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2011.06.19
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人間は何のために生まれてきたのでしょうか

人の本質は、天地が造られた時に神の中に住んでいて、神の手助けをしたのです。神の中に住んでいたのが、人間の本性の原理です。その時に、悪魔の反逆がありました。神が天地を造った目的は、悪魔の反逆を打倒するためです。
悪魔を滅ぼすために太陽系宇宙が造られたのです。神の御心に従って太陽系宇宙をつくり、森羅万象をつくつたとしても、神以外の人格が神に協力するという姿勢がなかったら、悪魔を滅ぼすことにはならないのです。
ただ神と悪魔の対立だけでしたら、神が悪魔に勝っても、悪魔は承知しないでしょう。悪魔は負けたとは思わないでしょう。そこで、神でもない、悪魔でもない、人間という第三者が造られたのです。人間が公平な場に立って、神に味方をすると、神と協力して悪魔を滅ぼすことができます。そうすると悪魔が文句を言えなくなるのです。
悪魔という人格性を滅ぼすためには、人という人格性が神に協力することが絶対に必要なのです。
神が神自身を大完成するためには、悪魔が完全に滅びなければなりません。悪魔を撲滅するために、神が人間を完成させることが必要なのです。
人間は神を信じることによって己自身を完成することができますし、また、神に従って悪魔を憎むことによって悪魔を滅ぼすことに協力することができるのです。
神の目的が人の目的でもあるのです。神と人が同じ目的をもって宇宙の完成に協力する。これが聖書の原理、天地創造の目的です。



