「bui」に関する一考察
ベトナム語に bui という言葉がある。味覚に関する形容詞であるのだが、辞書によると嗅覚や触覚にも関係のある言葉のようだ。ベトナム語辞典(ブイ・カック・ヴィエト他編、言語辞典センター、1992)によると、 bui : Co vi ngon hoi beo beo nhu vi cua lac, hat de, dua……であり、ベトナム語辞典(ヴァン・タン編、ハノイ科学出版社、1991)によると、 bui : Noi thuc an co bot, co vi beo va thom, nhu lac, vung……と書かれている。 ピーナッツ、栗、胡麻、椰子のようにほどよく油っ気があり、よい香りがし、そして美味しいといったところか。buiはたったの一語で、旨味、芳香、食感(油)を同時に喚起させるなかなか曲のある言葉のようだ。 buiの語感をあますことなく包括する日本語はちょっと思いつかない。ためしに越日辞典(文化出版社、1997)を引いてみると「香ばしい」と書いてあった。「香ばしい」もいい線いっているが、「油っこさ」が伝わってこない。他言語の辞書も引いてみる。 越英辞典(ブイ・フン編、世界出版社、1995) bui : have a nutty flavour, tasty 越英辞典(ダン・チャン・リエウ他編、ベトナム社会科学院、1994) bui : having a buttery taste 越漢辞典(何成他編、南条印書館、1960) bui : 芳香可口 「nutty」、「buttery」ともになかなかおもしろいがいま一歩。「芳香可口」は油っこさが伝わってこないし、四語(二語?)も使っている時点で反則。英語も中国語も日本語同様buiの訳出には苦労しているようだ。 Lac cang nhai cang thay bui. これはどの辞書にもよく出てくる例文である。「ピーナッツは噛むほどに旨味が出る」。無難な訳としてはこんなところか。 しかしこれではbuiが包含する「芳香」、「ほどよい油っこさ」という語感がこぼれおちてしまっている。かといってその語感を余すことなく伝えようとすれば、長ったらしいリズム感の欠けた間抜けな訳文になってしまうだろう。 身も蓋もない言い方をすれば、翻訳不能であるのだ。もちろん実際に翻訳する際には、一語一語に拘泥してストイックに正確な訳に努めることよりも、原文の持つ雰囲気、フィーリング、リズムを再現することの方がずっと重要であるとは思うが。 buiのように「翻訳不能」な言葉は世界中の言語にあまた存在するであろうが、理解不能であるわけでは決してない。そして、日本語の語彙系統では扱いにくいこのような言葉にこそ、異文化に触れる新鮮な驚きがそっと埋められているに違いない。