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Locker's Style

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『橋の下の彼女』(11)

1999年6月26日(土)

フィリピン・サンパブロ

 今朝の関内も早かった。
 昨日のことがあったので、将人はGショックのアラームを五時四十五分にセットしていた。しかし、時間通りに目覚めて、紅茶でも飲もうかとリビングに出たちょうどそのとき、玄関のドアの鍵がまるで泥棒にこじ開けられるような音を立てたかと思うと、関内がドアを投げるように開いて、リビングに猛然と突進してきたのだ。関内は将人を素通りして、辰三の寝室のドア前に立つなり、ノックもせずに中に入った。
「寝すぎると夜眠れなくなるよ」
 関内は今朝もそう呪文のように繰り返しながら、ベッドで毛布をかぶっている辰三の体を激しく揺さぶった。
 露骨に不機嫌な顔で体を起こした辰三が、ドア越しに、将人に向けて責めるような視線をよこした。あんな起こされ方は嫌だから、関内さんが来る前に起こしてくれ、と昨日辰三から頼まれていたのだ。
 しかしいくらなんでも、五時四十五分で間に合わないのだから、許してほしいというのが本音だった。
 関内が、「もう朝食ができてますからね」と言い残して去っていくと、頭頂部だけが見事に窪んだ寝癖のついた髪を掻きながら、辰三が丸テーブルに腰掛け、タバコに火をつけた。
 ニタはいったい何時から朝食の支度をさせられているのだろう、と将人は気の毒に思った。
「昨日、俺が何時に寝たか知ってるか?」
 将人が首を振ると、辰三は人差し指を立てた。
「一時だよ、夜中の一時」
 将人がひとりでゲストハウスに戻ったのは、八時ころだった。つまり、それから五時間ほども、辰三は関内の相手をしていたことになる。
「おんなじ話をなんどもなんども繰り返すからさ、頷いてるだけで疲れちまうよ、まったく」
 将人は肩をすくめて見せた。
「そんなに長い時間、関内さんと何の話をしたんですか?」
「日商赤丸時代の自慢話、ゴルフの話、酒はジョニ黒に限るっていう話、ミツオカプロジェクトは大成功するって話、フィリピンへの投資を決めたミナモト水産の会長と社長はすばらしいって話――終わったらまき戻して、延々とその繰り返しだ」
 関内くらいの年齢になると、そんな話題だけで、五時間も晩酌を続けられようになるものなのかと、将人は訝った。
「なんどか、もう寝ます、って逃げようとしたんだけどな、そのたびに、明日は九時ころまで寝ていてもらってかまわないですから、って引き止めるんだよ。それで、いま何時だ?」
 将人が、まだ六時になっていませんよ、と答えると、辰三は咥えたタバコがあやうく落ちそうになるほど、あんぐりと口を開けた。

