午前3時半ごろ目覚めて、床に入ったままスマホで高江のニュースを見る。高江の人びとに振るわれる機動隊の暴力が生々しく映し出される。マスコミのニュースサイトではない。SNSを通じて流れてくる映像だ。
小さなスマホの画面から憤りが伝わってくる。高江から遠く隔たった仙台のまだ暗い部屋の中で横たわっている私の胃の腑がぎゅっと縮こまって行くようだ。どうしたものかと思ってはみるが、さしあたって何もできない。
今日一日は、犬と30分ほどの散歩をして、それから1時間ほど一人で歩く。カメラを持って出かけるが、たぶん今日も写したいと思うものは見つからないだろう。
朝食を終えたら、入院中の義母に付き添っている妻の三食分の食事を用意して、病院に出かける。急いで帰宅して、息子との二人分の昼食を作り終えれば少し休息できる。夕方まで本でも読もうか。
犬の夕方の散歩をすまして金デモに出かける。家を出るとき、家に帰りついてから夕食を作るのが嫌だなあ、と思ったりするだろう。
朝、床のなかで想像したそのままの時間を過ごして、元鍛冶丁公園にたどり着く。金デモの常連の一人が3ヶ月ほど前に辺野古に行ったのだが、そのとき高江にも行ったという。
高江は「牡鹿半島の先の方の集落のような小さな村ですよ」と説明してくれて、それに頷いたものの、宮城県で70年生きてきた私は、じつのところ、牡鹿半島の先の方にはまだ行ったことがないのだった。
集会@元鍛冶丁公園。(2016/7/22 18:40~18:59)
何も考えず、半そでシャツのままデモに出かけてきたが、少しならず寒い。見渡せば、半そでの人は少ない。ほとんどが長袖シャツである。私と違って、たいていの人は気温に合わせて服装を選んでいるのがよくわかる。何を着ていいのかわからなくなってひとしきり妻に嘲笑されるのが、季節の変わり目の恒例になっている私とは大違いのようだ。
遠く県北からしばらくぶりで参加された方が、原発慎重派の候補者が勝った鹿児島の県知事選挙に触れて、宮城県でも選挙で脱原発へと動かしていけたら、と挨拶された。
また、先週に続いて、「女性ネットみやぎ 4周年のつどい」が7月24日(日)13:30~16:00、仙台弁護士会館4Fホールで開催する『原発事故、チェルノブイリ30年、福島5年の真実』(独協医科大学准教授・木村真三さん)の講演会の案内があった。
「大MAGROCK vol.9」に参加された二人の報告もあった。7月16、17日の両日にわたってロック・フェスティバルと大間原発反対現地集会が開催された。北海道から多く参加されていたのが印象的だったという。
函館市は津軽海峡を挟んでいても大間原発から30km圏内に位置していて、市が自治体として大間原発建設差し止めの訴訟を起こしている。現在は、自治体に訴訟資格があるかどうか入り口で争われている段階だと報告された。函館市としての参加はなかったものの、市民ばかりではなく市議会議員も参加されていて、ほかに泊原発の反対運動に関わっている人たちも参加されていたということだった。
大間原発の建設に反対して立ち退きを拒否している「あさこはうす」を訪問した報告もあった。そこには伊方原発反対運動に関わっている人たちも訪れていて、大間は全国的な脱原発の交流の場となっていた様子がうかがわれた。
今日も最後に司会者から私への質問の時間があった。集会の時間が余りそうになった時の時間稼ぎである。
福島第一原発をチェルノブイリ原発のように石棺で覆うという報道があったがどう思うかというものだった。地下で汚染水がダダ漏れなのに地上を密閉しても意味がないだろう。それに、石棺化はあの地に核燃料と放射化した原子炉がそのままそっくり残ることを意味しており、復興を願っている福島県民としては精神的に耐え難いだろう。かといって、メルトダウンした原発を解体処理して更地にする技術はいまの日本には存在しない。石棺化も解体廃炉も当面は無理だろうと答えた。
司会者は、暗い結論になりましたねと締めくくったが、だから脱原発しかないのだと答えた(これは心の中で)。
