1036982 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

自分らしく生きる

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2011.01.16
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
  周りのせいにしているうちは心の病は治らない

 自己本位の極限がストーカー

 自己本位になると、モノごとがうまく行かないのは、人間関係にストレートに現われます。

 今、ストーカーは、大きな社会問題です。ストーカーは、自分の想いを寄せる相手をつけ狙い、電話をかけたり、尾行したりして、相手を悩ませます。そして、始末の悪いことに、相思相愛であるという幻想を抱くのです。相手が否定しても、断わっても、自分本位に解釈して、相手に拒否されたことを認めようとせず、周囲にそれを邪魔する人がいると、排除しようと暴力をふるったりして最悪の事態に至る悲しい事件も起きています。

 たとえば、相手が独身で、両親がかばおうとすると、その親に対していやがらせをしたりついには殺傷したりすることもあるのです。これをドラマの中のフィクションと思ったら大まちがいで、実際にテレビでも何件か実際に起こった事件が報道されています。裁判員裁判で被告に死刑判決が出て、話題になりました。

 テレビニュースになるのは、よほどのことで、水面下には、類似のトラブルに悩まされる人が想像以上に多いものと思われます。また、ストーカーの対象が妻帯者だと、配偶者に対して憎しみを抱き、危害を加えたりすることもあるようです。

 専門家によれば、これも、幼少時に受けた心の傷がこのようなストーカーの異常心理、異常行動に結びつくといいます。また、ある人々にいわせれば、社会環境の産物だ、とも考えられます。それらの説は、ある程度認めるとしても、ストーカーこそ、自己中心の悲劇の極限にあるといえるでしょう。

 あるがままにものが見えず、自分本位にしか考えることができない状態もここまでくれば何をかいわんやです。自分はもとより、多くの人々を不幸と悲劇に巻き込むこれほど恐ろしい存在はありません。もし、こんな人々が、私たちの周りにあふれたら、社会はパニックに陥ります。

 いや、冗談でなく、それに近い状態が私たちの周りに忍び寄っているのです。

 社会環境の産物といってしまえば、それまでですが、要するに「わがままの極地」で、見えるはずの目が見えなくなっている心の状態です。

 どういう環境で育った人がこういう状態になりやすいか。それは、未だ研究段階の域を出ませんが、おそらく

・何でもわがままが通る環境、それでいて、本当の愛をかけてもらえなかった環境が、ストーカーの温床ではないか、といわれています。

 つまり、お金は豊かで、何でも買い与えてもらえるが、本当の心の通った愛はなく、そういう温かい愛に飢えた状態がこういう歪んだ心の持ち主を生み出した、といってさしつかえないと思います。

 この定説が妥当であるとしても、当事者は「キミの育った環境が悪かった。キミの潜在意識は愛情に飢えている」といわれても、本人はどうしようもないのです。このへんに、現代精神医学、心理学が冷たく、しかも役に立たないという批判の的になる事情があるように思われます。

 また、対象となる被害者やその家族など関係者も、どうしようもないのです。

 もっと、有効、適切な手がほしいものです。

 やはり私は、本人の育った環境が悪かったとしても、それに甘えることなく「自分の行動は自分が責任をもつ」という「自覚」をもたせるところから、すべては始まる、と確信しています。

 ストーカーをはじめ、精神、神経の障害者にいたずらに同情し、「それはキミのせいではない(環境のせいだ、生い立ちのせいだ、社会のせいだ)」と慰めるようなやり方を、カウンセリングだと誤解する向きもありますが、こういう専門家の姿勢は、世の中を混乱させるだけであり、クライアント(患者)の回復を遅らせることになります。

 からだの病気の場合を考えていただけば、このような甘やかしの姿勢が、無意味で、有害だということはすぐわかるはずです。

 心の病をもつ人には、病であることを告げ、治すように、指針を与えるべきだと私は基本的に考えます。

 確かに、心が傷ついた人が、真実に目ざめる時、痛みは伴ないます。しかし、それを「自覚」し、「自分で乗り越えよう」と気づいた時から、癒しへの道が始まるのです。これは、神経症の経験があり、その後カウンセリングのキャリアも積んだ私の体験からはっきり確信をもっていえることです。真のカウンセリングは、クライアントが自分の正しい姿をつかむようサポートすることです。

 もとよりクライアントの状態によってTPOを選んで、硬軟両面から専門的なアプローチをすることが必要です。

 が、原則的には、

・人は、だれか(人や組織)に頼っているうちは、本当の幸せをつかむことはできないのです。それは責任をだれかに押し付けること(責任転嫁)も含みます。

 

*「危険を回避する」=「複眼の視野」で周囲を見る

 最近では、いろいろなハプニングから『事故』に巻き込まれる恐れもあります。事故に遭うか回避できるかは、『運』としか言いようがないのですが、あえて心がけるとすれば

・「複眼」の視野でものを見るようにする

ということでしょうか。

 複眼の視野というのは、車を運転する時のドライバーの視野のようなもの、といったらよいでしょう。車を運転する時ドライバーは、少し前方を見て運転します。そうしなければ、交差点などに差し掛かった際、急に左折、右折、直進と判断しても間に合わず、自分の進路と異なる路線に変更しなければなりません。しかし、急に路線を変更しようとしても、左右の車、対向車との関係で非常に危険なこともあります。ですから、ドライバーは、かなり前から、かなり前方のことを視野に入れて運転しなければなりません。

 他方、前方の視野ばかりに気をとられていると足元の視野がお留守になって、道路の穴や歩行者に気付かず、思わぬ事故の原因となります。

 というわけで、ドライバーはかなり、先を見越し広い視野でものを見ると同時に、足元に気を配ることが必要です。

 前方の展望する広い視野と足元への気配りーこれを「複眼の視野」と私は呼んでいます。

 私たちの人生や毎日の生活にも「複眼の視野」が必要です。将来を展望し、世界を広い視野で見ることが必要ですが、それだけにとらわれていると、足元、目先の視野がお留守になって思わぬ事態を招くことがあります。

 特に、外出先などでは、転んでけがをすることもあれば、歩行者や自転車との接触、車や電車などの事故、あるいは最近では、秋葉原などで起きた痛ましい悲劇のように、暴漢による無差別の事故に巻き込まれることもあるのです。どんなに注意を払っても避けられないこともあるでしょうが、「現場」に「殺気」を感じたりなんとなく「いやな予感」を感じることも、大切な身を守る心が家と言えると思います。理屈では何とも言えないことですが,日ごろから、「複眼の視野」ということを念頭に置くことは、「危険を回避する」最低限の心構えとして必要です。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011.01.16 07:11:42
コメント(0) | コメントを書く


PR


© Rakuten Group, Inc.
X