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やまきよ0707

やまきよ0707

2009.12.13
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カテゴリ:FC東京
森重は広島皆実高校を卒業後、06年大分トリニータに入団。入団当初はチームでの出場はほとんど無かったが、ユース代表としては、常にその名が挙がるボランチであった。
準優勝(優勝はPK戦勝利の北朝鮮)を果たした「2006アジアカップユース大会」の予選タジキスタン戦ではゴールを上げるなど、この大会の4位以内に与えられる「U-20ワールドカップ・カナダ2007」の出場にレギュラー選手として多大な貢献をしている。
翌07年夏のU-20W杯は予選リーグを1位で突破(森重は3試合全てに出場)、決勝トーナメントでは1回戦でチェコにPK戦負け(森重はサブで出場無し)を喫し、惜しくもベスト16で敗退した。チェコはこの後、勝ち進み準優勝となっている。

また、07年は大分と森重にとって前半と後半の狭間で重大な変化が起こる年となる。
2年前の05年、大分は前半戦終了時点で最下位。しかし後半戦の指揮をシャムスカ監督に委ねると、チームは別人のように勝ち続け、後期だけなら優勝(05年から1シーズン制)の快進撃「シャムスカマジック」を起してしまう。
07年も大分は前半戦終了時点で17位と低迷したが、後半戦開始前に、驚愕の途中補強を敢行する。鈴木慎吾、ホベルト、エジミウソン、世に言う「リベンジ三戦士」だ。
更にこの後半開始と同時期にシャムスカ監督は、森重を3バックの中央に抜擢するのである。森重はコンバート後もボランチ時代のプレースタイルを変えることはなく、得点の起点となる体を張ったインターセプトを決め、結果チームは奇跡のJ1残留を果たしている。

迎えた08年は大分と森重にとって、最高に素晴らしい年となる。
この年、森重は前年の活躍が評価され背番号15から、岐阜へレンタル移籍した梅田の背番号6を受け継ぎレギュラーに定着するや、試合に出場するたびに急成長していく。
更には、この年の北京五輪代表にも選出されアメリカ、ナイジェリア、オランダ戦の全試合に先発フル出場した。
結果は全敗で1次予選敗退となったが、そのアグレッシブなディフェンススタイルが岡田代表監督の目に止まり、1カ月後の9月にはA代表選手として初召集されている。
一方チームも、これまた信じられないほど好調で、ナビスコ杯決勝に進出し強豪清水を2-0で下しチーム初のタイトルを獲ってしまう。
リーグ戦は4位とこれもクラブ史上最高位で終了するとともに、リーグトップレベルの堅守でJ1リーグ過去最少の24失点(1試合平均0.706点)まで記録してしまう。
まさに栄華を極めた08年であった。
大分トリニータ発足15周年を迎える09年は、順風満帆の船出となる筈であった。

翌年早々、森重は1月20日に熊本で行われるアジアカップ最終予選の第1戦(イエメン戦)の代表メンバーに選出された。そして1月10日鹿児島での代表合宿に参加するが、3日目の練習で左足首を痛めチームを離脱してしまう。
1月のコンディションづくりは大変難しい。前年の疲労や怪我のケアが十分出来ていないと、新たな個所を痛めたり以前の怪我を再発させたりしてしまうからだ。まして代表合宿ともなればいきなり戦術レベルの動きを要求される。中澤や遠藤ら主力クラスが招集を免除されたのはそうした理由からである。
実はこの一件が始まりで、この年、大分と森重はとんでもない奈落の底に突き落とされてしまうのである。

森重真人の栄華と苦難(苦難編)へ続く





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Last updated  2009.12.13 11:29:01
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