 朝食を済ませると、しばしゲストハウスでくつろぐことを許された。七時半きっかりに、関内が呼びに来て、敷地内をひとまわりする散歩に付き合わされた。
 土曜だが、GFCのナタデココの工場はせわしなく動いていた。AMPミナモトもしかりで、調理棟をのぞいたときには、すでにカルロたちが顔を揃えていた。
 せっかくだから、もう始めてしまいましょうか、という関内のひと言で、昼からの予定だった辰三の調理講習会がいきなり開始されることになった。
 まだ八時にもなっていなかった。
「今日は君に通訳を任せようじゃないか。なに、そんなに心配そうな顔をしなくてもいい、彼らが調理の初心者講習なら、君は通訳の初心者講習だ。わからないことがあったら、何なりと遠慮せずに聞きなさい」
 関内が取ってつけたような思慮深い顔でそう言うと、辰三が、「よかったな、昨日の汚名返上のチャンスだぞ」と将人の背中をポンとたたいた。
 やれやれ、と思いながらも、将人は、お願いします、と頭を下げた。
 調理棟のシンクに、氷を張ったボールがあり、その中に、今朝カルロが市場で買ってきたという、新しい魚が入っていた。彼も相当な早起きを強いられたらしい。昨日のアジに似た魚の他に、今日はキスに似た魚も混ざっていた。
 辰三が昨日と同じように、魚を鮮度別に並べていくと、さっそくUP卒業の従業員たちが、包丁を手に取って加工を始めた。指示を待たずに作業を始める彼らの積極的な態度に、辰三は感心した表情で何度も頷いていた。
 集中して作業を続ける辰三や従業員たちは、ほとんど口を開かなかった。辰三の彼らとのコミュニケーションも、ジェスチャーだけで十分に間に合っていた。だから将人は、昨日と同じように、テーブルから少し離れたところに立って、そのようすを見つめているしかなかった。
 天ぷらやフライの具材の加工が一通り終わると、カルロたちはノート片手に、魚の鮮度の見分け方、どの魚種がどういう調理法に向いているか、加工後の保存方法などについて、辰三を質問攻めにした。将人はそれを難なく通訳していたのだが、途中から関内が口を出すようになり、やがて完全に取って代わられた。関内は、うまい通訳が思いつかなかったらしい部分は、それがいかに重要なことだろうともばっさりと省略したし、そんなときは、辰三の言っていないことまで勝手に付け加えて、会話の長さのつじつまを合わせていた。
 もちろん、それに気付いているのは、関内と将人だけだったのだが。
「これらと同じ製品が、ブエナスエルテ社からAMPミナモトに届くと思うと、わくわくしますね」
 関内は、テーブルの上に並べられた、見事な逆三角形を描く具材の前で、大きく手を広げた。
「でも、これじゃ売り物になりませんよ、もっと質を上げないとね」
 言って辰三が首を振ると、関内は従業員たちに、「これほどの製品でも、日本基準には遠く及ばないと言っておられる」と通訳した。
 従業員たちが、驚いた顔で辰三を見つめた。
 形のきれいな具材はTTCでの試験販売用に冷凍保存され、残ったものは、昨日のものも合わせて、今から天ぷらとフライに調理することになった。
 サラダ油を満たした揚げ鍋を載せたガスレンジに火がたかれると、関内は、そうだ、と手を打ち鳴らしてから調理場を駆け出し、母屋からそば麺の束とつゆのボトルを持って戻ってきた。
「せっかくだから、天ぷらそばを作ってみよう」
 関内はにんまりと言った。その出来しだいでは、TTCの試験販売のメニューに加えるという。
 そのうち、ニタとエミリーもやってきた。
 辰三が、溶いた小麦粉の中に具材をさっと浸し、続けざま揚げ鍋に落とす。油の表面の真ん中から、具材からはがれた天かすが、端に向けてぱっと広がる。
「これをさ、花が咲く、っていうんだよ。衣の硬さも、油の温度も、ちょうどいいって証だよ」
 辰三の言葉を、関内は、なるほどね、と言いながら誇るように通訳したが、もとの日本語を知っている将人ですら理解できないほどの直訳に加えて、発音が同じ〈Flower花〉と〈Flour小麦〉を混同したせいで、カルロたちは「あの小麦には花が入っているのか」「それで、その花は何という種類?」などと言いながら、大真面目でノートに書き記していた。
 カルロは花と小麦粉について明確にしようと、関内に何度か質問したが、返ってくる答えはあいまいで――というより、関内は英語でそれをうまく説明できないようすだった――そのうち、カルロが助けを求めるような表情で、将人の隣に歩み寄ってきた。
「小麦粉に入れる花の名前が聞き取れなかったんです。タツミさんに、もう一度、聞いてもらえますか?」
 将人は微笑みながら、辰三の言った事を、カルロにわかりやすく説明した。
 そういうことだったんですか、とカルロはそれまでの困惑した表情をぱっと明るくすると、他の従業員たちに、現地語で説明し始めた。
 カルロが説明を終えると、彼らは手をたたき鳴らして大笑いを始めた。エミリーもニタも笑った。言葉のわからない辰三も一緒になって笑った。
 関内だけは、むすっとした顔で腕組みしていた。
 笑いがおさまると、辰三がそばを茹で始めた。調理棟に香ばしいにおいが広がる。従業員たちは身を乗り出して鍋の中をのぞき込み、円を描いて踊るそばにじっと見入っていた。
 辰三は火加減を調整しながら、衣をまとった天ぷらの具材に指をつけては舌に運び、味を確かめて、納得したように頷いていた。揚げる前の衣の味見に意味があるのだろうかと将人は訝ったが、従業員たちは、プロの料理人を見るような畏敬の眼差しで、辰三の一挙手一挙動を見つめ、ノートを取り続けている。
「この調理棟が本格的に稼動したら、ここのすべてのテーブルで、こんな風に調理が――もっとせわしなくなるだろけど、行われるんです。お待たせしましたが、投資家のみなさんに、たっぷりと利息をつけて恩返しを始めるのも、もう時間の問題ですよ」
 言って、関内は両手を大きく広げながら、どこか演技がかった大笑いを調理棟に響かせた。

 出来上がった天ぷらそばは、ニタと他の従業員たちによって、わざわざ母屋まで運ばれていった。
「ここで彼らと一緒に食べないんですか」
 辰三が聞いた。
「従業員と同じテーブルでは食べませんよ」
 それが当然だというように、関内は答えた。
 母屋に戻り、三人で天ぷらそばを食べた。麺はありきたりの乾麺の味だったが、肝心の天ぷらになった魚は味が驚くほど薄く、お世辞にも褒められたものではなかった。
 だが、関内は麺を飲み込んでもいないうちから絶賛し始めた。
「いやあ、見た目もさることながら、味も絶品ですね、特に麺がいい、コシといい張りといい、手打ちにも勝るかもしれない。さすが料理人の辰三さんだ、これはTTCでも自信を持って出せますよ。天ぷらそば、メニューに加えましょう」
 辰三は、嬉しいようにも、困惑しているようにも見える笑みを浮かべて頷いてから、はっと将人に向き直った。
「いいか、正直に答えろよ。本当にうまいと思うか?」
 将人は少し考えてから言った。
「普通、だと思います」
 辰三はぷっと吹き出した。
「そりゃそうだよな、乾麺茹でて、そばつゆ入れただけだもんな。普通に決まってる」
「でも、フィリピンに来たばかりの僕が普通だと感じるということは、つまり日本の味を再現できているってことだし、こっちに長く滞在してる人たちにとっては、きっと、なつかしくておいしい味になるはず――」
 将人が言い終わらないうちに、関内が口を挟んた。
「柏葉くんのような若い連中はね、味が濃いのをうまいと勘違いしているんだよ。社員食堂のターゲットは、四十代から五十代の重役たちだから、二十代の意見は聞くだけ無駄というものですよ、辰三さん」
 それからも関内は、うまいうまい、と繰り返して、天ぷらそばを汁まで一滴残さず平らげた。

