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ken tsurezure

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trainspotting freak

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2022.06.12
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カテゴリ:読んだ本
この本、あるいは対談集の初版の年月日をみると2020年2月2日となっている。そこからこの対談は2019年以前に行われたことが推察できる。そのためこの対談が行われたとき、コロナ禍やコロナ以降のことはまだわからなかった。そのようなことも同様に推察できる。
この本の前書きには以下のような著者たちの危機感が書かれている。安倍政権下のもと日本は衰退しつつあるのではないか。そしてそうした安倍政権下の「美しい国」的なものに対して、無批判かつ迎合的な文化状況を憂う。そのような社会状況、文化状況に抗するため「ポストサブカル焼け跡派」を宣言し、今までのサブカルの歴史を捉えなおすのが、本書の目的である。と。
サブカルの歴史を捉えなおすとあるが、彼らはどのようにサブカルの歴史を把握しているのか。それは、対談のトピックスにあげられるアーティストたちや巻末年表を見るとわかる。一言でいうと大きな偏りや著者たちの独断が入っている。
例をあげてみよう。まず本文である対談。80年代を語る題材として、ビートたけし、戸川純、江戸アケミが取り上げられているが、ユーミンこと松任谷由実のことが全く触れられていない。80年代のポップスといううと必ずユーミンが語られるし、バブルを象徴する映画として知られる「私をスキーに連れてって」の主題歌や挿入歌はユーミンだった。
また巻末の年表(1969~2019)を見ると、1980年のジョンレノンの射殺事件が載っていなかったりする。他にも90年代ロックファンの鉄板ともいえるブランキージェットシティーの「CB JIM」やミッシェルガンエレファントの「ギヤブルース」の発表が載っていなかったりする(ミッシェルの解散は載っている)。
こうしたことを見ても、この本は大きな偏りと独断が含まれている。それはふつうの、「サブカルの歴史を全て網羅して解説しました」的なサブカル解説歴史本ではない。それではこの本(対談)は何を目指したのだろうか。
僕が読み取ったことを言うと、この本はある種の「自意識」の歴史をたどったものであるということだ。もっと言うと、「自意識過剰」なタイプの人々が何を選び何を消費したかをたどって、それを手掛かりに「現在(2019年)」にどのような可能性があり得るかを語り合った対談集である。
この対談を無理に要約するなら以下のようになる。
70年代。70年代をプレ80年代としてとらえ、日本が消費社会へと変貌しつつあるなか、カウンターカルチャーとしてのロックが次第に変わっていく過程を語る。
80年代。日本が「ジャパンアズナンバーワン」と称され、自他共に認める豊かな社会になった80年代。音楽の消費の仕方も多様化していくなか、「今自分が何を好んで聴いているか」がその人の「人となり」や「人格」を表していると同世代の中で共有されうる時代になる。(例えば「ユーミンを聞いているOLってこういう人が多いよね」「TOTOやジャーニーを聞いている大学生ってナンパがうまいよね」といったたぐいのコミュニケーション)。その中でその頃のサブカル総論としてのビートたけし。危うい自意識の象徴でもあり、女性サブカルの新たなフォーマットを産みだした戸川純。そして90年代のびつのあり方を提示していた、可能性としての江戸アケミ。この3人を中心に議論していく。
90年代。日本経済が衰退の曲がり角を急速に切っていく中、音楽産業だけはまさに黄金時代だった。宮台真司の研究(制服少女たちの選択 第2部)でも自明化されたように、90年代はある趣味を持ち、ある種の音楽を好んで聴く人はコミュニケーション能力が高くてモテて、ある趣味を持ち、ある種の音楽を聞く人はモテないし暗いといったことが完全に明らかになった時代だ。(90年代の中盤まで、「モテるヤツが偉い」というイデオロギーがかなり説得力を持っていた)。そのような時代の中、フリッパーズギター、電気グルーヴ、X-JAPANというそれぞれの自意識のあり方について考察する。
ゼロ年代。新自由主義による社会改造が急速に進んでいく。その中でゼロ年代に最も影響を与えたサブカルスターであり新宿系「自作自演屋」だった椎名林檎。新自由主義への適応の形としてのKREVA。荒廃していく現実からの新しい逃避形態としてのバンプオブチキンが取り上げられる。
そして安倍政権の10年代。時代の仕掛け人であり「最強最悪のゲームマスター」秋元康を踏まえて、新しい可能性としての星野源と大森靖子を提示して、10年代の総括としている。
この対談で最も興味深かったのは江戸アケミに関する対談だ。
日本がバブルの狂騒に入っていくなか、若者には今まで足かせとなっていたもの全てから自由になっていく感覚があった。でも実際のところ「物を買う・選ぶ自由」くらいしかなかった。
好きなものを消費し、好きなように生きているかのように見える私。でもその「消費しているもの」を全てはぎ取ったとして「本当の自分」はあるのだろうか。**というブランドの服を着て○○というお店で外食して***という車のカーステで○○〇というアーティストを好んで聞いている私。そうした「商品名」を脱ぎ捨てて丸裸にされた「私」という存在。そこで自分には何が残っているのだろうか。そのような形で「自分とは何か?」という自意識がフレームアップしてきた。
そうして自意識の問題への回答としてまずは麻原彰晃という回答があった。サブカル要素のごった煮のある種の体系をつくりあげ、それを信じるグルと信者との共同体を形作ることにより、自意識の問題を救済しようとした。
もう一つの可能性として江戸アケミをあげている。対談に即していうと、江戸アケミは音楽が鳴っているその瞬間に立ち上がる強度に自意識のみならずすべての救済をかけていた。そして江戸アケミ自身は徹底的な個人主義者で共同体を拒否した。
そうした「強度」を理解できる個人主義者たちがアソシエーションとしての「仲間」をつくりあげて、何かを成し遂げられるのではないか。そこに彼は可能性を託していた。
そうした内容の対談だったが非常に興味深かった。