元鍛冶丁公園からから一番町へ。(2016/7/22 19:01~19:03)
元鍛冶丁公園から一番町まで出る道はそんなに長くはないけれども、国分町や稲荷小路を横切る狭い道なので、大勢の通行人はデモの列のすぐ間近を歩くので、いやでもデモの注目度は高くなる。
デモには悪くない道なのだが、通行人が大写しになるので写真選びが難しい。
一番町(広瀬通りへ)。(2016/7/22 19:06~19:10)
デモの列に前後して写真を撮りながら、一枚の写真を思い浮かべていた。ジル・キャロンの《サン=ジャック通りで舗石を投げる人、1968年5月6日》 [1] と題する写真である。
6月の末に東京都美術館で開かれている『ポンピドゥー・センター傑作展』で見た一枚だ。その美術展では、1906年から1977年まで1年に1作品だけを当てて選んだ作品が展示されていて、その写真はタイトル通り1968年の作品として展示されていた。
1968年のカルチェ・ラタンの一シーンで、砕いた敷石を投げる一人の青年の後ろ姿が写っている。空中に浮かぶように写しとられた石礫の先に壁のように並ぶ黒ずくめの警官が立っている。弾圧する国家権力への激しくも切ない一投の瞬間である。
機動隊に押しつぶされ、暴力をもって排除されている沖縄・高江の人びとの一投はいったい何だろうと考えてみる。言葉だろうか、眼差しだろうか。あるいは生身の身体そのものだろうか。
才能があれば、その場でこのような一枚を撮ってみたい。ジル・キャロンの写真を見た一瞬、そんなことを思ったのだが、いったい石を投げる人間になりたいのか、それを写しとる人間になりたいのか、この年になるまで分かっていないことに気づくばかりだった。
一番町(青葉通りへ)。(2016/7/22 19:12~19:17)
青葉通り。(2016/7/22 19:20~19:30)
デモはいつものようにとても元気に進み、青葉通りに入る。国道4号の大通りを越えれば、もう解散地点である。沖縄・高江の映像がもたらす感情をうまく処理しきれないままに歩いていたが、コールをあげていると少しは気分が和らぐのだった。
どのような組織、セクトにも属していない私は、いつでもただの一人としてデモに参加している。そんな私でも、この社会で生きていくからには多くの組織、集団に帰属することになる。かといって、けっして私が帰属するものを無条件に愛するなどということはない。おそらくは、私はもともと帰属意識が希薄なのである。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
寺山修司 [2]
若いころからしばしば寺山修司のこの歌を思い浮かべて、「愛するに足る祖国であるか」、「愛するに足る〇〇であるか」という設問を立てていた。日本で生まれたという単純な事実のみで無媒介に祖国愛とか愛国心に突き進む心性がいかに歴史を誤ったかはあまりにも明白なので、寺山修司のこの歌でみずからが帰属するものから少し身を引き、踏みとどまるのはけっして悪いことではないと思ってきた。
しかし、日本の政治権力が警察という国家暴力装置を駆使して沖縄の辺野古や高江で行っている大衆意思の圧殺の時代を生きていると、寺山の歌をさらに突き詰めて考えざるを得ないだろう。
こんな歌がある。
初夏愕然として心にはわが祖國すでに無し。このおびただしき蛾
塚本邦雄 [3]
[1] 『ポンピドゥー・センター傑作展 ―ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで―』(朝日新聞社、2016年)p. 163。
[2] 寺山修司短歌集(鵜沢梢選)『万華鏡』(北星堂書店 2008年) p. 72。
[3] 『現代歌人文庫 塚本邦雄歌集』(国文社 1988年)p.45。
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