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経堂界隈

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May 11, 2008
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カテゴリ:経堂町小史
四谷軒牧場の謂れを調べる中で、「泉麻人の東京版博物館」に昭和9(1934)年刊行の「大日本牛乳史」に記された由緒が紹介されていた・
「四谷軒の舎名は我が東京市乳界の老舗しにせである。明治十一年の創業になる先代佐々倉傅吾氏の創(はじ)めし店にして傅吾氏は福井県の人である。明治二年に上京というから維新後間も無き時にして世は尚なお戦いの夢醒さめず不安みなぎる時代であった。傅吾氏は四谷坂町に居を構えパン屋を開業す、当時のパン屋とて今日のパン屋に非(あら)ず駄菓子屋である。その時程遠からぬ麹町三丁目に阪川牛乳店あり、これを見て有利なる商売と思い、乳牛二頭を購入して搾乳販売を始む、後明治二十年に四谷花園町に牧場を開く」

この四谷軒牧場の手本となった、阪川牛乳はなかなか面白い。
まず阪川牛乳店は明治3年(1870)、医師、松本良順(元江戸城奥医師、のちに陸軍軍医総監)が義父の旧旗本阪川當晴と組んで、東京赤坂に和牛・洋牛各1頭で始めた牛乳屋。
牛乳屋経営は営利ではなく牛乳普及の手段とあるが、おそらく実益を兼ねてが本来か。
この牧場があった場所は、現在のプルデンシャルタワーあたり。
ところが早々に移転を迫られ、麹町五番町へ(英国大使館あたりという)

半七捕物帳 修禅寺物語などの作者として知られる岡本綺堂に「綺堂むかし語り」という小品があり、その中の「長唄の師匠」と題する一文に、
「元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋(きねや)お路久(ろく)という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花(はな)さんと云うのが評判の美人であった。この界隈(かいわい)の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃(みやけかほ)女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である」とある。
三宅花圃(旧姓田辺、本名龍子)は明治の歌人・小説家・随筆家。三宅雪嶺の夫人で、樋口一葉を世に出した女性といわれる。おそらく綺堂は花圃と親交があり、花圃から師匠の家が阪川牛乳店の荷車置場となっていることを聞き記したものだろう。
明治中期、神楽坂、若松町、市谷、九段から麹町、四谷にかけては、相当数の牧場があったようで、戯れ歌の「火事はどこだい牛込だい」は単に言葉遊びということでもなく、実際に牛込に牛が居たこの時代の成立かもしれない。

明治後期になると、都市化により麹町の牧場は移転を迫られ、阪川牛乳は幡ヶ谷へ移転したらしい。
徳富蘆花の「みみずのたはごと」に以下の一文がある。

「昨日隣字(となりあざ)に知辺(しるべ)の結婚があった。余は「みゝずのたはこと」の校正を差措(さしお)いて、鶴子を連れて其席に連なり、日暮れて帰ると、提灯ともして迎えに来た女中は、デカが先刻甲州街道で自動車に轢かれたことを告げた。今朝も奥の雨戸を開けると、芝生に腹這いながら、主人の顔を見て尻尾振り/\した。書院の雨戸を開けると、起きて来て縁に両手をつき、主人に頭撫でられて嬉しそうに尾を振って居た。正午の頃までは、裏の櫟林(くぬぎばやし)で吠えたりして居た。何時の間に甲州街道に遊びに往って無惨の最後を遂げたのか。
 尤も彼は此頃ひどく弱って居た。彼は年来ピンの押入婿(おしいりむこ)であったが、昨秋新に村人の家に飼われた勇猛の白犬の為に一度噛み伏せられてピンをとられて以来、俄に弱って著しく老衰して見えた。彼は其の腹慰(はらい)せであるかの如く、何処からかまだ子供々々した牝犬を主人の家に連れ込んだ。如何に犬好きの家でも、牝犬二匹は厄介である。主人は度々牝犬を捨てたが、直ぐ舞戻って来た。到頭近所の人を頼み、わざ/\汽車で八王子まで連れて往って捨てゝもろうた。二週間前の事である。其後デカが夜毎に帰っては来たが、昼は其牝犬を探がしあるいて居るらしかった。探がし探がして探がし得ず、がっかりした容子は、主人の眼にも笑止に見えた。其様な事で弱って居る矢先、自動車に轢かるゝ様なことになったのだろう。春秋の筆法を以てすれば、取りも直さず牝犬を捨てた主人の余の手にかゝって死んだのである。
彼は幡ヶ谷の阪川牛乳店に生れて、其処此処に飼われた。名もポチと云い、マルと云い、色々の名をもって居た。ある大家では、籍まで入れて飼って居たが、交尾期にあまり家をあけるので、到頭離籍して了うた。其様(そん)な事で彼は甲州街道の浮浪犬になり、可愛がられもし窘(いじ)められもした。最後に主従の縁を結んだのが、粕谷の犬好きの家だった。」

「阪川牛乳店」が、単なる牛乳販売店でなく、牛の居る牧場であったことは、
「明治四十三年三月二十三日、東京帝国大学教授獣医学博士須藤義衛門氏は、東京府下代々幡村阪川牛乳場に往診し、斃牛の剖検を行い炭疽病と診断した」なる記録が獣医学方面での記録として紹介されているので間違いないところだろう。
この時代「阪川牛乳店」は、日本ではじめてヨーグルトを製品化し明治45年に「滋養霊品ケフヒール」を発売していた。今でいえば「ケフィア」

関東大震災後、東京の宅地化はさらに進み、阪川牛乳場も代々幡からさらに郊外へと移転したようだ。犬を追って牛が歩いたわけではないけれど、行き先は、蘆花の住む粕谷の隣「祖師谷」
榎交差点の東北、安穏寺の北
阪川養牛場といったらしいのだが、だいぶん前に牧場はなくなってしまい、今は補助54号線と三井不動産レジデンシャルの「パークホームズ千歳烏山ガーデンズコート」が建設中。

四谷軒は、師匠格の阪川牛乳店よりあとまで世田谷の地に長らえた。
麹町で長唄のお師匠さん宅を荷車置場にした牧場が幡ヶ谷へ越し、その牧場に居た犬が、人里を離れ郊外に住む蘆花の下へ行く。やがて犬の居た牧場も蘆花の住む郊外へ移転し、今はそこに高級マンションが建設される。
四谷軒牧場跡のマンションに住む人は、そこが牧場だったことを牛魂碑から知るかもしれないけれど、阪川養牛場の跡は、たぶん知らずに住む人がほとんどだろう。





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Last updated  May 11, 2008 05:33:17 PM
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