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2006年10月02日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
さて今日は「英国留学回想録」です。
「春よ来い!早く来い!!」第5回、

「さよなら、JYA」。
(2001年2月末-3月上旬)

前回まで、
「修士論文の仮タイトル決め」
での、先生方との「非公式な」やりとり
について書いてきた。

アラン・レイトン=スミス教授に呼ばれ、
彼に修士論文のアイディアを話すと、
ソフィア・デラ=ロッサ博士に会うように指示された。

いつもおなじみの、(苦笑)
怖い怖いソフィアに会った時、

「ありがとう!」

と、握手を求められた。
おもしろいテーマを見つけてくれた、
というわけである。

そして、この先生方とのやりとりこそが、
私の博士課程に進む第一歩目となった。

さて、この「博士論文の仮タイトル決め」の1週間後に、
2回目の「エッセイのタイトル決め」があった。

私のコースの課題であるエッセイ(小論文)は、
締め切りを2回に分けて
5000WORDSを計6本書かないといけなかった。

1回目は既に書いた通り、
2月16日締め切りで3本提出した。
「留学回想録」で詳しく書いた
「MEME(ミーム)」のエッセイは
このうちの1本だった。

2回目は5月15日の提出期限で3本だった。
冬学期の3つの授業、

ヘーゼル・ハリー教授の「政治哲学」、
ソフィア・デラ=ロッサ博士の「量的分析(統計学)」、
ピート・ベンサム博士の「質的分析」、

これらに対する課題だった。
このエッセイのタイトル決めについては、
修士論文の仮タイトルの場合と違って、
授業の担当教官と話し合ってタイトルを決めて、
担当教官のサインをもらって
学部に提出だった。

この2回目のエッセイについては、
後日ゆっくり書くことにする。

今日は、冬学期も残り2-3週間になった頃の、
この人たちのことを書きたい。

JYA。

何度もこのHP・メルマガに登場している
Junior Year Abroadという
日本の大学生を中心にした
1年間の英国の大学への
留学プロジェクト。

このJYAの子達とは、
私は毎年交流させてもらっていて、
これまで非常に印象深い若者が
たくさんいたのだが、
私が修士だった頃、
つまり私が最初に出会ったJYAの子達も
とても個性的な若者達だった。

この「英国留学回想録」では、
タクマくんという子を登場させた。

私が英国に来たばかりの
プレセッショナル・コースの初日、
コースメートだったタクマくんと議論して、
こてんぱんにやっつけられたことを、
覚えている方もいるだろう。

あとは、官僚N子さんのお宅での
新年会に行ったA子ちゃんなどだが、
他にも合計で15人くらいいたわけだ。

彼らは4月にうちの学校に来て、
春学期は英語をじっくり学び、
夏休みに修士の学生と一緒に
プレセッショナル・コースで学び、
秋の新学年のスタートから、
実際に学部生の授業に入って議論をし、
学部生と同じようにエッセイの課題をこなす。

そして3月にプログラムを修了して、
日本に帰国する。

私はこれまで自分の
悪戦苦闘の日々を書いてきたわけだが、
JYAの子達にとっても、
やっぱり留学とは悪戦苦闘の日々だった。

プレセッショナルコースの初日に
私をやっつけたほどのタクマくんだったが、
まず学部の授業に加わる時に苦労した。

彼は私と同じ政治学部だったのだが、
うちの学部は英語の能力や政治学の知識云々以前に、

「交換留学生は入れてあげない」

と先生に受講を拒否されたり、

「交換留学生ではこのクラスのレベルに
ついていくのは無理」

と、先生に決めつけられたり
という科目が多く、
受講する科目が決まらず、
宙ぶらりんになったしまった。

修士の私には、
どんなに英語ができなくても
あんなに優しくサポートしてくれた
同じ学部がね。。。

やっぱり修士は「金づる」ということだね。(苦笑)

