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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2020.03.06
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カテゴリ:読んだ本
石原慎太郎が都知事だった頃、仕事の同僚だった人に「石原慎太郎は素晴らしい政治家だ」と言われて困ったことがある。
石原都知事は絶大な人気を誇った政治家だった。臨海副都心開発、排ガス規制、銀行不祥事のときには外形標準課税の構想や新銀行東京の設立など、話題になるような政策を打ち出していた。そうした業績は認めつつも、僕は生理的に彼のことが好きではなかった。
記者会見などで見せる強圧的な物言い、そこから醸し出される雰囲気、そしていわゆる右派的な政治的姿勢。
それでその同僚の人に同意を求められて困ったので、「石原さんは、僕が高校時代に嫌いだった国語教師と雰囲気が似ているので好きではありません」と答えた。
それを聞いて、その人は「このおバカさんに、石原さんのすばらしさを伝えようと思ったのが間違いだった」と呆れた顔をしてその話を終わりにしてくれた。
石原慎太郎の小説は2~3作読んだことがある。その中にはもちろん「太陽の季節」が含まれている。
僕にとって「太陽の季節」ほど苦手なタイプの小説はなかった。
まず主人公が魅力的ではない。非常に計算ずくで打算的で小賢しくて純粋さとは程遠いその人間像は、例えば「ライ麦畑でつかまえて」のホールディンのような普遍的にアピールするタイプの人間ではない。よく過激と評されるその行動も時代に追い越されている。あと肉体主義的というか、ボクシングの描写シーンが不必要に多く、それが醸し出す体育会的な表現も好きにはなれなかった。
そして何よりも文章が苦手だった。彼の書く文章はことごとく僕の感性に合わず、読んでいてイライラしたし、非常に心地悪さを感じた。僕の生理的な感性全体が「太陽の季節」に拒絶反応を示した。これほどまでに自分の体に合わない小説は今まで記憶にないし、完全に「ダメ」だった。
例えば大江健三郎の小説は非常に読みにくくて、読了するのに大変なエネルギーと時間を要するけれど、「拒絶反応」を感じることはなかった。
逆に言うとなぜ「太陽の季節」はそれほどまでに僕の心を刺激するのだろう。

つい最近になってNHK出版より「シリーズ・戦後思想のエッセンス」のシリーズとして「石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか」が発売された。著者は「保守思想家」を標榜する中島岳志氏である。
先に感想を述べると、この本を読んで石原慎太郎という人の違った側面を見ることができて、僕には有益だった。そういう感想を持った。

中島氏は石原慎太郎が回想録で「戦後と寝た」と表現したことを受けて、石原氏はまさに「戦後」の思想の変遷をたどるうえで非常に重要な人物である。そう指摘する。
そしてデビュー作である「太陽の季節」から始まって、石原氏の作家論及び思想論を展開する。
僕にとって非常に示唆的だったのは、石原慎太郎という人が弟の裕次郎のような札付きの不良ではなく、むしろ青白いインテリに近い人物だったということ。そして、そうした青白いインテリである自分が嫌いで、肉体労働者や不良に憧れるタイプの人物だったことだ。
だから「太陽の季節」は自分の生活をそのまま表現した私小説ではなく、最近の「不良」をモニタリングし距離を置きながら表現した小説である。そのような「太陽の季節」論である。
そのとき、自分が「太陽の季節」に感じた違和感や拒絶反応の理由が分かった気がした。
「太陽の季節」の主人公が魅力的な人物ではないのは石原慎太郎がわざとそう書いたからだ。
「体育会的」と僕が感じた部分は、石原慎太郎の肉体労働者や不良への憧れが反映されている。
そしてこの小説に僕が感じた生理的な拒絶反応。それはそうした不良に憧れるインテリとそれほど変わりがない僕を、露悪的に表現したそのやり方や文体に同族嫌悪を抱いたからだ。
そうした形で自分と「太陽の季節」との距離感を非常に明快に説明してくれた。それは非常に大きな新視点だった。
そして石原氏が直面した問題で一番大きなものは「虚脱感」と表現される何かだった。それも非常に大きな指摘だった。
「虚脱感」は現在の僕にも理解可能なものだ。
経済成長を遂げ、戦争直後のような混乱から抜け出した日本。そして自分たち。だけどそうした自分たちは何を目的にして、何のために生きているのだろうか。
何かの確固たる哲学や思想的基盤はない。とりあえず何かに流されるように生きている。それだけ。
人は歴史に投企しなければならない。そうでなければ意味がない。道徳的な人はそういう。自分の歴史的使命を自覚し、その使命を果たすために自分の「生」を生きなければ意味がない。
ではその「歴史的使命」って何だろう?豊かな社会に生きて幸せなはずの僕らは、そうしたことに全く無自覚で自堕落に生きている。だけど考えれば考えるほど「歴史的使命」はわからなくなり、遠ざかっていく。
そうした問題群は例えばオウム真理教事件でサリンをばらまいたエリート信者たちから出た言葉であったとしても、全く不自然ではない。そんな「生」に関わる現代的で普遍的な問題だ。

