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私は芸術・アート作品を創るほうではなくもっぱら鑑賞するほうですので、あくまで鑑賞する立場の視点から述べさせていただきます。
・そもそも、我々は、何故に芸術作品を欲するのでしょうか(鑑賞したがるのでしょうか)? この問いにいざ答えようとすると、ちょっと窮してしまいますが、たぶん、人間の「生」にとって何らかの意味があると直感しているからに他ならないと思います。 では、その意味とは何なのでしょうか? これは、一言でいえば、なにか「ほんとうのもの」ということではないでしょうか。 我々は、作品を通してなにか「ほんとうのもの」を感じ取る。だからこそ、それが表面的な感情としては「快」を呼び起すものであれ、「不快」を呼び起こすものであれ、感動を覚えるのである、と。 ・その「ほんとうのもの」というのは、結局は、自分(鑑賞者)自身の「心のありよう」のことではないでしょうか? 芸術作品の鑑賞のように主観が大いに関わってくる場合は特にそうなのですが、物事の「見え方や感じ方」を規定するものは、結局はその人の「心のありよう」だろうと思います。 例えば自分の心がはずんでいる時は、普段はなんでもないものも心地よく感じられることがありますし、逆に心が沈んでいる時は、なにを見ても不愉快に思えるものです。恋愛なんかの経験を思い出していただければ、このことがよく納得できると思います。 つまり、自分が物事から受け取る印象というものは、自分自身の「心のありよう」の”逆投影”である、といえると思います。 ですから、芸術作品は、鑑賞者自身の「心のありよう」を映しだす鏡のようなものということになり、さらに、優れた芸術とは、それを通して人の「心のありよう」をより深く、またはより明瞭にえぐりだすものということになります。 そうしますと、芸術作品によって覚える「感動」の正体とは、「快」や「不快」の感情の生起をきっかけとして、我々が普段認識しえていなかった(認識することを拒んでいた)自分自身の「心のありよう」を新たに自覚する、そのことによって生じる「驚き」の感覚のことである、ということになるかと思います。 つまり、「ああ、自分はこういうモノに魅力を感じる人間だったのか!」とか、「自分は本当はこういうモノを欲していたのだ!」とかいった感覚ですね。この現象は、作品を通した「自己了解」、もう一歩すすんで「自己確認」といっていいとも思います。 自分の「心のありよう」というものを知る場合、自分自身で自己の心を把握するという努力(「内省」)が必要不可欠なのですが、純粋に「内省」するだけではなかなか窺い知ることができないものです。何故なら、自分の心を把握しうるのは、自分自身の心に他ならないのですから。 例えば、人の心がある観念によって強固に捕らわれている時は、その観念によってその人の物事の見方(=心の作用)がいかに歪められていようとも、自分自身ではなかなか認識できるものではありません。典型例が、カルト宗教による洗脳でしょう。ですから、脱洗脳において重要なことは、心が抱いている絶対的な観念をいかに相対化するか、ということになります。 普段は認識しえない、または種々の因習や慣習や道徳によって縛られていて認識することが拒まれている、「心のありよう(の深層)」=「ほんとうのもの」というもの、それを垣間見させてくれるのが芸術作品というものではないでしょうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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