やっと、土曜日。
気が付くと、2週間、休みなく働きづめでした。
今日も、講座を受講しようかとも思っていたのですが、
少し、一休みしたほうがよさそうです。
この二週間、あまりに沢山を学びましたから、
簡単に、順を追って、忘備録を。
5月16日(土)
東京で今道先生の講義受講。
ルソーについて、初めて学ぶ(なんと不勉強な・・・)。
「天才の世紀」である17世紀を終えて、
ヨーロッパはいよいよ、革命の時代を迎える。
その時代の代表的な思想として
「百学円環」の学としての所謂「百科全書派」が生まれます。
それは、すべての「知」を一まとめにしようという大プロジェクトでした。
ルソーは、そのプロジェクトに加わり、「音楽美学」を担当することになります。
このルソーは、驚くほどの数奇な運命をたどっており、
中流階級市民として生まれ、父親の放蕩によって没落し、
職人の徒弟となって苦労した後、
小さい頃に身に着けた教養を足がかりに、放浪しながらのし上がる。
貴族の愛人となって踏ん張りながら、
懸賞論文「人間不平等起源論」で、論壇デビュー。
それから、第一級の知識人となります。
そういうルソーが、人間とは何かを語る。
人間とは、自然環境を活用して自分を完成する特性を持っているということ。
その点に、動物とは異なる人間の特性があること。
それは、人間の意志によって成し遂げられるものであること。
「人間不平等起源論」の中で、この点に、今道先生は注目していました。
なるほど、このルソーの人生に、この言葉がある。
そして、もうひとつ。
今道先生の講義は、今道先生の著書の解説に続く。
この解説の先立ち、質問を求められました。
もちろん私は喜んで、「教育と超越」の関連を御伺いした。
実は、5月8日に、その点をめぐって
大学の先生お二人と濃密な勉強会をしたばかりでした。
ルソーが言うとおり、人間は自らを完成させることができる。
つまり、不完全な存在である人間は、完全なものへと、超越できる。
その際、教育は大きな役割を演じるでしょう。
それはしかし、どうやってコントロールできるか。
教育は、人間の営みとしてある。
その人間の営みで、人間はものすごい変化をする。
それでは、その「ものすごい変化」が「悪い変化」とならないためには、
どうしたよいのだろう。
うれしいことに、講義時間のすべてを使って、
今道先生はこの問題に正面から取り組んでくださり、
一所懸命に、新しい言葉を紡いでくださいました。
準備されていたはずのその日の講義内容を措いてでも、
浅学非才の若者の質問に、取り組んでくださる。
教師とはこうしたものかと、感じ入りました。
そこで詰め切れなかった議論が残りましたので
後日、先生宛にお手紙を出してご質問することを願い出ますと、
先生は喜んでこれを了としてくださいました。
議論はまだ継続中です。
また、ここにご報告することもあるでしょう。
5月17日(日)
仙台市民教会で、礼拝の後、勉強会。
卒寿間近な我等が老牧師の、貴重なご講義でした。
「ハイデルベルク信仰問答」が、テキストです。
このテキストは、宗教改革で混乱する16世紀のバイエルンで、
時の領主が、混乱収束のために作らせたもの。
それは非常に良くできていたので、今でも「古典」として重宝される。
たとえば、「汝殺すなかれ」という「十戒」の言葉を解説して、
この「古典」はこんなことを語る。
神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、
この方がわたしたちに求めておられるのは、
わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、
忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、
その人への危害をできうる限り防ぎ、
わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。
こうした言葉は、「読むだけでもためになる」ありがたい言葉です。
でも、この「古典」には「問題」がある。
もともと、領内の秩序維持のために作られたものです。
だから、どうしても、権力者に都合よくできている。
たとえば、
あらゆる権威・権力に対して、服従するようにと勧めていたりする。
そしてその根拠として、
「あらゆる権威に服せ」というパウロの言葉を引いたりして。
