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『アレクサンダー大王』(1980年、ギリシャ・イタリア・西ドイツ、テオ・アンゲロプロス監督)
『旅芸人の記録』(1974年)で世界中の映画ファンを唸らせたアンゲロプロスの作品です。 アンゲロプロスは、作品にいろいろなテーマをこめています。ギリシャの民族性、神話、歴史、そして政治・・・・。さらに80年代の作品からは、個人の内面にも踏み込んでいきます。 『アレクサンダー大王』は、アンゲロプロスがマルクス主義を総括した作品ですね。それこそ、マルクスに冷や水を浴びせるように。 *************** 1899年12月31日、世が20世紀に突入した瞬間、ギリシャの小島にある刑務所から、アレクサンダー大王と呼ばれる首領に率いられた賊の一団が脱獄し、その足で、アテネに程近いスーニオン岬に日の出を見にきていたイギリス貴族8人を誘拐した。 大王は、資本化に奪われた故郷の土地を農民のものと認め、自分たちに恩赦を下すよう国王、政府、英国大使に要求書を出し、生地ヘ向った。 大王らが帰郷すると、村は先生と呼ばれる指導者のもとで共産(コミューン)化しており、個人による所有(私有)行為は全て禁止されていた。そこへ、イタリア人アナーキストらが合流した。 大王の部下は全てが共有で、自分のものは何ひとつないと、口々に不満を訴えた。村は政府軍に包囲され、大王と村人との間に不和が生じた。 村の土地は戻ったが、土地についての争いが始まり共産制は危機に瀕した。 大王の武力による専制がはじまった。大王によって、村を逃げだそうとしたイタリア人アナーキストたちが射殺され、大王が要求した裁判の検事も射殺された。さらには、イギリス人貴族の人質までも。 政府は人質が殺されたことにより、村に総攻撃をかけ、大王の部下を次々と倒していく。大王は多勢の村人に取り押えられるが、何故か後には大王の形をした石像が残るだけでその姿は消えてしまった。村から脱出したのは大王と同じ名の少年ただひとりだった……。 *************** ストーリーは以上のようなものです。 「力」を頼みとするアレクサンダー大王と、「マルクス主義」を頼みとする先生は、資本家から村の土地を奪い返すという目的のために当初は一致団結します。しかし、解放の英雄となった大王は、今度は、その「力」を村の改革へと向けます。つまり、私有を禁止している共産体制を破壊し、富の独り占めに出たわけです。そして、最終的には、混乱のなか、待ち構えていた外部の敵(政府軍、資本主義)によって村は崩壊し、大王は村人によって処刑されます。 この映画は、1980年の作ですが、共産主義という理想社会を目指しながら結局は専制・独裁体制による恐怖政治に陥っていた当時の共産主義国家の行く末を見事に予測した内容となっています。 アンゲロプロスの映画の特徴は、政治性と並んでシーン構成にあります。とりわけ、「ワン・ショット=ワン・シークェンス」という手法が有名です。いわゆる、カットのない「長回し」ですね。長いものでは、なんと20分もカットがないシーンが続くものがあります(『狩人』)。 ワン・ショット=ワン・シークェンスとは「キャメラの頻繁な動きを含む、長くて、様相の複雑なショットである。そしてその流れのなかで、カットなしに、ワン・シーンがすべて一気に撮られる」ものということになります(ギャヴィン・ミラー)。 なぜ、このようなことをするのでしょうか。 ”わたしはワン・ショット=ワン・シークェンスがとても気に入ってます。これによって、多くの開かれた部分を閉じずにそのままにしておけるからです。そして観客にとっては、積極的に参加することが必要になってくるからです。さらにワン・ショット=ワンシークェンスは、モンタージュには存在しない弁証法的要素をドラマのなかにもたらします。オフ・スクリーンです。オフ・スクリーンとは誰もいない劇空間のことです。 わたしにとって重要なのは、時間と空間の統一です。そのさい、どっちのほうが自分にとって都合がいいかというような、およそ個人的なことはいっさい考慮しません。モンタージュを行うときは、映画の内的リズムを損なうようなことはしません。”(アンゲロプロス) アンゲロプロスは、エイゼンシュタインに代表される「モンタージュ」を批判的に乗り越えようとしたわけです。 モンタージュとは一言でいえば、関係がないいろんなショットを細切れに並べて統一的な意味や物語を創造する、つまり観客の想像力を喚起する、という方法です。この方法は、観客に対して有無を言わせず監督の意図を納得させるようなパワーがあります。