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最初に。この文章は「街とその不確かな壁」のストーリーや結末について言及している。いわゆる「ネタバレ」が含まれている。まだ「街とその不確かな壁」を読んでいない方はご注意をお願いしたい。
この本に付されているあとがきを読むと「街とその不確かな壁」は1980年に文芸誌で発表された中編小説を書き直したものであることがわかる。その中編小説には著者自身にとって何か重要なものが描かれていると予感しつつも、これを一つの小説として描き切るにはまだ自分は技量不足だと思い、そのままにしておいた作品。それが1980年に発表された中編小説「街とその不確かな壁」である。 そしてここに完成された2023年発表の「街とその不確かな壁」を読むとどうしてもある小説を連想してしまう。それは「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」だ。 さっそく「街とその不確かな壁」の内容について書いてみたい。 まず第一部では17歳の「ぼく」と1才年下の少女との交流を描いたストーリー。そしてそれと並行して壁に囲まれた「街」の「図書館」で「夢読み」という仕事をして生活している「私」のストーリーが描かれる。 結末を言うと、17歳の「ぼく」は年下の少女を永遠に失うことになり、「街」で生活している「私」はその壁に囲まれた「街」を出るかあるいは出ないか、選択をせまられることになる。 このように並行して2つの物語が進むというストーリー展開、更に一角獣や「街」に入るためには影を失わなければならないという設定などは容易に「世界の終わりとハードボイルドワンだランド」を連想させる。 だから第一部は何のインフォメーションなしに読むと、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のいわばリミックスヴァージョンに近い小説だなと思わせる。 そしてもし村上作品を時系列でたどるなら、「街とその不確かな壁」は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のアイデアのもとになった作品であるともわかる。 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で論議を呼んだことは、「世界の終わり」の主人公が下したある決断である。 「世界の終わり」で生きている主人公は「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」たる現実世界との関係を理解し、かつ現実世界に帰還できるにもかかわらず、「世界の終わり」に留まるという決断を下した。 その決断こそが80年代の村上作品の「デタッチメント」という姿勢を象徴している。そのように評された。 「デタッチメント」とは、世の中と関りを持たずに、自分自身の定めた最大公約数としての倫理と最小の欲望に従って生きていくという生活態度である。それはこの時期における村上作品の主人公の行動原理であると言ってもよかった。 そして2023年の「街とその不確かな壁」という小説でも、主人公の「私」は壁の外の世界に帰還できるにもかかわらず、「街」に留まることを決意する。 そこで第一部は終わり、第二部では「街」に留まる決意をしたにもかかわらず、なぜか「街」の外の世界で生きている「私」の生活が描かれる。 「街」での生活を経験した「私」が、ある地方都市の図書館での仕事を得て、そこの図書館長として生活していく話。その経緯が物語として描かれる。その過程で子易さん(の魂)、そしてイエローサブマリンの少年という重要人物が登場する。 その後第二部の終盤で「私」が再び「街」へ戻ろうとしていることを想像させる場面で終わる。 第三部では「街」に残ることを決意した「私」がそのまま「街」での生活を続けているという形でストーリーが展開する。 そこにいわば唐突なように、イエローサブマリンの少年が「街」に現れ、「私」と出会うことになる。 そしてその結果として「私」は「春の野原の兎」のような抗うことのできない衝動で「街」を出ることを決意する。その決意の後、「私」は「街」を出ることになるが、「街」を出てどこへたどり着くかその結末は明記されずに物語は終わる。 物語は2つの世界を行ったり来たりし、時間の流れも一直線ではない。非常に複雑に作られた小説世界だ。 そして例えば「ねじまき鳥クロニクル」のように、著者自身にも結末がわからないまま性急に書かれた作品という感じもない。著者自身がゴール地点を定めながら、制御しながら書いた作品という印象を「街とその不確かな壁」に対して持った。 つまり2023年の「街とその不確かな壁」は完成された作品、あるいは村上ワールドの円熟を示すような作品であると僕は思った。 こうした巧妙に作られた「街とその不確かな壁」だが、読み終わったときどのような感想を僕は持ったか。 例えば「1Q84」ではリトルピープルという僕たちが生きている同時代に対する何か重大な暗喩を提示して見せた。しかし「街とその不確かな壁」については、同時代に対する「重大な暗喩」は感じなかった。 この「街とその不確かな壁」は暗喩に満ちた作品である。読む人に、「これは何を象徴しているのだろう?」という想像力を要求する非常によくできた作品である。 それなのになぜそのような「同時代」に対するアピール力のある暗喩をこの作品は持たなかったのか。 その理由は、多分「街とその不確かな壁」がある意味先祖帰り、あるいはある時期への原点の確認という性格が強いせいではないか。僕はそのように思った。 * * * この作品で最も重要な登場人物は多分「イエローサブマリンの少年」だと僕は思う。このイエローサブマリンの少年はこの作品世界でどのような役割を与えられているか。 イエローサブマリンの少年は、第二部の「私」の世界と第三部の(「街」のなかの)「私」の世界に登場する。 このイエローサブマリンの少年という「他者」の介在(介入)で「私」は「街」とその外の世界を行き来することになる。 どちらかというと平穏なリズムで描かれる「街とその不確かな壁」の小説世界にあってイエローサブマリンの少年はいわば不自然に物語のリズムをかき乱す存在で、物語の「異物」でもある。 しかもイエローサブマリンの少年という異物が存在しなければ「街とその不確かな壁」という物語が成立しない、そのような重要な人物として描かれている。 つまりイエローサブマリンの少年は他者であり、コントロールできない「何か」を象徴する存在である。それではイエローサブマリンの少年は何を象徴しているのか。 1990年代に入って、村上作品は「デタッチメント」から「アタッチメント」に移行したと評される。時代に対して背を向けるのではなく、時代の空気とシンクロしながら時代に対して自分の作品世界を解き放つ。いわば「炭鉱のカナリア」への変化。 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」では主人公が「世界の終わり」で生きていくことを決断して終わり、「デタッチメント」を完結することができた。でも「街とその不確かな壁」ではイエローサブマリンの少年という異物の存在のために「私」は自己完結することを許されない。 こうした自己完結を邪魔する存在。それは例えば戦争であるとかパンデミックであるとかそうした現実世界の不穏な動きの象徴かもしれない。 それと同時にイエローサブマリンの少年は「デタッチメント」を貫きたい主人公に対する「アタッチメント」への契機として現れる。 つまり著者は「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のプロト作品を使って自分が「アタッチメント」へと姿勢を変化させたその原点をここで確認したのではないか。 そうした原点帰りは非常に重要なことではあるけれど、僕個人としては、「リトルピープル」という魅力的な暗喩に比べるとイエローサブマリンの少年は少しアピール力に欠けたのかなという感じを持った。 * * * 僕にとって村上春樹の存在はとてつもなく大きい。だからどのような作品であろうと新作の長編小説が発表されたら僕はその作品を読むだろうと思う。 そうした存在である村上春樹の新作を前にして、「街とその不確かな壁」は文学史上どのような位置を占めるか、あるいは文学的価値はどういうものかといったことが書けない。それを書くには僕はあまりにも力量不足だ。 だからありきたりな表現で最後を締めたい。誰かに「街とその不確かな壁」をどう思うか聞かれたらこう答えると思う。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」と兄弟のような作品だから、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだことがある人なら、興味がわくかもしれない。と。 (参照文献 村上春樹のタイムカプセル) 街とその不確かな壁 [ 村上 春樹 ] 村上春樹のタイムカプセル 高野山ライブ1992 [ 加藤 典洋 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.11.26 13:21:35
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