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カテゴリ:文化
江戸の娯楽事情 安藤 優一郎(歴史家) [太平の世の繁栄を支える] 宵越しの銭は持たない――。江戸っ子の意気を称した言葉ですが、一日の稼ぎをその日のうちに使ってしまう江戸庶民の生活が見えてきます。 当時は、銀行や郵便局などはなく、離職してお金を増やす生母はありません。庶民が投資できる先はなく、また、大火事も頻発し、一夜にして家財を失うリスクがあったことも理由の一つなのでしょう。飲食に使った後は、娯楽や遊興に注ぎ込んでしまう。そんな消費行動が、冒頭のフレーズに繋がっているのです。 ただ、その娯楽が太平の江戸の世の繁栄を支えた、といっても過言ではありません。鎖国による閉じられた社会で、経済の活性のためには内需に依存するしかありません。内需を生み出す娯楽産業が、江戸の繁栄を支えていたわけです。 人間が生きる上で飲食は不可欠です。一方で、娯楽はなくても生きていけるものでしょう。その意味では、生き延びることがやっとの戦国の世では、娯楽産業は生まれません。しかし世の中が平和になると、娯楽がなければ生きる力も湧いてこないのではないでしょうか。 そんな江戸時代の娯楽産業について、現代との共通点などについて知ってもらいたく、近著『大江戸の娯楽江戸事情』(朝日新書)を出しました。ぜひともご一読いただければと思います。
[祭りが稽古の発表の場に] 江戸時代の娯楽について、いくつかを紹介しましょう。 現代との違いが際立つのは祭りです。皆さんは祭りというと、どのようなものを思い起こすでしょうか。町の若い衆が神輿を担ぎ、山車を引き回す。そんな様子ではないでしょうか。確かに昔から、神輿や山車は祭りの花形。 でも、ちょっと外に目を向けてみると、参道には屋台や出店が並んでいます。最近ではコロナ禍によって数も減っていますが、祭りの風景の一つです。 現代で言えば、焼きそばやイカ焼き、あんず飴、綿菓子など、食べ物の屋台はもちろんのこと、金魚すくいや射的などゲーム的な屋台、その土地のお土産を売っている店もあったでしょう。「男はつらいよ」の寅さんのように、啖呵売をする人もいたかもしれません。時代が変わっても、これらは変わらないように思います。 ただ、江戸時代には、このような店だけでなく、一般の人が芸を披露する屋台があったのです。 祭りには各地から人が集まってきます。そんな場所で、日頃稽古してきた芸を披露していたのです。とはいってもプロではありません。粋な稽古事として長唄や三味線、踊りなどを習った町民たちです。 いくら芸事を習ったとしても、彼らには発表の場がありません。せっかくプロに習っているのだから、皆の前で披露したいと思うのが人情。発表する場があれば、それを張り合いにして練習にも熱が入ります。そこで、発表の場となったのが祭だったのです。 祭りで発表できたことが、稽古事の継続に張り合いを持たせ、結果的に、江戸庶民の文化度を上げることにもつながっていたわけです。
庶民的から高級なものまで それぞれの切り口で楽しむ
[最盛期には700を超す寄席] 江戸っ子が日常的に楽しんでいた芸能といえば、寄席と歌舞伎です。 江戸には最盛期、700を超える寄席があったといわれています。ただ、これらは現代の常設寄席(東京では4カ所)のように大人数が入れる場所ではありませんでした。もっと手軽に芸能を楽しめる場所だったのです。 演じる場所にしても舞台とは限りません。飲食店の2階など、もっと身近に、10人前後が集まって楽しんでいました。 また、これほど多くの寄席を支えるためには、プロの芸人だけでは足りません。一夜のうちに何件も掛け持ちしたり、ちょっと話のうまいたいこ持ちなども駆り出されていたのではないでしょうか。それほど、寄席は庶民にとって気軽な娯楽だったのです。 これが歌舞伎ともなると事情が違ってきます。庶民には高根の花。それなりの身分の人が出かけていく娯楽になります。 例えば、芝居を見にいくためには、現代でいうチケットが必要。これを取り仕切っていたのがお茶屋です。身元の明らかな人しか入れないようにする。今の会員制のような仕組みだったと考えれば分かりやすいかもしれません。 同じ芸能にしても、江戸っ子たちは、それぞれの切り口で楽しみ方を見つけていたのです。世の中が安定して、余裕のある社会でこそ文化も花開くのです。=談
あんどう・ゆういちろう 1965年、千葉県生まれ。歴史家。主に江戸をテーマに執筆・講演活動を行っている。JR東日本「大人の休日倶楽部」などの講師を務める。著書に『大江戸の娯楽事情』『お殿様の人事異動』など多数。
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Last updated
March 15, 2024 05:10:36 AM
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