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2011年07月09日
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業を捨てるにはどうしたらよいのでしょうか

人間は、生まれたいと思って生まれたわけではありません。人間は、生まれさせられたのです。自分の意志に関係なく、この世に生まれさせられたのです。自分の意志でもない。又、親の意志でもない。一体、誰の意志なのかということです。漠然とした言い方になりますが、天の意志、又は、神の意志ということになります。
 神とは、人間に命を与えるもの、命そのものの実体、宇宙人格、宇宙生命そのものなのです。このような絶対者の意志がなければ、人間は生まれてくるはずがないのです。
 人間が生まれたことが業であるというのは、人間存在は与件だということです。日本人として生まれたいと思ったのではない。今の両親の子になりたいと思ったわけでもない。男になりたい、女になりたいと思ったのでもない。一切の条件に対して、口だしをする資格はなかったのです。
 全部与えられた条件です。与えられた条件でしか、生活できないのです。例えば、体重とか、身長とか、健康状態も、与えられた条件であって、与えられた条件以外の生活をしようと思っても、できないのです。人間は、基本的人権といいますけれど、自分自身が生きている条件を、どうすることもできないのです。これが業なのです。
 基本的人権といっても、業から逃れることはできないのです。この世に、生まれさせられたということが、業の本質なのです。そこで、命とは何であるか、人間は何のために存在するかという問題にとりくむのでなかったら、業を果たすことは絶対できないのです。
 人間が、地球上に存在することが業なのですから、存在の根本が何であるかを勉強するしか、業を果たす方法はないのです。
 釈尊は、生老病死という角度から、取り組んだのです。なぜ人間が生まれるのか。なぜ年をとって、病気になって、死んでいくのか。そのように、人間存在の根本問題と取り組む以外に、業を果たす方法はないのです。
 こう言いますと、とても難しいように聞こえますが、実は、自分が生きているという考えが間違っていることが分かれば、業がはてるのです。
 人間は、何が間違っているといっても、自分が生きていると考えることが、第一の業なのです。自分が生きているという考えが間違っていることに気がつけば、まず業が果てる第一の関門を突破できるのです。
 業を果たすための一番大きい問題は、自分の命があるという気持ちを、撤回することです。仮に、自分が生きているという気持ちをやめるとしても、命がなくなるはずはないのです。やはり、心臓は動いているのです。従って、自分が生きているという誤った考えをすてても、生きているという客観的事実は、少しも変わらないのです。
 命の本質を見極めるためにも、自分が生きているという勝手な考え、社会一般に通用する観念を捨ててしまうことが、人間の業を果たすことの一番てっとり早い急所になるのです。




人間歴史六千年の問に、本当のことを考えた人が、何人いたのでしょうか

これは皮肉な質問ですが、人間は生きていたのです。生きていたが、命を知らないままで生きていたのです。命を知ろうとした人は、相当あったようです。古代ギリシャでも、中世の東洋でも、近世のヨーロッパ社会でも、日本でも、人生を、宗教的な角度から、又、哲学的な角度から、まじめに考えた人は、相当あったでしょう。
 問題は、命の本質を、考えようとした人が、何人あったかです。
 釈尊は、人間が生きていることが空であると考えたのですが、実を見たから、そういえるのです。明星を見て、悟りをひらいたのですが、本当のものを見たから、自分が今生きているのは、本当ではないと、見きわめたのです。
 現在、人間が生きているのは、考え方の深い浅いは別として、結局、死ぬ命に生きているのです。死ぬべき命を、自分の命だと思いこんでいる。こういう間違いをしているのです。これをはっきり打開できたのは、イエスだけなのです。イエスという人物が、死を破ったのです。これは、新約聖書の中心テーマでありまして、このことは、新約聖書に、何百回も書いています。
 新約聖書は、ご承知のように、永遠のベストセラーと言われていて、世界中の人間に読まれてい泉が死を破ったという事実が、三百回以上も書かれているのです。現在、人間が生きていることが、死ぬにきまっている命なのです。空である。これも信用できます。今の人間が生きている命は、だから、人間が空であることと、イエスが死を破ったという事実以外に、本当に信用ができるものは、何もないのです。




