『叫びとささやき』イングマール・ベルイマン監督(スウェーデン1972)
VISKNINGAR OCH ROPIngmar Bergman87minこの作品は随分昔、たぶん中学生の頃に、ただ1度だけ映画館で見た映画です。大好きな映画ですが、以後見る気は起こりませんでした。同じベルイマン監督の作品でも『ペルソナ』などは7~8回は見ています。1回切りで十分味わい尽くしてしまった感動を薄めたくなかったと言うのでしょうか。先月末にベルイマン監督が(アントニオーニ監督と同じ日に)他界し、俄にまた見てみたくなり、価格など気にせずにDVDを買ってしまいました。監督が死んでからDVDを購入しても現世的に監督には何ももたらしはしませんね(イングマール、生前に購入しないでゴメン!)。一種の回顧・追悼鑑賞です。ベルイマンと言うと、50年代60年代には『ペルソナ』であるとか『鏡の中にある如く』『沈黙』『狼の時刻』など、病的精神や形而上学を扱った難解と言うか「尖った」映画も多いけれど、世界、自然、宗教、他者といったものとのかかわりから現代の人間の条件を考察するのが基本的テーマだ。そしてこの『叫びとささやき』以降『ある結婚の風景』『秋のソナタ』『サラバンド』など人間間の愛情や憎悪などを描いているのだけれど、この『叫びとささやき』は彼の後期の作品への橋渡し的作品に思えてならない。そういう意味で作る彼も力が入っているし、出来上がった映画も彼の作品を代表する一つの傑作ではないだろうか。『狼の時刻』でちょっと使われたモーツァルトのオペラ『魔笛』は後年オペラ映画の傑作『(ベルイマンの)魔笛』となるが、この映画中に使われたバッハ無伴奏チェロ組曲第5番のサラバンドは彼の遺作となってしまった『サラバンド』でまた取り上げられている。そういう意味でも彼にとって特別な作品だったのではないだろうか。物語は19世紀末、スウェーデンの領主の館といったところだろうか。ベルイマン組とでも言うのか彼の映画の昔からの馴染みの女優イングリッド・チューリン、ハリエット・アンデルソン、リヴ・ウルマンが演じる3姉妹カーリン、アグネス、マリア。両親は既に死しておらず、長女カーリンと三女マリアは結婚している。女中アンナ(カリ・シルヴァン)と今も屋敷に暮らす次女アグネスが末期ガンで、最後の看病と死を看取るために姉カーリンと妹マリアが屋敷を訪れている。映画の現在時は病床のアグネスの死と葬儀が終わり、残ったカーリンとマリア(と女中アンナ)が別れていくまでを描いている。そこに子供時代の回想が入り、かつてこの屋敷を訪れたカーリンやマリアの夫との関係などが回想される。それによってこの3姉妹の不幸や互いの愛憎混じった人間関係が明らかにされていく。以下ネタバレ末娘のマリアは子供の頃から親に気に入られる術を知っていて、甘やかされて育ったが、そのせいで今も子供のままで成長が出来ていない。かつて屋敷に泊まっていたとき、女中マリアの娘が病気になり、往診に来た医師を誘惑して関係を持つ。誰からも愛されていなければ満足できない彼女なのだ。翌朝商用から戻った夫はそのことに勘付き自殺未遂を計った。一方長女カーリンは歳の離れた外交官と結婚していた。ある晩この屋敷に泊まったときのこと、食事を終えると夫が口にするのは「もう遅い、ベッドに入ろう」という言葉だったが、夫が大切にするのは外交官夫妻としての格式であり、プライベートでの妻への期待は性的欲望の解消相手としてだけだった。そこに愛はない。日本語字幕は上記のようになっていたが、スウェーデン語ではたぶんもっと直接的に「さあ早くセックスだ」ぐらいに聞こえる。そんな外面だけの格式と愛情のない夫婦関係にカーリンは悩んでいた。そして割れたグラスの破片で彼女は性器を傷つけ、好色な表情の夫にその傷と血を示すのだった。幼い頃次女アグネスは素直に母親に甘えられなかった。母親を演じるのは三女マリアと同じリヴ・ウルマンの二役だが、彼女も幸せではなかった。ある日母親は幼いアグネスを呼び止めた。アグネスはまた小言を言われるかと恐れたが、そうではなかった。母は憂いに満ちていた。アグネスは母に触れ、きっと母の憂いを理解した。医学的なことはよく解らないがたぶん子宮ガンだろうか。アグネスは肉体的苦しみの末に死ぬ。牧師は「アグネスは自分よりも信仰があつかった」と言い涙も流すが、死んだ彼女の魂を静めることは出来ない。ベルイマンのそれまでの映画で再三描かれているようにこの牧師も「神の沈黙」に苦しみ、結果牧師としては無能な存在でしかない。アグネスの死で残された長女カーリンと三女マリア。誰からも愛されたい願望のマリアは、心の交流を拒絶する姉カーリンとの対話を試みる。心を閉ざすことでアイデンティティーを保っているカーリンは冷たく、そして恐れから拒否しようとするが、アグネスの死という非日常の中でマリアを受け入れる。語り合う2人の会話は聞こえないが、ここでバッハのサラバンドが美しく響きわたる。ここからやや幻想的なシーンとなる。死んだアグネスが姉カーリン、妹マリアを1人ずつ呼ぶ。カーリンやマリアの愛を確認して魂の安らぎを得たいのだ。しかしもともと愛の不在に苦しみ、愛など考えないように生きているカーリンは冷たく彼女を拒否をする。マリアは子供的優しさでアグネスの願いを受け入れようとはするが、やはり成長不全で我がままな彼女であり、現世的自分の幸せ、あるいは自分が誰からも愛されることだけを求めているだけなので、姉への愛のために自分を差し出すことなどできない。そして最後は女中のアンナが幼子イエスを抱く聖母マリアのような図像の構図でアグネスを抱き、彼女の魂を慰めるのだった。葬儀も終わりそれぞれの夫と屋敷を去っていくカーリンとマリア。互いに心を開き理解し合ったと思えたあの瞬間、それは現実の日常に戻った2人にはなかったかのようだ。再び互いに心を閉ざして2人は別れる。慇懃に「ありがとう」と言って解雇したアンナを去っていく2組夫婦。マリアだけは少しだけ心があるのか?。夫にお金を要求してそれをアンナに渡して去っていく。やがて出ていかなければならない屋敷に1人残った女中アンナ。彼女は秘かにアグネスの日記帳を隠し持っていた。「久しぶりに体の調子もよく、子供の頃のように庭をみんなで散歩した。姉と妹とアンナ、好きな人がみんなそばにいる。これが幸せだ。」アンナが優しく揺らすブランコに3人姉妹は乗り、一時の幸せを噛み締めるように穏やかに微笑むアグネス。そんな美しくも苦い回想シーンで映画は閉じられる。ベルイマンの再三の中心テーマであった神の沈黙。それはようするに愛の不在だ。この映画の時代設定は19世紀末だけれど、描いているのは現代の人間の条件だろう。たぶん高位の外交官のカーリーン夫妻、今風に呼べばたぶんビジネスマンのマリア夫妻、この2組の裕福なカップルを現代人の象徴として位置付け、子供の頃は親に愛されず、その後も病弱であるがために現世的普通の幸福から疎外されたアグネスと、恐らく貧しい農家か何かの出身であるアンナ、この両者に心や愛、ひいては信仰の可能性を託したのだと思います。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから