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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2015.11.28
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カテゴリ:カテゴリ未分類
時代の空気という言葉がある。その時代を覆っていた人々の集合的な気分と言えばよいのだろうか。2015年の時代的な気分があるように、1990年代にも時代の気分とでもいうようなものがあった。「今と比べると」という比較でしかないけれど、その頃は今よりも解放的で自由なものだったと思う。
例えば1989年ごろに昭和天皇が崩御されたが、その際に起きた「自粛ムード」を茶化してしまう漫画だとか歌だとかを発表できる余裕とでもいうものがその頃にはあった。あるいは広瀬隆の原発言説を茶化してしまえる余裕がその頃のサブカルと呼ばれる分野にもあった。僕はその頃の音楽にどっぷり漬かっていた人間だから、その頃の音楽が表している気分を今でも思い出すことができる。
それは一言でいうと自由と解放への意思ではないかと思う。
80年代から少なくとも90年代前半にかけての日本は学歴社会であると言われていた。
いい学校いい大学いい会社というレールに乗れば一生は安泰。だけどそれは最終的には会社人間となって何かに従属しているかのような人生で、その行き先を簡単に想像することができる一直線のレールに乗って生きているかのような退屈なものだ。
そんなある種の息苦しさの裏返しとして「自由と解放への意思」を持った音楽が流行した。あるいは、僕が聞いていたロックというジャンルの音楽では「自由と解放への意思」を持ったものが大多数だった。
そうした雰囲気を背景にして、ザ・タイマーズのようなバンドが支持を受けた。そのような過激なメッセージを持たなかったバンドでも、例えばジギーならborn to be free 自由になるために生まれたと歌ったし、BOOWYなら「マリオネット」という曲の中で、「鏡の中のマリオネット 自分のために踊りな」と歌った。
その頃のロックを覆っていた時代的な気分は、本当に気分としか名付けようのないもので、ある体系を持った思想として共有されたものとまでは言えない。漠然としているけれどその空気なり雰囲気は「リベラル」なものだった。
そうしたリベラルな雰囲気をとりあえずここでは「さよく的」と命名しておこう。
そうした「さよく的」な雰囲気を象徴するような名盤がその時期に作られていた。例えばザ・グルヴァーズの「ロックンロール90」や、佐野元春の「sweet 16」やニューエストモデルの「ユニバーサルインベーダー」など。
ここで取り上げる真島昌利の「raw life」というアルバムもその頃のさよく的な空気を反映したものだった。
「raw life」というアルバムは真島昌利のソロアルバムの中で、そのサウンドがロック的なアルバムだとしてよく知られている。しかしその「ロック的」なサウンドはブルーハーツのものとは違っている。
その違いは真島昌利があえてソロアルバムでロック的なサウンドを演奏するという意味を考え抜いた先にあったものなのだろうと僕は思う。サウンドだけでなく、このアルバムに収録されている曲の歌詞も「考え抜いた」ものという印象がつよい。その歌詞は、ひねりが効いていて、多くの含意が含まれている。「raw life」は真島昌利がその当時にできた音楽的、文学的な可能性をとことんまで追求したアルバムであると言っていい。
だからこそそのアルバムはその時代の空気なり雰囲気を非常に良質な形で収めている。このアルバムから漂ってくる空気はその頃のさよく的な意識や、自由と解放への意思だ。
自由への意思は冒頭の「raw life」という曲にも表れている。自分がやりたい「ロック」という音楽は、いろいろな人があれこれ言っているものと違ってもっと自由であるべきだ。かっこいいとは言えない日常生活の一断面であっても、あるいはどんな「ロック的」でない場所で生活していようとも、自分が行っているのは何よりもロックなのだ。この曲はそんなマニフェストである。
「go go ヘドロマン」に代表される曲はわざと「良識的」な見解を茶化したものだ。その頃盛り上がっていた環境保護という正義に対して皮肉をぶつけた曲である。環境保護ということに彼が反対しているのではなく、環境保護というものが絶対的な正義として唱えれていることについての違和感をここで表明している。
そんな真島にとって「こちら側」の曲もあれば、「あちら側」の例えば雇用人の生き方を選んだ人々についての曲もある。「情報時代の野蛮人」や「煙突のある街」がそうだ。これらの曲が優れているのは、「あちら側」の人々を非難する内容ではないこと、真島に「あちら側」のどうしようもない事情を考えることができる想像力があるというところにある。「情報時代の野蛮人」は「あちら側」の人々の方向性に寄り添った歌でありながら、その持続性を問いかけている。
思いつくだけで羅列してしまったが、こうしてみただけでこのアルバムに収められている曲の表現の質の高度さや含意の深さはわかっていただけると思う。このアルバムに収められている曲全てがレビューする価値のある名曲ばかりであるが、今回は「こんなもんじゃない」という曲を特にピックアップして考えていきたい。
なぜ「こんなもんじゃない」なのかというと、「raw life」というアルバム事実上の最終曲であり(実際は冒頭曲のリプライズとボーナストラックがあと2曲収録されている)、そしてこのアルバムの最高潮とでもいうべき曲がこの曲であること。もう一つは、この曲がこの時代のさよく的な空気とそれが導くライフスタイルや考え方を最高の形で歌にしたものだと思えるからだ。

「今夜ボニーとクライドが 僕の部屋にやってくる」という一節から始まるこの曲は真島らしい文学性と様々な含意と警句 にみちている。
「もっと人は自由なのだ」とか「目がくらむほど何かを信じることは 時に自由をおびやかす」といった歌詞から読み取れるのはこの曲が「自由」について歌っていること、「自由」がこの曲では大きな価値をもってうたわれていることだ。
そしてその「自由」についてクライドが自分の見解を述べる。「ブタの自由に慣れてはいけない もっと人は自由なのだ」と。そこで語られる自由は、例えば学校の自由時間だとか会社が明日休みだから今晩は自由だとか、そういう「自由」とは別のものだ。そしてこの見解を述べたクライドという人物は多分「俺たちに明日はない」という映画のボニーとクライドだと思われる。
そこでの「自由」はしがらみだとか自分の人生を規制または限定するものすべてからの「自由」であろう。そうした自由が価値のあるものとして歌われている。
そうした見解をはさんで、この曲は「こんなもんじゃない」というリフレインが耳に残る。そして「こんなもんじゃない」と指示されている対象は明示されていない。自由に関する様々な見解について「こんなもんじゃない」と歌っているのか。自分が昔思い描いていた理想と現実のギャップが「こんなもんじゃない」なのか。あるいは夢想主義者として、現実に満足することをよしとしない姿勢の表れとして「こんなもんじゃない」なのか。そうした様々な解釈が可能なフレーズとして「こんなもんじゃない」という否定の言葉が印象に残る。
今二つ挙げた「自由」と「こんなもんじゃない」という言葉。それは聞く人に自由や人生について考えを迫る。その方向性はもっと自由をという希求の願いや、今の現実のままでは自分は満足できないという未来志向の考え方だ。それはその頃の時代的な気分だった「さよく的」心情をより深く考察したものだともいえる。

そうした姿勢の行き先には何が待っているのだろうか。


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Last updated  2015.11.29 05:38:50
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trainspotting freak@ Re[1]:世界の終わりはそこで待っている(06/19) これはさんへ コメントありがとうござい…
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trainspotting freak@ コメントありがとうございます aiueoさん コメントありがとうございます…

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