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芥川龍之介の“続・西方の人”はこんな文章で締めくくられ、これを書いた翌日に彼は自殺した。
“我々はエマオの旅人たちのように我々の心を燃え上がらせるキリストを求めずにはいられないのであろう。” 狂気と正気のはざまに生きた龍之介は何を思って、これを最後の一文としたのでしょう・・ 私は信仰を持っていませんが、聖書を物語として読んだとき、芥川の言うエマオの旅人の話がとても心に響きます。 人はほんとうに悲しいときや苦しいときは何をする気力もなくなり、その心情を吐露することもできなくなります。 それでも歯をくいしばって日々の暮らしを営んでいかなくてはなりません。 そうなったとき、心の支えとなるのは常に寄り添ってくれる何かなのではないでしょうか。 このエマオの旅人というのは、キリストの二人の弟子と復活したキリストの話です。 弟子たちはその日に起きたこと(キリストが十字架にかけられたこと)を話しながら、エルサレムから10キロほど離れたエマオという村を目指して歩いていると、一人の旅人が近寄ってきて“いったい何をそんなに悲しがっているのか”と尋ねます。 弟子たちは呆れて、“エルサレムにいながら今日起きたことをあなたは知らないのか?”と返します。 失意のうちにトボトボと歩く弟子たちに旅人は一緒に歩き、やがて宿に着いて夕食の席についたとき、旅人がパンを取り、賛美の祈りを唱えてパンを裂いて弟子たちに渡します。 その時二人は目の前にいる旅人が復活したキリストだと、はっと気づくのです。 なんと美しいお話ではありませんか・・ この瞬間を描いた絵に、レンブラントの“エマオのキリスト”がありますが、パンを裂いたキリストの後ろには光が射し、テーブルが明るく輝いています。 彼が誰だか気がついた弟子の一人は驚きのあまり後ろに身を引き、一人は手を組んで祈りを捧げています。 長い道のりを失意の中で歩んでいた弟子たちに、キリストはずっと寄り添ってくれていたのですよね・・ もしかすると、私たちはこの弟子たちと同じなんじゃないかと、自分では気がつかないけれども心の奥底でエマオのキリストのような存在を求めているんじゃないかと時々思うのです。 日本人はえてして宗教、特にキリスト教は毛嫌いする人が多いように感じます。 私の母もその一人ですので、そういう話は一切できません・・ なぜ多くの人にこんなに毛嫌いされるのか不思議でなりません。 古今、過激な宗教ばかりがクローズアップされて、それでますます敬遠されるのでしょうか。 でも宗教ってほんとはとても優しくて、励ましてくれて、いつも見守ってくれるものなんだと私は思うのですが・・・ なんだか久しぶりに聖書を読みたくなり、探したのですがなかなか見つからなくて、やっと見つけたら埃がたくさんかぶっていました。 高校の授業で習ったときに使った聖書なので、ずいぶんと古くなってしまいました。 今度はぶどうの木と、あのお方を刺繍したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.09.17 21:22:52
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