しかし、ショットとショットの間には何もない、つまりそれらの間には”死んだ時間や空間”があるのです。 対して、アンゲロプロスは、観客を強引に納得させるのではなく観客の積極的な参加を求め、また、時間や空間を殺すのではなく生かしきり、さらには、オフ・スクリーン、つまりスクリーンには映っていない時空(シーン)をも観客に知覚させようと狙っているのです。 私は、エゼンシュタインのモンタージュもアンゲロプロスのワン・ショット=ワン・シークェンスも、観客の想像力を喚起させるという目的に違いはなく、ただその方法が違うだけだという意味で、エイゼンシュタインのモンタージュを「外的モンタージュ」、アンゲロプロスのワン・ショット=ワン・シークェンスを「内的モンタージュ」と称してします。 「外的」とは、あるショットと他のショットの見かけ上の関係によって構造化され意味が生じるということであり、「内的」とは、ひとつのショットそのものの構造の内に意味が込められている、ということですが。 内的モンタージュにより、画面に【奥行き】が生まれ、観客は【オフ・スクリーン】を知覚し、さらに【生きた時間】を表現することが可能となるのです。 最後の【生きた時間】について付言すれば、内的モンタージュは、単に”死んだ時間”を蘇らせて連続的に表現しうるのみでなく、ワン・シークェンス内に時間的に非連続なアイテムを挿入することによって独特の雰囲気を醸し出すことができるのです。 例えば、(死んだ)過去の人間を現在のストーリーに登場させるという手法があります。この手法により、フラッシュ・バックやカット・バック(外的モンタージュ)を用いた単なる回想シーンを超えた、過去を現在に召喚させて対立させ、さらには統合するという効果が生まれます。このようにして、観客の内面・深層にある意識を呼び覚ますのです。さらに、これは、現在のギリシャとギリシャ神話とを並置して描くことを常套とするアンゲロプロスにとって、なくてはならない手法だったともいえます。 『アレクサンダー大王』でも、大王の登場シーン、村の酒場でのダンスシーン、回想シーン、処刑シーン、等々で内的モンタージュが豊富に用いられています。そして、この映画の内的モンタージュは、もっとも徹底的でかつ洗練されたものと評価されています(黒澤明も絶賛してましたね)。 この映画、伊達や酔狂で210分もあるわけではないのですね。 最後に、内的モンタージュによって試される観客側の要素とは以下のようなものになるでしょう(「03年12月8日の日記」より)。 ================= 芸術作品の鑑賞のように主観が大いに関わってくる場合は特にそうなのですが、物事の「見え方や感じ方」を規定するものは、結局はその人の「心のありよう」だろうと思います。 例えば自分の心がはずんでいる時は、普段はなんでもないものも心地よく感じられることがありますし、逆に心が沈んでいる時は、なにを見ても不愉快に思えるものです。恋愛なんかの経験を思い出していただければ、このことがよく納得できると思います。 つまり、自分が物事から受け取る印象というものは、自分自身の「心のありよう」の”逆投影”である、といえると思います。 ですから、芸術作品は、鑑賞者自身の「心のありよう」を映しだす鏡のようなものということになり、さらに、優れた芸術とは、それを通して人の「心のありよう」をより深く、またはより明瞭にえぐりだすものということになります。 (中略) 自分の「心のありよう」というものを知る場合、自分自身で自己の心を把握するという努力(「内省」)が必要不可欠なのですが、純粋に「内省」するだけではなかなか窺い知ることができないものです。何故なら、自分の心を把握しうるのは、自分自身の心に他ならないのですから。 例えば、人の心がある観念によって強固に捕らわれている時は、その観念によってその人の物事の見方(=心の作用)がいかに歪められていようとも、自分自身ではなかなか認識できるものではありません。典型例が、カルト宗教による洗脳でしょう。ですから、脱洗脳において重要なことは、心が抱いている絶対的な観念をいかに相対化するか、ということになります。 普段は認識しえない、または種々の因習や慣習や道徳によって縛られていて認識することが拒まれている、「心のありよう(の深層)」=「ほんとうのもの」というもの、それを垣間見させてくれるのが芸術作品というものではないでしょうか? ================== 一言でいえば、「実存性の開示」ということになります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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