また石原慎太郎の登場は新しい世代が登場したことのマニフェストとして受け止められた。その新しい世代の青年作家として彼は実際に行動し、発言し続けた。
その勢いとパワーはまさに青年と言うにふさわしいものだった。
しかし青年である人も年が経つにつれ「老い」に近づいていく。20代のころはできた無茶も30代、40代になるとできなくなり、肉体的な衰えを感じるようになってくる。その肉体的な衰えは自分の青年性を裏切っていく。精神的に若いつもりでも肉体がそれに追いつかない。
そうした時期を経るとどうなっていくか。
例えば僕の場合は「生活保守化」だった。
そして石原慎太郎の場合は戦前期や戦中時代のロマン化、そしてナショナリズムのロマン化だった。
左翼知識人で石原慎太郎はオポチュニストだと批判する人がいるけれど、この本では当初の左翼的姿勢から右派、ナショナリストへの転回は内的必然性があったものと解釈される。
その転回の変数は「虚脱感」と「衰え」との関数のようなものだ。「虚脱感」と対峙し続け、更に「衰え」を意識し始めるとともに、その寄る辺なさに耐えきれず、戦前やナショナリズムへのロマン化へと至った。僕はそのように読解した。

そして石原慎太郎の歩みに対応して論じられるのが江藤淳である。その主張の中で特に重要視されるのが「成熟と喪失」という評論で触れられた「治者」の文学である。
自分が何かに依存して生きていく。それは持続的なものではない。例えば父や母がいつか亡くなるのと同時に自分も「父や母」にならなければならないときが必ず来る。特に「父」のように自分の周りをコントロールし、自分が自分の意思で人生を生きていく。そうしてあり方を江藤は「治者」と呼んだ。
治者になるために必要なものは何か。それは成熟ではないのか。
僕なりの表現でそれを表すとこうなる。例えば「ライ麦畑でつかまえて」のホールディンのように「あれはだめだ これは嫌だ」と自分の気分の赴くままに世界を拒絶し、否定し続けること。そうした姿勢はある時期までは許されるけれど、そのままの状態で年老いていくと悲惨なことになる。
ある状態が嫌であるならば、それをとりあえず受け入れながら、それを自分ができる限りで良い方向へ向かうように働きかけていく。そうした形でより良い状態になれば、それでよしとする。
世界を拒絶するだけでは何も変わらない。自分が世界に向けてアクションしなければ何も変えられない。そうした「大人の知恵」を身につけなければ「いやだ いやだ」の世界から抜け出せなくなる。

江藤淳は日本が戦後20数年たっても「青年的」でただ勢いだけで経済成長を突き進んでいく様子に違和感を持っていた。そして日本がそのように「青年的」であるのはアメリカに対する依存があるのではないか。そんな問題意識を持っていた。
そのうえで中島氏は「石原慎太郎」や「戦後日本」に江藤淳の問いを投げかける。「戦後日本」は青年期を終えて「治者」としてふるまえているのだろうか。
中島氏は「石原慎太郎」にも、そして現在の日本の状況についても、それについて否定的な意見を述べる。

それはこんな思考実験をしてみるとよくわかる。これからの世紀は中国が非常に重要な存在として世界地図上を占めるだろう。そんな中国が日本に攻めてきたらどうするのだ。それは大変なことだ。そのためにもアメリカ軍が日本にいてくれなければ困る。アメリカ軍が日本に駐留してくれるなら、日本はアメリカの政治的要求は何でも聞きます。そうすべきだ。
極論ではあるけれど、そのような思考が日本の政策や外交をがんじがらめにし、文化的にも政治的にもアメリカに対する依存が強くなっている。

この石原慎太郎論を読んで連想したのは、白井聡氏の「国体論」だ。
だから左派アレルギーのある人には、この本は「偏向」していると反論があるかもしれない。
しかし何よりも自分にとって身近だったのは、石原慎太郎が「虚脱感」と対峙し、闘い、その果てに今の彼の思想にたどり着いた。その事実だ。
そうした作家像はもしかしたら「太陽の季節」をリアルタイムで接してきた人には自明のこと、あるいは「何をいまさら」的な凡庸な作家論なのかもしれない。
また「シリーズ 戦後思想のエッセンス」としての枚数制限があったのだと思う。もっと深く掘り下げて論じてほしかった部分もある。
だからこの本は「石原慎太郎の何がすごいの?」「石原慎太郎って名前は知っているけど読んだことがない」という今の中年層やもっと若い世代の人々には有益だと思う。
歴史的文脈に沿っていかなければ理解できない存在。つまりは「戦後と寝た」人。それが石原慎太郎という人物なのだから。


石原慎太郎 作家はなぜ政治家になったか (シリーズ・戦後思想のエッセンス シリーズセンゴシソウノエッセンス) [ 中島 岳志 ]





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Last updated  2020.03.06 17:02:24
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trainspotting freak@ コメントありがとうございます aiueoさん コメントありがとうございます…

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