が起こるか分からないということは、地球そのものが未完成だからです。人間自身がいつ死ぬか分からない。皆様の心臓が、いつ止まるか分からない。いつ病気になるか分からないのです。
そういう状態で、果たして生きていると言えるのでしょうか。個々の人間が、命の目的を考えていない。国家は国家目的を考えていない。文明は目的を持っていない。無目的のお先真っ暗な文明が、全世界の人間によって営まれているのです。
人間は自分の命のこと、魂のことを考えなさすぎます。ひどすぎます。これが文明の恐るべき欠陥です。
現代文明のために、魂は殺されています。魂が殺されているから、人生目標が分からないのです。国家目的がないのです。文明の理想が持てないのです。魂が死んでいるからこういうことになるのです。
世界中の人間の中で、魂が生き生きしている人は、ほとんどいません。一人もいないと言ってもいいでしょう。何のために生きているのか、文明の欠陥が分からないからです。
大学で教えている専門学は、空理、空論ばかりです。はっきり言えば嘘です。嘘と言いましても、この世に生きている間は役に立ちます。政治学とか経済学は、人間が社会的に生活している意味では役に立ちますが、これは現世でのできごとです。永遠の命のためには、何の役にも立たないのです。
皆様は文明をあまりにも信頼しすぎています。信頼できるものは何もないのに、信頼しているのです。
ノーベル賞でも、文化勲章でも本当に信用できるものはないのです。しかし皆様が生きておいでになる命の本質は、信用できるのです。ところが生きていながら命の本質が分かっていない。だから自分の内側の命をじっと見つめようとしないで、外側の文明とか、学校教育、政治のあり方とか信頼できないものばかりを、信頼しようとしているのです。
宗教は皆様の人生の責任を持つように言いますが、全然持っていないのです。責任が持てるほどの正しい命の見方ができないからです。神が全然分からないのです。仏が何か分からない。そういう人が、宗教の指導をしているのです。
人間の人格は、本当の真理を捉えるだけの能力を持っているのです。真理とは死なない命です。般若心経がそれです。上智です。般若心経は死なない命を捉える知恵です。これは誰でもあります。これを活用したらいいのです。
本当の真理とは何か。本当の神とは何か。現在皆様の心臓が動いているという事実が、そのまま本当の神が現われているのです。神はこんな近くに、しかも確実に存在しているのです。
天という絶対が、物理運動の根本になっている。宇宙エネルギーの根源が、皆様の心臓を動かしている。これが神です。自分の心臓を動かしている神と、皆様は一緒にいるのです。しかし、それを捉えることができない、なぜでしょうか。
なぜかと言いますと、魂が殺されているからです。魂が殺されているので、自分の心臓が動いている本当の命、絶対者の命が皆様と一緒に存在しているのに、それが分からないのです。
目が見えるというエネルギーは、地球が自転、公転しているエネルギーと同じです。天然自然のエネルギーの根源が、皆様の命と一緒に働いているのに、それを皆様は捉えることができない。なぜか、文明を信じているからです。この世の中を信じているからです。  皆様の目が見えるのは、皆様ご自身のエネルギーではありません。宇宙のエネルギーが皆様と一緒にあるのです。皆様が生まれる前に、天然のエネルギーと、皆様の魂は、触れ合っていたのです。だから天然自然のエネルギーが、そのまま皆様の命の根源になっているのです。
命の根源が皆様の肉体の中に働いている。これに気ずきさえすれば、死なない命を捉えること、神という絶対をつかまえることは、それほど難しくないのです。
神は絶対そのものです。現在の世界に絶対という言葉はありますが、絶対という言葉が何を意味するのか、全く分からないのです。
皆様は現在、自分の心臓が動いていることによって、自分の目が見えることによって、絶対の実物を経験しておいでになるのに、それが分からないのです。
どのように分からないかと言いますと、普通の人間は、常識で生きています。これが底辺にあります。その上に文化があります。法律、宗教、学問、芸術、自分の判断力があります。教育、宗教、芸術はすべて文化の中に含まれるのです。しかしこれは絶対の領域ではありません。





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Last updated  2011.08.22 18:59:17
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