いい天気だ。予報では昼前から曇天ということだったがずっと明るい春の陽射しが溢れている。日向で動くと汗ばみ、日陰でじっとしていると少し寒いという三月下旬らしい気温で、厚いジャケットと薄いジャケットを着替えながら、市民広場で「3.27 NO NUKES Parade」の会場設営の手伝いをする。
チェルノブイリ事故から30年、福島事故から5年経った。昨日26日には東京・代々木公園で「原発のない未来へ!3.26全国大集会」が開かれ、3万5000人が参加したという。昨年は、3月8日に日比谷公園で2万3000人が参加した「3・8 NO NUKES DAY 反原発・統一行動」が開かれ、私も集会から国会前での抗議行動に参加した。
今年は、東京、仙台と連日の行動は無理とあきらめて、仙台の「3.27 NO NUKES Parade」だけにした。いくぶんできた余力の分で、少しでも手伝えればと早めに会場に来たのである。
挨拶と報告。(2016/3/27 14:02~28)
篠原恭子さんの司会で、集会は始まった。実行委員会を代表して脱原発みやぎ金曜デモの西新太郎さんの主催者挨拶は、「皆さん、お天気が良くてよかったですねぇ」という言葉で始まり、伊方原発1号機の廃炉決定に触れ、「みなさんの力で必ず女川原発を廃炉にしましょう!」と締めくくった。
続いて、宮城県内のそれぞれの現地で脱原発の活動に携わる人たちから挨拶や報告があった。初めに、女川原発の立地自治体の女川町議の高野博さん、阿部美紀子さんが挨拶された。40年前、東北電力は「原発は絶対安全で放射能の心配もない」と女川町民に説明して原発を建設した。福島の事故でそれが全面的な嘘だと分かったのだから廃炉にするのが筋道だと、高野さんは強調された。阿部さんは、旧牡鹿町で43%、旧雄勝町で74%の人口減が地震と津波の被害ばかりではなく、原発への不安もそれを加速していると指摘され、住民に不安な生活を強いている原発を止めさせましょうと訴えられた。
指定廃棄物最終処分場候補地、加美町から「放射性廃棄物最終処分場建設に反対する宮城県民連絡会」代表の高橋福継さんが挨拶された。候補地の田代岳は鳴瀬川、江合川の水源山地にあり、処分場建設は宮城米の主要産地であるろ大崎平野を汚染する恐れがあると強い危機感を述べられた。
女川原発30km圏からは結成されたばかりの「女川原発UPZ住民の会」の事務局長、美里町の橋本史俊さんが挨拶された。知事のさじ加減でどうにもなるような東北電力とUPZ自治体との協定の内容を強く批判され、UPZの自治体も女川原発再稼働の拒否権を持てるように運動していきたいと決意を述べられた。
最後に、脱原発を目指す宮城県議の会代表の佐々木功悦さんが壇上に上がった。県議の会から参加された5人の県議、福島かずえさん、天下みゆきさん、遠藤いく子さん、中嶋廉さん、大内真理さんも壇上前に並ばれた。
佐々木さんは美里町長として町ぐるみの脱原発に取り組んでこられたが、町長辞職後、脱原発を訴えて県議に当選された方である。佐々木さんは、原発の耐震性にも言及された。女川原発はもともと250ガルに耐えるように設計されたもので、再稼働にあたって1000ガルに耐えられるように改良するとしているが、宮城県北部地震では4022ガルであったことを考えれば女川原発の安全性は全く信用できないと強調された。
集会中に核兵器廃絶・海外派兵反対を訴えて毎月一回33年も行進を続けている「市民行進の会」の皆さんが合流し、この後のパレードにも参加された。
600人が集まった。(2016/3/27 14:05、08、21)
「宮城のうたごえ」の合唱。(2016/3/27 14:45、46)
宮城県各地の脱原発・反原発の現場からの報告、挨拶の後、「宮城のうたごえ」のコーラスである。「なぜに、福島の地から」という歌で始まり、子どもたちへ想いを伝える「青い空は」と続いた。
昨年に続いて、今年も「みやぎ割烹着―ず」が楽しいパフォーマンスを披露した。「ラブ・ミー・テンダー」を忌野清志郎が「何言ってんだ~ ふざけんじゃね~ 核なんていらね~」と歌い出す反原発ソング「放射能はいらねえ!」に振付をして、歌って、踊るのである。
ファミリーコーナー。(2016/3/27 14:52)
