正月2日に開いてるおそば屋さんなんて少ないよね。
デパートやショッピングセンターの中の店なら開いてるか。
昼間から酒を飲んでたけど、酔いが覚めた夕方に買い物&そばを食べに
アリオ西新井に行った。
まだまだ混んでいたけど、おそば屋さんの【そば傳】はわりと空いていたので入った。
通算5回目の利用。ってか、まだ他の店に入ったことがないw
【そば傳】 西新井栄町1-20-1 アリオ西新井3F
紹介ブログ
せいろ、更科そばの2枚を食べたかったが更科そばが品切れorz
気を取り直して『おかめそば』\950を注文。
『おかめそば』を食べるのは子供の時以来で、どんな材料で『おかめ』の顔を作っているのか、覚えていない。
顔全体を
海苔、目が
かまぼこと
玉子焼き、鼻が
ゆで卵、口が
山菜、「あっかんべー」した時の舌なのかな?、
かに風味かまぼこが使われていた(店側の意図が本当にそうなのかは知らないw)が、
オリジナルの『おかめそば』(注1)とはずいぶん違っているんだね。
おかめそばのページをみると、各店いろいろな『おかめそば』があって楽しい。
食べながら、『おかめそば』があって、『ひょっとこそば』がないのは何故だろう?
現代風に『山田花子そば』、『森三中そば』なんて誰か作らないのかな?なんて余計なことを考えながら食べたので味に集中できなかったw
注1:
ここを引用↓
「おかめそば」は幕末の頃、江戸・下谷七軒町にあったそば店「太田庵」が考案した種ものです。
名前の由来は、具の並べ方がおかめの面を連想させるところからきています。
基本的な具の並べ方は、まず湯葉を蝶型に結んで丼の上部に置きます。
これは、娘の髪をかたどるとする説と、両眼に見立てるという説とがあります。
鼻はマツタケの薄切りか、三ツ葉を真ん中に置いてなぞらえます。
そしてかまぼこを2枚向かい合わせて並べ、下に向かって開くように置いて、おかめの頬のように下ぶくれの形にします。
いろいろな具が入っていて、見た目に楽しいメニューです。
他に、
『湯葉を蝶型に結んで両眼と、鼻は松茸又は三つ葉、顔はカマボコ2枚左右に合わせて頬に作り、口は椎茸を用いた』。おかめの主役は松茸、島田湯葉(蝶型に結んだ湯葉)であるという。
あるいは、
櫛形かまぼこ(=2枚合わせ、おかめの顔)・鳴門(=2枚で頬紅)・松茸(=鼻)・焼麩(=口)・ゆば(=島田まげ)・筍(=くし)・三つ葉の結んだもの(=かんざし)。
など、いろいろあるんだね。
※ 2018年4月2日追記:
地域情報誌『谷根千』(廃刊)の98年7月の「谷根千54号 あたしゃあんたの蕎麦がいい」
![](https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/82/0000566782/18/img8a72fd98zik8zj.jpeg)
に「おかめそば 太田庵」という、非常に有益な情報が載っている。
【太田庵】で生まれた人(埼玉県川口市・松本康行さん)が見つかり、話を聞いたのだ。
・祖父と祖母と母、職人が二人&親戚の女性でやっていた。父は継がずに目黒で米屋。
・祖父が明治12年に京都の山ん中から東京に出て、親戚が経営する【太田庵】で働いた
・その時分には2代目か3代目だった。(記述されていないが、祖父が店を譲り受けた)
・祖父は蕎麦打ちを職人に任せ、帳場。80歳くらいまで働いたが、昭和10年に職人に店を
譲った。戦時中の食糧統制が始まった頃に店をたたんで疎開し、池之端に戻らなかった。
・当時は出前がほとんど。店の中は畳で、おぜんが2つ。
昼間は大忙し。客が多いのは夜で、遅くまで店を開けていた。(後略)
※ 【太田庵】は下谷池之端七軒町の休昌院(台東区池之端2-5-38)の向かい角に
あったそうだから、池之端2-7-10 あたりだろうか。
※ 2018年4月16日追記:
この上記記事は、谷根千工房『ベスト・オブ・谷根千』(2009年2月3日:亜紀書房)
109~111ページに収録されている。
※ 2019年7月14日追記:
「改訂版 そば屋の旦那衆むかし語り」 藤村和夫 平成12年1月 ハート出版
p241~p242 【根津・富岡屋】奥平喜一郎氏
”おかめ”っていうのは根津の太田庵さんのことです。私がここへ来た頃はまだやっていました。
池の端七軒町も右にまがったところの角にあって、ベタベタッとした平屋でね、まあ中二階みたいになっていましたが、平屋建てっていっていいくらいのきたない店でしたよ。
”おかめ”の大きな看板があって、”おかめそば”の元祖なんです。家号も、正式には「おかめ、太田庵」といっていまして、根本さんといわれました。
しかし、後継ぎがなくてね、おじいさんが目黒に越してしまいましてそのあと、そこにいた若い衆が継いだようでしたが、すぐに閉めてしまっておしまいです。