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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2010.01.05
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カテゴリ:音楽あれこれ
 僕にとって、「自由」という言葉はある種の複雑な感情を引き起こさせられるものだ。
 1971年生まれの僕は80年代に思春期と呼ばれる時期を過ごし、そして学校生活を送っていた。校内暴力のピークは過ぎていたが、まだ「学校」の存在意義や権威を信じることができる時代だった。だからこそ「学校的価値」に対する反抗もできたし、そうした反抗もそれなりに意味を持つことができた。
 僕にとって学校はある型にはまった人生や生活を、安定を殺し文句にして強制してくるいやなものであり、だからこそ僕はそれに対する「自由」に憧れた。
 そしてロックも学校的価値に対する反抗を歌った。
 例えばブルーハーツは「学校や塾も要らない」と歌い、「見えない自由が欲しくて」と歌った。
 ある強制された人生からの解放。それはロックの中では「自由」という言葉で表現された。その頃色々なロックバンドがデビューし、解散していったが、「自由」であることが素晴らしいという価値観は共有されていた気がする。
 そしてそれに洗脳されるように僕も「自由」に憧れた。何にしろ「自由」に生きることが何よりも価値があることだ。そう信じ込んでいた。しかし「自由」は楽園へのチケットではなかった。

 1990年代や2000年代の政治や経済のキーワードは「自由化」だった気がする。規制を緩和ないし撤廃してより自由を。そして自由競争をすればより豊かになり、よりよいサービスが生まれる。もっと自由な市場を。もっと自由な働き方を。もっと自由な競争環境を。そうして様々な規制が撤廃された。

 その結果はどうだっただろうか。自由な競争をすればよりすぐれた一握りのものだけが生き残れる。気がついたら格差競争はより熾烈に加速していった。労働市場の規制が撤廃されたら正社員の椅子は少なくなり、非正規雇用ばかりしか働き口がなくなってしまった。
 そのわりに価値観の変化はそれほど急激にはおきなかった。相変わらず僕らは「正社員になって嫁もらって幸せ」的な価値観から解放されなかったし、20年以上も低成長が続いているのに高度成長時代の価値観から離れられなかった。
 その結果僕らはある種の恨みや剥奪感を感じざるを得なかった。本当は高度成長時代の豊かな生活上昇が約束されていたのに、それが裏切られた。
 それは世界的な歴史の潮流ではあるけど、そうしたものはなかなか目に入りづらく、僕はそうした剥奪感の原因の直接的な犯人を「自由」に見て取った。
 「自由」。それは確かにある種の才能を持った人々には素晴らしいものだ。しかしそうした才能を持つものは数が限られているから、残りの大半の人々はその自由を謳歌できない。いや。むしろ自由になればなるほど「持つもの」と「持たざるもの」との格差は広がる。それは経済的なことだけではなく、性的な解放を含めてだ。性が解放されればされるほど異性にアピールする能力を持つものと持たないものとの差がついてくる。そしてそれはもろにその人の人格だとかコミュニケーション能力だとかアイデンティティーに関わる問題に直結してしまう。
 そのときに至って初めて僕らは悟るのだ。規制はそうした能力や資源を持たないもの守るために作られた制度なのだと。確かに規制や規範は面倒だし、個人の自由を妨げる。でもそのおかげで才能も資源も持たない僕のような一般人でも生きていけるだけの配分を受けることができたのだ。
 だから僕ははじめから「自由」など求めるべきではなかった。たとえ窮屈に思えても解放を夢見るべきではなかった。なぜならば僕にはそのような「自由」の荒野で勝ち残るだけの才能も資源も持っていないのだから。
 そして僕は「自由」という言葉にかつてほどの幻想を抱かなくなった。それは多くの人々にとっても同じだったようだ。「自由」を無条件に賛美する歌を最近あまり聞かない。「見えない自由」は今の僕らが欲しいものではなくなった。

