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なおさん 時々 チャモのブログ

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2010.09.09
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第3回目の「親族から聞いた戦争の話」は 母方の祖父の被爆体験です。

祖父は今、生きていれば110歳ということになりますが、79歳の時亡くなりました。

よって、これは母から伝え聞いた話です。


祖父は長崎で歯科を開業していました。

職業柄、戦中・戦後は死者を運んだり 負傷者の治療などにあたっていたそうです。

戦争の激化により、祖父以外の家族(つまり母ら家族)は佐賀に疎開していました。


原爆投下時、祖父は長崎市内にいたものの 爆心地からは少し離れた場所にいたため、

その時は何とか無事だったそうです。

翌日、祖父は三菱長崎工業青年学校工場で働いていた自分の娘さん(母とは異母姉妹)の

安否確認のために爆心地に近づき、放射能を浴びてしまったそうです。

工場は原爆で壊滅状態だったらしく、もちろん娘さんも・・・影も形もなかったそうです。

どうすることも出来なかった祖父は、工場の土地の砂を持ち帰り、娘さんの骨壷に入れて

納骨したそうです。

そして 悲しみに打ちひしがれる暇もなく、数多くの被爆者の死体を運んだといいます。

その時、皮膚にウジがめり込んでいる光景ばかりを見ていたため、米粒がウジに見えて

食事が喉を通らなかったそうです。


その後、放射能の影響で祖父の歯は1本残らず抜け落ち、頭髪もまるでかつらを脱ぐように

ゴソっと抜けました。顔もひどく腫れあがり、ついには意識不明の重体になったそうです。

その状態は1か月程続き、祖母が葬儀の準備を考えていた時、奇跡的に意識が回復しました。

しかし祖父の闘病は、6年間続いたそうです。顔の腫れがひいたのも6年後だったとか。

その当時4歳だった母は「どうして自分の父だけあんなに顔が腫れているんだろう?」と

子供心に思ったそうです。

それから回復して、日常生活が送れるようになり、福岡で歯科医業を再開したそうですが

髪の毛が生えてくることは二度となく、下痢の体質が一生続いたようです。


戦後も落ち着いた頃、長崎県庁の方が祖父の歯科に来られて「被爆者健康手帳」を交付して

下さったそうです。

しかし祖父は「原爆の犠牲になって亡くなった多くの人のことを思うと、自分はもらえない」

と言って手帳を持つことを辞退したそうです。 そんな祖父を誇りに思います。

私が子供の頃は、かなり厳格な人でしたが、一方 その頃の辛い経験など微塵も見せない

お酒が大好きで 明るい祖父だっとことを思い出します。


長崎原爆異見録

原爆投下から65年。 1か月遅れましたが、これからも日本の平和が続きますように。

そして全世界が平和になりますようにきらきらと願うのみですね。





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最終更新日  2010.09.09 10:23:50
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