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埋もれ火のアンソロジー

埋もれ火のアンソロジー

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2006.06.07
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カテゴリ:人・風景・暮らし
母について僕が今知っていることを綴ってみるね。別におもしろくないからね。

母は1931年昭和7年3月29日、福岡県飯塚市で生まれた。

10才離れた姉、5つ上の兄、3つ下の弟、6つ下の妹がいる。

二男三女の真ん中として生まれてきている。

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↑右が母。左は弟(宮崎在住)


母の父親サカエ氏は嘉穂炭鉱(福岡県)の「しばはぐり」という僕もあまりわからないのだが、石炭の鉱山をさがしあてるような仕事をしていたらしい。「口開き」とか母が言っていた。

しかし落盤事故にあい、仲間が死んだのをきっかけに辞めて、時計屋になったそだ。弟子が3人いたことを母は少し自慢げに話してくれた。

釣りが趣味だったそうで、海の近くに住みたいというのが母の父の夢だったそうで、楠久(くすく)も晩年を過ごした姪浜(めいのはま)も海の近くだったわけだ。

僕がバス釣りにはまった姿を見て、母は「あんたの中にサカエさん(祖父の名前)の血がながれていたのかもね・・・」と複雑そうな表情で話していた。

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↑いくつの頃だろうか?今度聞いてみよう。

母の母タミさんは、母が9才の時亡くなっている。(亡くなった原因を聞いたが忘れた。あっけない病気の結果の死だったように思う)

その翌年には義母初代さんがきている。その義母のことは僕はよくおぼえている。喘息がひどかった人だが僕を可愛がってくれた。ずっとその人が母の母、つまり祖母だと思っていた。

さて、母は小学校時代を転校の繰り返しだったようで、養女的に預けられ預けられの暮らしだったようであまり語ろうとはしない。忘れたい時間のようだ。

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↑祖父サカエ氏と初代さん。


1954年。親父と結婚。翌年1955年に僕が生まれた。

僕がお腹に入っているとき、保母の免許を取得したそうで、かなり苦しかったことを聞いたことがある。

以来、保母として退職するまで歩いて5分のところにある保育園に勤務させてもらったわけである。

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↑左端が母。保母さん仲間や園長先生と。


楠久津という村に水道という便利な蛇口をひねるだけで好きなだけ水が出る仕組みができたのは
1963年昭和38年だった。

だからそれまでの母は毎朝毎夕、裏浜という漁村の真ん中にある井戸まで水汲みに行っていた。その姿は子どもの僕にも辛そうに見えた。

その上。
祖母とのケンカ。
俗に言う嫁姑の確執が我が家にもあった。祖母のこともいつか語るが、祖母は苦労知らずの人生を過ごしてきて、ブルジョアの妻も経験してるわけだから実にわがままなのであった。
祖母とのケンカの時は心情的には母の味方をしていた僕だった。

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↑祖母と母。写真の中では仲がいいふり?

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↑もう一枚。傾いた家の前。バラの垣根の」前で。
 なんて美しい昭和30年代だ!



母との思い出は祖母との思い出に比べると少ない。
僕は祖母との時間がかなり多かったし、祖母の影響を受けている。


母との数少ない思い出におんぶされて「(ふ)」をおやつ代わりに食べていたこと。(「おやつ」という言葉もなかった時代だったが)

楠久駅前にあったお店で焼き芋を買ってもらったこと。

伊万里にあったのレストラン「太陽」で行くたびにカレーライスを二杯食べさせてもらっていたことなど強くおぼえているさ。母は何も食べず、僕が美味しそうに食べるのをながめているだけだった。

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↑母と僕(6年生)


叱ると怖かった。
父に叱られた記憶はない代わり、母にはよく叱られた。
女子高時代は水泳の選手だったらしく、勉強に対して気力、根性のない僕を「この子は情けんなか~!おかあちゃんは水泳でも一生懸命頑張ったし、熱があっても学校を休まんかったと!」とまるで武田鉄矢の母親のような台詞で何度怒れたことか・・・。

友人が遊びに来るとよく焼き飯を作ってくれた記憶がある。
この焼き飯は評判がよかったと記憶しているが・・・・。


僕の知る限りでは病気で寝込んだことがない人なのだ

。病気をしないかわりに「薬を買うのが趣味ですか?」と言いたくなるように薬だけはたくさん買っていた。(病院が怖かったらしい)
僕はそんな母のおかげ?でどんな薬でも飲める特技を持っている。(あ!特技が見つかった!これから特技欄には、どんあ薬でも飲めることと書こう)


台所で洗い物をしながらよく歌を口ずさんでいた。
庭では同じ歌を親父が口笛で吹いていた。
貧しかったが僕は幸せな空気の中で育ってきたと思う。


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↑セキセイインコのピピと遊ぶ母(1975年頃)

3年前に親父が死んだ。
それまでの母の幸せな時間にピリオドが打たれた。

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↑30代後半の頃の父と母なのかな?

しかし僕は母に言う。
「50年間夫婦として幸せだったんだから文句言えないよ」
「そうね~。お父ちゃんは私が淋しくないようにペス(犬)まで残してくれて・・・」
とあとは泣くだけの母である。

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↑父と祖父と母。祖母が撮ったの?

「冬のソナタが見たか~」と先日つぶやくので、韓国ドラマビデオを録画してもっていったら、
もう夢中で見ている母である。
「ホテリアー」「美しき日々」などを夢中で見ている母は今74才の初夏を老犬ペスと親父と祖父と祖母と叔父に囲まれて暮らしているのです。

おしまい。


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Last updated  2006.06.07 20:06:21
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