原罪

現存在の人間の実体はリビング(生かされているそのこと)であって、リビングが永遠です。リビングという言葉の実体が永遠の命を経験することをさしているのです。
私たちは、現在、衣食住において、この世が造られるまでの命を経験しているのです。砂糖が甘いのも、塩が幸いのも、皆永遠の命の現われです。空が青いのも、木の葉が青いのも、海が青いのも、永遠の命です。生きていること自体が、すべて、永遠の命を体験しているのです。
ところが自分がいると考えている。だから死ななければならないのです。死ぬのは当たり前になってしまうのです。これは愚かなことです。本当に愚かなことです。
そこで、般若心経の五蘊皆空から入るのが、細い道へ入るための正門です。その他に、神の国に入る門があるのです。細い道へ入る門と、神の国へ入る門と、二つの門があるのです。細い道へ入る門が般若心経で、その道へ入ってしばらく通っていくと、神の国へ入る門に到着することになるのです。
空観とは何か。これは人生観でもないし、世界観でもない。人生そのものを否定するのですから、人生観ではありません。世界も否定していますから、世界観でもないのです。人生観、世界観から解脱する門が空です。その門を入っても何もないのです。
仏教的には、如来の国へ行くと、仏国浄土へ行くと言いますが、それを信じると、又もとの人生観に逆戻りするのです。
神の名によって洗礼を受けて水から生まれると、良き良心が与えられます。良き良心を崇めて生活することが、霊に従いて歩むことになるのです。水から生まれることと、霊から生まれることがあるのです。
霊から生まれるということは、聖書になじみのない人には何のことか分かりませんが、人間は現世に生まれて、人間社会の伝統、習慣、常識で生きています。これは肉の思いで生きているのです。
霊から生まれるというのは、神の御霊によって新しく生まれることです。神の御霊は森羅万象を生かしている大自然のエネルギーで、これと一つになることを霊から生まれるというのです。
良き良心は洗礼を受けた人でないと与えられません。キリスト教であっても、父と子と聖書の名によってバブテスマを受けると、良き良心が与えられるのです。だからキリスト教会の人々は、私たちの信仰は間違ってはいないと思うのです。彼らは良き良心は与えられますが、霊に従いて歩むことを知らないのです。良き良心は何かと言っても分からないのです。洗礼を受けた時に、良き良心を与えられるのです。洗礼を受けた時の気持ちを深くつっこんでいくと、永遠の命に到るのです。
人間は原罪のどぶ漬けになっていますから、人間の思考方式はすべて罪悪的、罪業的なものです。これをできるだけ修正しなければならないのです。
人間が現在生きていることの責任感、義務感を、どこに置かなければならないか。イエスは、私は生ける神の子キリストであると言った時に、どのような責任感と義務感を持っていたのか。主なる神のみに仕えよと言いきったイエスは、どのようなポイントに立って認識していたのか。父は今に到るまで働きたもうとありますが、どのように働いているのか。それと神の安息という大テーマとどのようにかかわっているのか、そういうことを子細に点検しなければならないのです。
現代に生きる私たちが、どういう考え方で生きるべきか。それを幼児的認識とどのように、からみあわせていくべきかということです。
私たちは生まれた時から原罪のどぶ漬けになっているために、原罪的な認識しかできないのです。原罪的な認識のテクニックしか知らないのです。自分の認識の大欠点を発見して、イエス・キリストの信仰を学ばなければならない必要性があるのです。
専門的な言い方になりますが、イエス・キリストの信仰は、水と血で成立していたのです。私たちとは存在の原理から認識の状態まで、すべて違っていたのです。私たちも神の子の信仰を持たなければならないのです。イエスが神の子であったことを信じる信仰です。イエスが神の子であることを信じるというのは、水と血をかねてきたことを信じる信仰です。神の子の信仰は、すべて水と血できた信仰です。この信仰の原点から検討していかなければならないのです。
私たち異邦人は、ずぼらな生き方をしています。そのずぼらさをできるだけ精密に認識して、私たちの内からずぼらさをできるだけ精算しなければならないのです。それをする方法が、山上の垂訓になるのです(新約聖書、マタイによる福音書五章~七章)。
私たちは生まれた時から原罪のどぶ漬けになっていることを、いつでも忘れないようにしなければいけないのです。自分の思いは良くても悪くても、根本的に間違っています。良いことは良いように間違っていますし、悪いことは悪いように間違っています。ですから私たちは自分の思いを、絶対に信用してはいけないのです。
自分の思いを信じてはいけないということは、腹を立ててはいけないということになるのです。自分の思いが間違っていますから、腹を立てることも間違っているのです。自分が腹を立てれば、必ず邪悪な思いで腹を立てるに決まっています。気にいらないと思えば、邪魔な思いで気にいらないに決まっています。
暗くなるというのは、どんな原因があっても、自分が悪いに決まっています。暗くなったらもう負けです。兄弟を怒ったらだめです。あれは役に立たないと思ったら、もうだめです。
日本人が毎日使っている言葉が、皆神に逆らっています。神をバカにしているのです。現世に生きている人間の気持ちではだめだということです。
生まれてきたままの人間が、現世の考えで生きている以上、山上の垂訓は絶対に守れません。従って、永遠の命はつかまえられないのです。私たちは、生まれてきた後の自分の生きかたを、どうしても否認しなければならないのです。これを認定すると、自分の思いが発生します。自分が何十年間かこの世に生きてきたことを認めると、必ず自分の思いが相拠を持つようになるのです。これが自分の記憶です。自分の認識です。自分の記憶、自分の認識は、神の前では通用しません。
記憶が罪悪です。自分の認識が憲です。もし死ぬのが嫌なら、とこしえの裁きが嫌なら、徹底的に自分の良心と妥協すべきです。良心と和解すべきです。
江戸時代に、徳川幕府が諸侯の監督として、付家老を送りました。それと同じように、良心は神からの付家老です。良心は厳然として人間を監視しています。人間に干渉するのです。
人間の精神と良心の関係を、良く知らなければいけないのです。イエスは山上の垂訓で、この点を厳粛に、正確に論証しています。は文明の終わりに、山上の垂訓を、もう一度歴史の表面に出さなければならないのです。これを学会の中心テーマにすべきなのです。
人間が自分の思いを信じることが罪悪です。原罪です。人間の記憶が原罪です。人間の記憶を信じているものは、全部地獄へ行きます。地獄の刑罰から逃れたければ、自分の記憶から逃れなければならないのです。これは厳粛な問題です。
地球が始まった時から、この原罪は決められています。その原則がどこから来ているかと言いますと、御座から来ているのです。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいます方があった。その座にいます方は、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。御座からは、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた」(ヨハネの黙示録4・2~5)。
大宇宙の中心である絶対者が御座にすわっていて、そこから、稲妻と、もろもろの声と雷鳴が発している。これが森羅万象になっているのです。五官は稲妻ともろもろの声、雷鳴を感じているのです。五官は正確に神の命を感じているのですが、人間の意識はそれを全く認識していません。このずぼらな意識によって、肉の自分をそのまま自分だと思い込んでいるのです。だから地獄へ行くのは当たり前です。
イエス以後、山上の垂訓が、正確に、正当に説明されたことがないのです。私たち肉体は灰になりますが、記憶は灰にはならないのです。五十年生きてきた。六十年生きてきたという記憶は、絶対に灰にはなりません。自分の記憶によって、魂が束縛されているのです。これは恐るべき罪悪です。
この世に何十年間生きていたという妄念を解脱するのです。自分の記憶を一切信用しないことです。今生まれた嬰児のような気持ちで生きればいいのです。







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Last updated  2011.06.19 09:45:31
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