 毛皮のマリーズのメンバーは1982年ごろに生まれている。ギリギリで「ロストジェネレーション」のカウントされる年代。あるいはポストロスジェネと言っていいかもしれない。
 1982年生まれとはこういうことだ。パンクは生まれる前に終ってしまった。ブルーハーツのメジャーデビューは5歳の頃。尾崎豊がなくなったときに10歳。オウム真理教による地下鉄サリン事件は13歳の頃の出来事。神戸の児童連続殺傷事件が起きたのは15歳のとき。くるりやスーパーカーや椎名林檎といったいわゆる「98年組」がデビューした頃彼らは16歳。小泉政権が誕生したときに18歳くらいである。
 彼らにとってパンクもビートルズも過去のロック史上の出来事でしかないし、ブルーハーツや尾崎豊も同様だろう。
 それにもかかわらず彼らは過去のロックを引用する。「毛皮のマリーズ」というバンド名自体、「裸のラリーズ」のパロディーであるだろうし、現時点での最新作「Gloomy」というアルバムではビートルズやルー・リードの楽曲からの引用、あるいは題名を過去の名作から引用するなど、かつてのロックに関心があるように見える。しかしその引用はオマージュであるとかかつてのロックへの憧れではなく、またそうしたロックへの愛着を感じさせない。あえていえばその引用は昔から使われていたことわざを使ってみただけ。そんな距離感を感じる。例えば僕が文章で「豚に真珠」ということわざを使ったとしてもそれは「豚に真珠」という言葉に愛着があって使うのではない。単にある状態をたとえるのに便利だから使った。それだけのことでしかない。
 彼らの過去のロックの引用は、そうすると自分の表現したい状態を著すのに便利だから使ってみただけのことで、それ以上に何か意味があるものではない。そんな身も蓋もない意思を感じてしまい、戸惑いに似た感覚を僕は持ってしまう。
 そうした「ことわざ」的な過去のロックの引用で何を彼らは伝えたいのか。
 ファーストやセカンドの頃は漠然としていてよくわからなかったけれど、「Gloomy」というアルバムから彼らはあることを意識的に感じさせる曲作りをしているように思う。それは「反抗」だ。
 彼らは誰に反抗しているのか。大体ここまで何もかもが自由になったニッポンで反抗する相手などいるのだろうか。そんな良識ぶった評論言葉を沈黙させるように彼らは過去のロックを引用する。そしてその歌詞から垣間見られるのは自己破壊の感情、そして愛を通じての自己承認への渇望。彼らはもうニッポンに反抗できるほど頼りがいのある権威など存在しないことがわかっている。それでも彼らには今のニッポンがパラダイスであるとは思えない。その結果彼らの反抗はひたすら自分に向かって投げかけられることになる。

 「Gloomy」というアルバムには「神様」という言葉がよく登場する。神がいない日本で彼らは神様が気に食わないと歌い、神様が憎いと歌う。神様という言葉をそのまま受け取ると彼らの歌は的外れな反抗にしか聞こえないし、無宗教のニッポンでは何のインパクトも感じられない。でも彼らの歌う「神様」は実は宗教とは関係がない。よく文脈を読んでみるとその「神様」は、自分を不幸な状態に陥れた原因である何かだ。それは80年代なら学校のせいにできたかもしれないし、60年代なら政治のせいにできたかもしれない。でも2009年には、それは不透明でよくわからない。抽象的な言語で言えばグローバリゼイションだとか後期近代の再帰性の増大であるとか世界史的レベルでの歴史の潮流といった言葉に換言されるのであろうけれど、そんなものに対してどうやって反抗の狼煙を上げればいいのか。
 だから彼らは気に食わない「神様」にヘビメタ聴かそうぜと歌う。
 そうした空回りしてしまう反抗をあえてやって見せる。本気でやっているのなら馬鹿者扱いされてしまうけれども、その不透明な不幸の原因に目を背ける気持ちにはなれない。そんな股裂けの状態を表現するためには過去のロックを「ことわざ」のように引用するしかない。彼らのそうした姿勢はある種のしたたかさを感じさせる。


 先生 先生 あぁ あなたは
 どうして 僕らに 嘘のつき方を教えなかったの
 先生 先生 あぁ 僕らの
 未来は希望に満ちあふれてるって
 おっしゃったのはアナタでしょ?

 せめて あのコを 誰が泣かせたか
 それが 誰なのかくらい 教えてよ 先生
              「人生2」

 例えば80年代のロックであるならば、学校的価値に反抗するのがロック的であったから、先生の言うことを聞いて裏切られたという歌は歌えなかった。
 彼ら自身がどれほど先生や学校のいうことを信じていたのかはわからない。それでもあえて自分が先生の言うことを信じて今まで生きてきて裏切られたふりをする。そうすることでロストジェネレーションの代表的な論客の雨宮処凛がアジテーションをしているようなバラードを作ってしまう。
 彼らは前の世代の不幸をも射程に入れてしたたかに反抗を歌にする。

 それは非常に屈折していて面倒くさい方法ではあるけれど、そうすることでしか彼らは反抗できないし、叫び散らすこともできない。それは彼らしかできないロックンロールレベルなのかもしれないし、これが今後のレベル・ロックのスタンダードになりうるのかはわからない。
 「自由」が生み出してしまった不幸なニッポンで、彼らの反抗は解放も自由も更には幸福も約束してくれない。それは出口をなくしたニッポンの不幸をも象徴している気がしてならない。


毛皮のマリーズ / Gloomy 【CD】


毛皮のマリーズ / マイ ネーム イズ ロマンス 【CD】





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Last updated  2010.01.05 17:52:54
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trainspotting freak@ Re[1]:世界の終わりはそこで待っている(06/19) これはさんへ コメントありがとうござい…
これは@ Re:世界の終わりはそこで待っている(06/19) 世界が終わるといってる女の子を、「狂っ…
trainspotting freak@ Re[1]:ある保守思想家の死 西部氏によせて(03/02) zein8yokさんへ このブログでコメントを…
zein8yok@ Re:ある保守思想家の死 西部氏によせて(03/02) 「西部氏の思想家としての側面は、彼が提…
trainspotting freak@ コメントありがとうございます aiueoさん コメントありがとうございます…

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