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悩みながら現実と格闘しています。
日々、聖教新聞を拝読し人生勝利の糧にしています。 現実は厳しい。ゆえに努力と研鑽を重ねていくのだ。
カテゴリ:文化
中国の職人たちを訪ねて 作家 塩野 米松
日中戦争、内戦、文化大革命…… 時代の嵐をくぐり抜ける
物作りが機械に頼りきりになる前は、訓練された職人たちが日常の品物を作っていた。技や素材の良し悪しを見分ける力を身につけるには親方について学ぶしかなかった。体に記憶させるというのはとても時間がかかるものだ。そうやって人から人へ技術や知恵をつないできた。製品を見分け、好みのものを買うのは使い手だ。見栄えが悪いとかすぐ壊れるものは買わない。職人は生きるためには技を磨くしかない。だから職人をみると、社会の事情や国民の考えや生き方が見えてくる。 コロナ騒動でここ3年は行けないが、1999年から中国の職人に話を聞きに通っている。初めの頃にあったのは、陶器の形を整える職人、急須作り、櫛職人、切り絵師、凧、鳥かご、胡弓作りの方々。それは『中国の手業師』という本にまとめた。多くが下積みの小規模な職人たちであった。その後に訪ねたのは、日本の人間国宝に当たる「中国工芸美術大師」達。たまたま1932年から43年という日中戦争という混乱があり、勝利の後に解放軍と蒋介石軍の内乱。そして49年、新しい中国となった。 彼らの親たちの多くは職人だった。支配者が変わるたびに翻弄され、嵐の中をくぐってきた人達だ。新しい中国は共産主義の道を歩きだした。地主や資本家を追い出し、農民や工員たちの教育のチャンスを与えた。上下入れ替わったのだ。職人の子達は働きながら学ぶことができた。その後も身分制度もなくなったわけではなく、親の出身身分によって人生が左右された。それでも、向学心に目覚めた者は努力を重ねた。古い徒弟制度から抜け出させたのだ。次に来た文化大革命はたまたま試練の時期だった。「下放」という制度の下に、知識人とみなされた人達や、青年達、出身階級の不利な人達は地方に送られ、粗末な食事、慣れぬ作業、過酷な労働の中で長い時間耐えねばならなかった。 景山泥人形の作者喩湘蓮さんは、父親が蒋介石の軍医であったため、不当な扱いの中で、苦労して腕を磨き、技を身につけ、芸術家として一家をなすにいたった。景徳鎮で青花分水という独自の四季西方を確立した黄売九さんも僻地を回されながら、はい上がってきた人だ。やがて文化大革命を終わり、市場開放となり、光が当たるようになった。彼らの仕事が芸術と認められるようになったのだ。 今回取り上げたのは他に急須や陶朔、盆採用鉢作りの名人達、伝統人形の服飾、小道具作りの女性達。職人達の話からは、表に出てくる政治的な中国とはまるで違う人々の地に着いた生き方が見えてくる。中国の人間国宝の聞き書きは「ほぼ日」のホーⅯページで「中国の職人」で検索してもらえれば、無料で見られる。お隣の国の理解のきっかけになればと思っている。 (しおの・よねまつ)
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Last updated
April 26, 2024 04:28:50 PM
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