     *            *           *

僕自身の体験や年齢からしても、最も興味深く読んだのは90年代だった。そしてそれは重大な岐路として対談でも語られている。
そこで「ポストサブカル焼け跡派」という本からインスピレーションをいただき、別論としての90年代を試論として書いてみたい。
主役は「ブルーハーツ」というバンド、あるいはそれを聞いていたファンである。

ブルーハーツというバンドには2つの可能性があったと思う。それは初期の「リンダリンダ」という曲に現れている。
①「ドブネズミみたいに美しくなりたい…」という当時の価値観の逆転・転回を提示した歌詞を重視する可能性。シリアスで、下からの異議申し立て、世間に対する反抗、社会的なメッセージといった要素を含んだ歌詞をより深めていく可能性。
②何の脈絡もなく挿入される「リンダリンダ」という叫び声にも似た「うた」や荒っぽい演奏の強烈さに象徴される「音楽の強度」をより追及していく可能性。
ブルハーツのファーストアルバムは①、②両方の可能性が渾然一体となって提示されているまさに名作である。
しかし「チェルノブイリ」や「Train-Train」というアルバムを経るに従い、世間一般のパブリックイメージとして①に重点が置かれる聴かれ方をされるようになっていったのではないか。
②の可能性を追求したいという指向をヒロトもマーシーも持っていた。それは「キューティーパイ」といった曲や4thアルバム以降のヒロトの作詞の変化にも見てとれる。
それにもかかわらず。ブルーハーツのそのような試行錯誤にもかかわらず、ブルーハーツは①のイメージの肥大化を避けることができなかった。
ブルーハーツを本気で好きになる人ってどのようなタイプの人が多かったのだろうか。統計を取ったわけではないのでわからないけれど、熱烈なファンの一典型として、「学校にも世間にもなじめない僕はどこに属せばいいの?」という自意識過剰さへの救済としてブルーハーツを聴いていた。それはありがちなことのように思う(自分がそうだったから)。
そうした救済としての「ブルーハーツ」。それは「ポストサブカル焼け跡派」の江戸アケミの対談でも触れられた麻原彰晃による救済とよく似た形をしている。
そのような「救済」をある意味で無毒化させる自意識のあり方としてフリッパーズギターや電気グルーヴのヒネクレかたがあった。僕はそのように思っている。「そういう人生系の重たさってありがちだよね。」と突き放しながら諧謔的に自分を提示するやり方。そうすることでオウム的な「体系」やブルーハーツへの不健康な思い込みに対抗する。そうした自意識のあり方。
論をブルーハーツに戻すと、そうした一部ファンの救済を求めるあり方はブルーハーツ自身にとっても重圧だったに違いない。
1995年にブルーハーツは解散。同年に地下鉄サリン事件が起こる。
ブルハーツ以降にヒロトとマーシーはハイロウズを結成する。それは①の可能性を徹底的に排除し、②の可能性のみを追求し、純化させていく活動だった。

ブルハーツの「苦悩」はどのようにして生じたのか。ブルーハーツの歌詞から読み取れる社会に対する下からの異議申し立て。それがあまりにも優れていたため、それは勝手に肥大化してしまう。その肥大化したイメージがある種の自意識過剰さを抱える少年少女たちの救いとしてあがめられる。そしてそうした「救い」はある意味で「オウム」と相同していたし、また「オウム」に対抗できる別のあり方を提示できなかった。
そのような「苦悩」は後のミュージシャンたちに学習される。そして意識的なミュージシャンであるほど社会性からの撤退が顕著になっていく。そうした社会性からの撤退の究極的なあり方として「セカイ系バンド」があるのではないだろうか。

以上。90年代のある側面からの試論だ。

  *         *           *

「ポストサブカル焼け跡派」のよいところは議論が「開かれている」こと。難しい専門用語を使わず、難しい概念でけむを巻くようなことをしない。自分が普段に使っている言葉でアーティストたちを論じている。
だからこそその議論の可否が確かめられるし、議論を自分でより深めたり、別の議論を並列的に提示したりすることが可能である。
確かにコロナ前の対談で「コロナ」という重大なテーマを論じていないのは2022年の時点では不完全かもしれない。
だとしてもここで展開される議論は「開かれている」という意味でも有意義であり、読者に何かを考えさせるパワーを今も持っている。そのように思う。



ポスト・サブカル焼け跡派 [ TVOD ]





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Last updated  2022.06.12 17:13:53
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