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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2021.01.27
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カテゴリ:見た映画
じりじりと。朝が来る。太陽は今日も眩しい。目がくらむほど眩しく強い。もう夏は終わり、秋が来たというのに夜勤明けの僕には太陽の光があまりにも眩しい。
夜は僕にとっての活動時間。もう7年以上夜を過ごしている。だけどなぜだろう。夜の暗い熱気は僕を確実に消耗させる。
そして消耗しきった僕を照らす太陽は、まるで僕を追い詰めるように疲労感を爆発的に増大させる。
あれをやらなくては。これをやらなくては。仕事の残りはまだここに残っている。かつてはそんなものはどうでもよかった。でも今はそうはいかない。責任を果たすために。自分の場所を確保するために。それを白紙にしておくことはできない。携帯の代金を払うためには金が要る。家賃を払わなければ追い出される。だから仕事をやめるわけにはいかない。そうやって生活は僕の人生の可能性を確実に侵食し、腐らせようとする。
今日の感染者は500人。あいつが死んだという。最近はロックスターがいつの間にか逝去したというニュースが絶えない。僕は確実に年を取った。かつての生のエネルギーも衰えを感じる。このままではだめだと思う。なのに毎日の疲れは僕の時間を無駄にダラダラと滅失させていく。
僕はどこへ行くのだろう。僕はどこへたどり着くのだろう。時々そう思いたいと願う。たまにはそう悩みたいと思う。だけど僕を縛り続ける生活はそんな想像力すら奪い、僕は目の前にあるタスクをただこなすだけで毎日の人生を潰し続けている。
最近は映画すら見ない。ここ10年、文章をほとんど書いていない。僕は限りなく怠惰に毎日を過ごしている。そんな堕落した僕を30代前半の僕は許しただろうか。
岡崎京子の映画が公開されるという。見に行かなければ。だけどなかなか行けない。残業も続いているし。疲れて何もしたくないし。今夜の仕事は休みだ。それなら映画を見に行ける。上演終了の直前に「ジオラマボーイパノラマガールを見に行った。

例えば上記の文章を読んで、この記事を見た方はどのような感想を持っただろうか。何か気取っただけの自己満足な文章。自分に何がしかの才能があると勘違いした人が書いたありがちなナルシスティックな文章。すごく古い感性に従って書かれたダメな文章。もし40代以上の方々だったらこんな感想を持つかもしれない。よく90年代のサブカル雑誌で見かけた三流ライターが書いていた感じの「ありがち」な文章。
そのような評価がついても僕はそれほど気にしないだろう。なぜならそのように見えるようにわざとそう書いたからだ。
90年代に読んだ文章書き方入門の類でよく目にした事柄として、「体言止めやそれに準ずる表現は避けた方がよい」というものがあった。
そうした表現を使うと強調したいところをうまく強調できたり、文章に独特のリズム感が生まれたりする。だけどあまりにもそうした表現技法を使うと、それこそ自己満足の文章になりがちだし、散漫な文章という印象を読者に与えたりしかねない。
しかし90年代に読んだ文章を思い出してみると、文学作品にしろ評論文にしろ漫画表現にしろ体言止めやそれに類した表現技法をよく目にする機会があった。そしてそれは成功している。そう思えることが多かった。
今になって思うけれど、そうした表現技法も「時代」が関係していた。そんなことが言えると思う。作家あるいはライターは自分の感性に従ってそうした表現技法を使用する。その感性が的外れでなければ、そうした表現がうまくきまる。ではその「感性」はどこから生まれたのか。それは90年代に活躍していた彼や彼女が今まで読んできた表現や、共時的な「かっこいい文章のフォーマット」みたいな共通理解によっている。後段の説明をもっと違う言葉で言うと、「あの文章はかっこいいね」「あの文章はちょっと駄目だね」みたいな境界線が作家やライターや読者の間に流通していて、ある文章を見て「あの文章はかっこいいね」に当てはまる文章であると、それは高評価を持って評価される。そしてそのような感覚は90年代という時代の「精神」のようなものの一部であって、時代に拘束されたものであった。そうして時代の精神のようなものは、その時代に生きた作家たちの作品にも影響を与えずにはいられなくて、岡崎京子の作品もそこからは逃れることができなかった。
だから岡崎京子の作品がダメだというのではない。
例えば文学史上に残る大作家たちの作品、芥川龍之介にしろ太宰治にしろ三島由紀夫の作品にしろ、それはその時代の精神に拘束されたものだ。だけど、彼らの作品が時代の精神に影響を受けながらもその時代性を超越する何かがそこにあったから彼らの名前が文学史上に刻まれることになった。時代性を超越する何か。それは普遍性といってもいいのかもしれない。太宰治の作品は時代に拘束されている。それでも「人間失格」や「斜陽」といった作品は今読んでも何か心を打つものがある。

2020年の岡崎京子作品。それは漫画の世界の古典的名作の一部として語られるような存在なのだろう。リバーズエッジも東京ガールズブラボーもPINKも時代を超越する普遍的な魅力を持った名作なのだろう。
だけど1990年代の記憶を持った僕などは彼女の作品を90年代の記憶からうまく切り離すことができない。
映画「ヘルタースケルター」を作った蜷川監督は1972年生まれ。映画「リバーズエッジ」を作った行定監督は1968年生まれ。両方の監督も1971年生まれの僕と同じころに90年代をそして多分岡崎京子を体験していた。だから「90年代の記憶」を両方の映画は含んでいる。だから僕は両方の映画にある種の共感を持ってみることができた。