結局タクマくんは
私たちのプレセッショナルコースの先生だった
リチャード(覚えてますか?)が
助手をやっているクラスに、
リチャードに直談判することで
ようやくおまけで入れてもらって、
受講する科目を決めることができた。

他の子も状況は似たり寄ったりだった。

通常の受講科目決めの事務処理だけで
スムースに決まった子はほとんどいなくて、
直談判におよんだ子は結構いた。
(その後、事態を重くみた国際局・ジャック氏のサポートで、
近年は割とスムースに科目が決まるようになったけれども。。。)

そして、クラスが始まると
彼らは課題の山に襲われた。

彼らは10月から3月までの間に、
実に1人平均10-15本のエッセイを
課されたのだ。
(字数こそ私たち修士より少ないけれども、
本数も課題に与えられた期間も
明らかに私たちより厳しい。。。)

どうしてこんなに課題が厳しいかというと、
それは彼らのプログラムが変則的だからだ。

3月に帰国するということは、
5-6月に学部生の試験を
受けないで帰国するということになる。

だから、その試験の代替として、
エッセイ提出を求められるのだ。

JYAというのは、
きちんと「成績証明書」を学部が出す
プログラムだからね。

ということで、
エッセイの課題が出始める
11月頃から、
悲鳴を上げながら
次から次へとエッセイを
書いて書いて書きまくる日々が続く。。。

もっとも彼らは20歳くらいの
元気のいい年頃だから、
ただガリ勉していたというより、
学校のディスコに行ったり、
パブで飲んで騒いだりして、
徹夜明けでふらふらになりながら、
コンピューターセンターで
デスクトップの画面に向かったりしていたけどね。(笑)

冬休みは学校を離れてホームステイをしたり、
旅行してスペインで身ぐるみはがされて大使館に駆け込んだとか
果てはボランティアでボスニア・ヘルツェゴビナ行ったとか。。。(苦笑)

いや、若いうちはこれくらい元気があったほうがいい。
ガリ勉しててもしょうがないもん。

ということで時は2001年2月末頃、
そろそろ彼らも日本に帰国する時期が
近づいてきていたわけだが、
彼らはそんな感傷に浸る余裕はなく、

「残り1週間でエッセイ4本」

とか鬼のようにやっている子が多かった。

それでタクマくんなんか、
難しい顔をして歩いているのを
時々見かけるだけになっていたのだが、
冬学期最後の金曜日になって、
ひょこっと芸術会館のカフェにいた
私の前に現れて、

「かみぽこさん、
いまエッセイを提出し終えました。
それで、今日の午後ロンドンに移動して
帰国します。

いろいろお世話になりました。
さようなら。」

と言った。

なんか別れを惜しむ間もなくって感じで
あっけなかったのだけど、
その時のタクマくんが、
ずいぶん大人っぽい感じだったなというのを
今でもよく覚えている

私が最初の日にタクマくんに
こてんぱんにやっつけられた時、
正直言って

「あんな子供にやられて情けない、とほほ。。。」

と思い切り落ち込んだ。

でも、最後の日に目の前にいたタクマくんは
しっかりした大人の表情をしていたね。

1年間厳しかっただろうけど、
いい経験をしたのだろうね。

そのタクマ君、
日本の大学を卒業した後、
なんとあのソフィアから推薦状をもらって
アメリカの大学院に進学した。

「同じ日本人の修士の学生より、
はるかに英語ができました。」

という推薦状を
ソフィアが書いたかどうかは
定かではないが。。。(苦笑)

その後、彼はどうしたのだろうね。
彼は大学院にいる、とずっと思っていたけど、
よく考えるともう修士も修了しているはずだ。
どこかで働いているのかな?

時が流れるのは、
ほんとに早いね。。。

そして、この冬学期最後の日の午後、
タクマくんと会った後、
感傷に浸る暇もなく
私の運命を決めた出来事が起こった。

それでは、またね。(苦笑)





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最終更新日  2006年11月02日 18時26分06秒



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