ヒットラーだって、東条英機だって、J・W・ブッシュだって、
みんな、「上に立っている権威」でした。
でも、それは人間です。だから、間違うこともある。
それに、ひたすらに服従することは、聖書の精神にかなうのか、どうか。
「権威と服従」という問題。
これは、今・ここで、新しい問題として迫ってくる事柄です。
それを、みんなで考えた。
16世紀の「古典」は、「今・ここ」の問題を考える手がかりになる。
さすがは、「古典」だと、良い学び会になりました。
5月18日(月)
「食」をめぐる勉強会に参加。
これは、仙台食糧デーの継続活動。
既に私が遺伝子組み換え食品の社会的問題を講義した、
その続きでした。
今回は、生物学博士の高橋清先生の御講義。
高橋先生は、牧師を本業としておられる科学者です。
生物学は、現在、進化論をめぐってキリスト教と折り合いが悪い。
でも、生物学分野で第一線の研究をしながら、牧師であり続ける、
そんな人も、世の中に入るということ、それが、大きな驚きでした。
英語圏を中心に、ドーキンスやグルードといった人々の尽力があって、
20世紀を通じて、進化論をめぐる議論は先鋭化しました。
それで、キリスト教会の中には、科学へのアレルギーのようなものも生まれた。
でも、科学と信仰は本来結びついていた。
それを切り離したのは、進化論の理論だけではないはずです。
むしろ、キリスト教徒の信仰理解が、科学を容れないほどに矮小化された、
そんな可能性を考える必要がある。
高橋先生の思想は、そんなことを考えさせるものでした。
5月21日(木)
保育園の遠足。
久しぶりに、丸一日、「お父さん」の仕事をする。
授業は休講。もちろん、この日の収入はゼロ。
ついでに、遠足の後、車が故障して、買い替えとなる。
壊れたのは、25万キロ走りまくった日産プリメーラ。
何もこんなタイミングで壊れなくても・・・とも、思えるところですが、
いやいや、そのおかげで、娘と濃密な時間を過ごすことができた。
「モノより思い出」というと、日産自動車の宣伝コピーですが、
遠足の後、自動車の故障で沢山お父さんと遊べた娘としては、
大満足の一日、ということになったことでした。
5月26・27日
日本基督教団の「教区総会」。
タレンティッドでカラフルな牧師が大集合。
私は、この秋、牧師資格試験を受けることになりましたので、
合格できたら、この方々の「お仲間」となる。
興味深々で、大学での私の講義時間ぎりぎりまで参加。
(もう少しで、遅刻するところでした。間に合ってよかった。)
興味深かった事がいつもあるのですが、
そのうちひとつだけ記しておきます。
牧師資格獲得のための試験を受けるにあたっては、
この総会で選ばれる委員会の推薦が必要となるのですが、
その推薦の可否を決定する面接の場において、
推薦する委員会自身が真剣に問われるのだと、
そんなことを議長がおっしゃっていたこと。
これは、本当に、敬服すべき姿勢。
なかなか、すばらしい集団に、私は参加している様子です。
5月28日(木)
公開講演会「教会とデモクラシー」に参加。
旧知の仲間豊川慎先生と再開。
30歳代の仲間が、こうした表舞台に発題者として登壇する。
頼もしいことこの上なく、実際、その講演会は刺激的なものとなりました。
来週金曜日は、私も大学のファカルティー・フォーラムに登壇。
準備に、拍車がかかります。
5月29日(金)
高校の授業。うれしいことが、二つ。
ひとつは、
私の話を聞いて、
キリスト教に真剣な興味を持ってくれた生徒が出てくれたこと。
もうひとつは、
私の話が分からないといって、
真剣に、ひたすらに、問を投げかけてくれたクラスが出てきたこと。
ある授業終了後、一人の生徒が真剣に、
キリスト教について質問してくれました。
こうしたことは、大学の授業ではないことです。
(大学の授業では、授業内容の質問ばかりでした。)
別のある授業では、生徒諸賢がはじけて、授業が崩壊しました。
私の話がわからなすぎる、のだそうです。
多分、こんな感じでは、私は教師失格なのでしょう。
でも、職を失ったとしても、この生徒諸賢に向き合ってみようと思う。
今道先生が、私に向き合ってくださった。
私も、自分の完成に向けて、自己解体的にやってみましょう。
教育とは、倒錯と失敗の積み上げでしかないはず。
でも、その破れの先に、何かが立ち上がる。
そうした希望を示すことができれば、それでいい。
5月最大の収穫は、昨日の授業にあったようです。