しかし岡崎作品は90年代の精神を越えて、それ以降に生まれた人々に対してもアピールする普遍的な何かを訴えかけ続ける。すると例えば2000年生まれの岡崎ファンと僕とでは岡崎作品の理解が異なってくる。そうしたことが起こったりする。
映画「ジオラマボーイパノラマガール」を作った瀬田なつき監督は1979年生まれ。ジオラマボーイパノラマガールの原作が発表されたときは10歳くらい。もしかしたらリアルタイムでこの作品に出会った可能性はある。そして90年代は10代から20代前半の間を過ごしている。1995年は16歳の時のことだ。多分その頃小沢健二や岡崎京子を熱烈に愛した青春時代あるいは高校時代だった。そんなことを想像できる。

しかし8歳上の24歳の僕は1995年当時、多分違う風景を見ていた。

映画「チワワちゃん」を見たとき、映像がチカチカとうるさくて何を訴えたいのかわからない。そんな感想を持った。監督の二宮健氏は1991年生まれだという。彼にはもしかしたら90年代の記憶などないのかもしれない。

映画「ジオラマボーイパノラマガール」を見て感じたのはセリフが空回りしている感覚だった。映画の登場人物の話す言葉がうまくかみ合ってなくて、それが場面場面の必然性のない展開をうまく埋め合わせてくれない。だからなにか不自然な展開の映画にしか見えない。
例えば神奈川ケンイチが高校を辞めるときに高校教師にキスをする場面がある。それはほぼ不条理にしか見えなかった。彼はなぜそんなことをする必要があったのだろうか。
パン屋襲撃の計画での村上春樹の作品の題名をセリフで言うシーン。あれはなぜ必要だったのか。僕には理解できなかった。
それに所々で気恥ずかしい気持ちになる場面もあった。悪い言葉で言うと「クサい展開」があったということだ。
原作のジオラマボーイパノラマガールは非常に色々な要素が詰まった作品だ。ハルコに憑依するおばあちゃんだとか、心を読める妹だとか、街の顔役タイラヒトシだとか。
それを2時間にまとめるために、映画ではハルコとケンイチの出会いとすれ違いに重点を与えて作られている。
そしてあえて2020年付近の時代を舞台に物語は進む。
それは瀬田監督の、岡崎京子を90年代的な記憶から切り離して語らなければならない。そうした意思を感じる。
岡崎京子にしろ、この作品に登場する小沢健二にしろ、それらの作品は今まであまりにも90年代的記憶で語られることが多すぎた。それらの作品は絶対に90年代的精神を越える普遍的な価値を持っているのだから、90年代の記憶から切り離すべきだ。90年代に青春を過ごしたオジサンやオバサンからそれらを新世代に開放すべきだ。
その意見に全く異存はない。
ただその「理解」の仕方までは、僕にはわからない。
2000年生まれの彼女がリバーズエッジを読んで、素晴らしい作品だと思う。それは94年に23歳だった僕がリバーズエッジに衝撃を受けたときと違った感想であるはずだ。
そして2000年生まれの彼女が2025年に例えばリバーズエッジの映画を作るとしたらどうだろうか。
多分僕にはそれを理解できないのではないか。そんな予感を感じる。

映画「ジオラマボーイパノラマガール」でのセリフの空回り。それは多分瀬田監督の作為なのだろう。つまりわざとそのように空回りするように脚本を作った。
2020年現在の女子高生(つまり主人公のハルコとその友人)の小沢健二の作品に対する愛情ある受容の仕方。それはもしかしたら瀬田監督のオザケンへの愛情がそうさせたのかもしれない。
それは多分瀬田監督が2020年にふさわしい「ジオラマボーイパノラマガール」を作りたいという意図のもとで行われたことだと僕は想像している。
「2020年にふさわしい」ということは2020年の精神からみてリアリティーがある、あるいは「この表現はかっこいい」という2020年の共通理解に合致しているかどうか。そこが2020年現在の視点からするとこの作品への評価ポイントなのだろう。

しかし残念ながら僕は2020年の精神からすでに見放されている。
だから僕は正直に「わからなかった」としか言い方がない。
岡崎京子の作品は当然ながら90年代育ちの人々の独占物ではない。むしろそれ以降に生まれた人々にも読み継がれるべき素晴らしい作品だ。
しかしそれをどう読むか。それは時代によって違う。それが僕に理解できるのか。理解できないのか。
理解できなかった場合は、僕は「僕にはわからない」「理解できない」とだけ言うべきなのだろう。

90年代的なリアリティーに基づいた岡崎京子作品の理解。それは例えば2000年代前半まではまだ有効だったかもしれない。
そして岡崎京子作品は時代を越えて読み継がれ、その作品は時代に伴ってどんどん更新され続ける。
その更新に僕はもうついていけなくなったのかもしれない。
そしてそれは。90年代という時代がもはや遠い過去になってしまった。そんなことを思いながらこの文章を書いている。


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Last updated  2021.01.27 15:04:44
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trainspotting freak@ Re[1]:世界の終わりはそこで待っている(06/19) これはさんへ コメントありがとうござい…
これは@ Re:世界の終わりはそこで待っている(06/19) 世界が終わるといってる女の子を、「狂っ…
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trainspotting freak@ コメントありがとうございます aiueoさん コメントありがとうございます…

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