自我を捨てるにはどうしたらよいのでしょうか

自分が救われたいという気持ちが、間違っているのです。イエスは、「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」と言っているのです。(ヨハネによる福音書12・25)これは、重大な発言です。
 これを、キリスト教は、取り違えているのです。キリスト教へ行く人達は、自分の魂が救われたい、自分の命が救われたいと思う人ばかりです。キリスト教が間違っていると言える理由は、ここにあるのです。
 つまり、自分が救われたいと思うものは、イエスの言葉に反しているのです。今の箇所を文語訳では、おのが命を救わんと欲するものは、これを失う」と言っているのです。又、マタイによる福音書16章24節では、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言っているのです。
 自分が生きているという気持ちを捨てることです。自分が生きているという気持ちを持ったままで、肉体があると考えていると、イエスの言葉に反するのです。キリスト教では、イエスの名、ザ・ネーム・オブ・ジーザス(the name of Jesus)が分からないのです。
 「御名があがめられますように」(マタイによる福音書6・9)とあります。これは、父なる神の御名ですが、これがキリスト教では分からないのです。
 崇めるとはどうすることか、御名とは何かです。キリスト教では、根本的な聖書の重大なテーマを、ごっそりと見落としているのです。本当の神が分かっていないからです。
 仏教でも、阿弥陀如来の名号が、分からないのです。聖書でも、イエス・キリストの名号が、さっぱり分からないのです。実は、これが本当の命なのです。大無量寿経と、仏説阿弥陀経、新約聖書のマタイ伝とヨハネ伝を並べて説明すると、分かるのです。これが本当の命の勉強なのです。
 イエスの名の中に、命があるのです。本当に、神の命を自分のものにしたいと思えば、イエスの名をつかまえたらいいのです。そうすると、イエスが、どういう生活をしていたか、なぜ彼が死を破ったかが、分かります。新約聖書の急所は、イエスの名前です。




剣の道に入っても心が定まらないのですが、どうしたら心が定まるのでしょうか

いくら剣道が上達しても、剣の心が分からなければだめです。命の真髄は、剣にも、禅にも、茶にも、花にも、政治でも、法律でも、何でも通じるのです。沢庵禅師が、不動心といっています。不動心とは、じつと動かないことだと思いますが、沢庵が言っているのは、いつでも、一ケ所にとどまっていないこと、心にとどこおりがないことだといっているのです。
 剣の試合をしている時は、たえず動くのです。一ケ所にとどまると、すきができるのです。不動というのは、空そのものを意味するのです。
 般若心経や聖書の面から言いますと、自分が生きていると考えている間は、剣の奥義は分からないのです。自分が生きているということが、嘘なのです。自分が生きているという常識が、頭に入りこみすぎているのです。
 自分が生きているという観念ほど、日本人を毒しているものはありません。これがある間は、本当の剣も、茶道も、花道も分からないのです。
 人間は、自分が生きているという、間違った考えをもっている。自分が花を活けている。自分が茶をたてている。これは、皆、嘘です。そんなお茶やお花が日本にある間は、日本文化を世界に誇ることはできないのです。花を活けているのは、人間ではなくて、生きているということが、花を活かしているのです。生きていることが、活花をいかしているのです。だから、自分が生きているという考えから、解脱してしまわなければ、必ず地獄へ行きます。
自分の命という、バカなものがあるはずがないのです。自分が生まれたいと思って生まれたのではない。五官の働きでも、目が見えることも、耳が聞こえることも、字が書けることも、自分が造りだした能力ではないのです。そうすると、命を人に与えているものがあるはずなのです。命の根源です。命の源です。神といっても、天といっていいのですが、この宇宙には、命の源があるにきまっているのです。これが、人の本当の命であって、この命を捉えるために、人は、現世に生まれてきたのです。
 この命が分かれば、剣の極意は、自ら分かるのです。本当の命が分かった人こそ、人を切る資格があると言えるのかもしれません。
 鎌倉五山の一つ、建長寺の祖元和尚が言っていますが、世界中をひっくるめて考えてみれば、一本の杖をおくほどの地面もないといっているのです。つまり地球は全然存在しないといっているのです。
 だいたい、人間が生きていると考えているのが、間違っているのです。天の命が、人のかっこうで、現れているだけなのです。これさえ分かれば、死なないのです。
 イエスは、神の言(ことば)が肉体をとって現れたのであって、イエスの肉体は影だったのです。イエスの主体は、神の言なのです。これが、命なのです。神の言が、命の実物なのです。
 イエスは、アイ・アム・イン・ザ・ファーザー(Iam in the father)と言っているのです。私は、父の中にいる。父の中にいることが、私だといっているのです。
 イエスは、地上で生きていなかったのです。父の中で生きていたのです。これが分からないと、イエスを信じることができないのです。自分がいるとか、自分が生きているとか、自分の経験、四十年、五十年、この世に生きていたという考えが、根本的に間違っているのです。五十年生きていたといいますが、時間はどんどん流れているのです。本当は、時間は存在していないのです。従って、空間も存在しないのです。何があるかといいますと、現象があるのです。現象は幻です。
 本当の神が分かりますと、始めて、時間と空間の本体が分かるのです。私達がこの地上に生きている命がどういうものかが、分かるのです。
 人は、今、この瞬間に、生かされている。しかし、人が生きているのではない。神が人というかっこうで現れているのです。話しているのは、自分のエネルギーではなくて、神のエネルギーが、人を通して現れているだけなのです。神の実物が命なのです。これをつかまえることは、可能なのです。素直に、素朴に、幼児のような心境にならなければ、命は分からないのです。







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最終更新日  2011年07月09日 08時20分55秒
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