みやぎ割烹着ーずのパフォーマンス、そして集会アピールへ。
(2016/3/27 14:55~15:00)
集会の締めは、集会アピールの朗読である。
3.27 NO NUKES Parade ! ―みんなで止めよう女川原発―
集会アピール
あれから5年経ちました。あの日、3月11日午後2時46分に、東北地方太平洋沖地震が起き、それによって東京電力福島第一原子力発電所では1号機、 3号機、4号機の水素爆発、2号機の格納容器破損という史上最悪の原発事故が発生して、悪夢のような放射能汚染と放射線被曝が始まりました。原発事故が生み出した放射能は、16万人の人々を福島の地から追い出し、残された町は人が住むのが困難な土地になってしまいました。
あれから5年も経ちました。事故を起こした4基の原発は、日本の科学技術では手の施しようもないまま、いまも大量の放射能を海と空に吐き続けています。いまだに10万人余りの人々は故郷に帰れる望みがありません。故郷の町では、強制的に遺棄させられた家畜やペットが命を失ったばかりではなく、すべての生き物たちが放射能に傷ついています。そして、私たちが何よりも恐れていた甲状腺がんの多発は、宮城県に住む私たちにとっても決して他人ごとではありません。
あれから5年経った今、私たちの子ども、そのまた子ども、そしてずっと未来の子どもたちのことを考えると、心も体も震えるばかりです。それなのに、政府や電力会社は福島を放置したまま、原発の再稼働を始めています。いくつかの裁判では、危険な原発の再稼働を認めない判決が下されました。しかし、私たち多くの国民の願いを聞くこともなく、政府は再稼働への動きを止めようとはしません。
あれから5年、私たちは、宮城県で生きていく私たちと子どもたちのために、女川原発の再稼働に反対し続けています。日本の未来の子どもたち、地球の未来の子どもたちのために、すべての原発を止めるよう求め続けています。
仙台市の、宮城県の皆さん、そしてこれからを生きていくすべての皆さんに訴えます。未来の子どもたちに健康で光り輝くような故郷を残すために、どうか原発廃棄の声を上げ続けている私たちの列に加わってください。
2016年3月27日
「3.27 NO NUKES Parade」参加者一同
昨日の東京の3万5000人には及ぶべくもないが、この市民広場には600人が集まって来た。「毎週金デモに参加する人も、一年に一度今日ここに参加する人もみんな同じ脱原発」と主催者挨拶で金デモ代表の西さんが言われたが、私たちの列にはもっと多くの人の意思が加わっているだろう。 宮城県全域でみれば、思いが強くても仙台のこの場所までやって来られる人は限られている。だが、私たちの列の見えない先にはその人たちがずっと連なっているにちがいないのだ。
市民広場からパレード。(2016/3/27 15:11、13、14)
一番町を行く。 (2016/3/27 15:28)
冬の間、ずっと暗い街を歩いていたので、温かい陽射しのもとでこれから街に出ると考えると少しばかり気分が浮いてくる感じがする。コールの練習をしながら、列がどんどん整っていく。
仙台市役所前の市民広場からまっすぐ南に出ればすぐに繁華街の一番町に入る。600人の参加者は、信号を一つ越えると三つのグループに分かれ、さらに最後尾を歩く「宮城のうたごえ」が独立したグループとなって、コールときどきコーラスという具合に進んでいく。
葉通りで東二番町通り(国道4号)を渡る。 (2016/3/27 15:41、43)
最後のグループが到着。 (2016/3/27 15:52)
傾きかけた陽を浴びて、色とりどりの風船や幟旗が輝いているようだ。若いころ、学生や組合のデモでこのような感じを受けたことはあまりない。
子どもから私のような年寄りまでさまざまな(つまり、色とりどりな)人々が声を合わせて訴える風景は、じつのところ、この日本にとってはとても近代的なことではないか。ここ数年の国会前の風景もそうだが、こうした風景はかつての日本にはなかった。私はそう思う。
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かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)