 午後は、フライの具材を調理して魚種ごとの味を確認した。その中から有望な具材を選んで、ご飯と野菜、それに粉末味噌汁や福神漬け――どれも関内が自分で食べるために日本から取り寄せたもの――を添えて、定食の試作品を作った。
 関内は、いつか食べようと楽しみに保存しておいたものなんだけどね、と何度もぼやいたものの、定食の試作品の出来には大満足といった面持ちだった。

 調理講習会が終わると、城村との夕食会に出発するまでのあいだ、将人と辰三は母屋のリビングで過ごした。関内はジョニ黒を飲みながら、辰三相手に、飽きることなく、日商赤丸時代の自慢話を延々と繰り返した。脇でその退屈な話を聞きながら、途中からもはや頷くこともしなくなった辰三を見て、きっと昨晩も同じ話を聞いたんだろうな、将人は思った。
 会話が止み、母屋が沈黙に包まれるのを恐れるかのように、関内は、機械のように延々と同じ話を繰り返した。

 日が傾き、リビングにオレンジ色の光が差し込むころ、城村から電話が入った。
 受話器を置くと、関内は「準備ができたんだって」と、子供のように嬉しそうな顔で言った。
 ゲストハウスに戻り、簡単に身支度を整えてからガレージに行くと、ゴリラ顔の運転手がギャランのボディを磨いているところだった。こちらに気付くなり、彼は後部座席に駆け寄ってドアを開け、その脇でドアを支えたまま直立した。
 将人たちを乗せた車が高い正門を抜けて未舗装の道に出ると、関内が言った。
「城村さんはサンパブロの中心街に住んでますから、三十分もかかりませんよ」
 まだ日の沈まぬうちにGFCサンパブロ工場から出るのは初めてだった。いつ見ても場違いに思えるホンダのディーラーの前を過ぎ、ゴルフ練習場のある交差点を左に曲がる。コンクリートで舗装された凹凸のある道の両側には、畑にある農機具をしまっておく納屋のような小さい店舗が並んでいた。腰上ほどの高さに窓口があり、そこに野菜や瓶のコーラや果物といった商品が所狭しと並べられ、軒下にはベルト状のキャンディーのパックや、バナナの房などがつり下げられている。どの店も、少し動いただけで手足がつかえてしまいそうなほど狭苦しく見える。窓口の上には、英語やタガログ語の派手な手書きの看板――〈ラ・サラ〉の看板にそっくりだった――が大きくかかげてある。
 道の上では、ステンレスかブリキに見える金属板で派手に装飾された、サイドカー付きの小型バイクや、乗客をぎゅうぎゅうに詰め込んで、それでも足りずに屋根にまで乗せている、同じような金属で同じように派手な装飾をした小型バスのような乗り物が行き交っていた。
「あの小さい店はサリサリ。サイドカー付きのバイクはトライシクル。屋根つきの乗合いバスはジープニー。サリサリの奥に見え隠れしてる、ヤシの葉で屋根を葺いた家はニッパハウス――」
 関内はそう解説しながら、楽しそうな顔で後部座席を振り返った。てっきり辰三に話しかけているのかと思った将人は、その笑みが自分に向けられていることに気付いて、思わず身じろぎした。
「これがフィリピンの典型的な景色だよ、柏葉君。高度成長期に生まれて何不自由なく生きてきた君のような若者には、ぜひ目に焼き付けて帰ってもらいたいものだ」
 笑みから一転、蔑むような表情になった関内は、そう言い終わると、むすりと口を結んでフロントガラスに向き直った。
 この人は本当によくわからないな、と内心でぼやきながら、将人は窓の外の景色に見入った。サリサリの前でにこやかに立ち話をしている人々の服装は、一様に薄汚れていて、縫い目からほつれていたり、破けているものも珍しくなかった。子供たちは、けっこうな速度で走り抜けていくトライシクルやジープニーも気にせず道端で駆けまわって遊んでいる。
 しばらく進み、サンパブロ中心街に入ると、道幅も広くなり、建物も増えてきた。
 赤信号でギャランが止まる。道路脇に、五十台以上のトライシクルがたむろしている広場があった。誰ひとりヘルメットをかぶっておらず、そのバイクの派手な色使いもあって、将人の目には、まるで暴走族の集会のように見えた。
「あれだけ客待ちのトライシクルがいるということは、人が動いているという何よりの証拠ですよ、辰三さん。フィリピンの景気は上昇一直線、源社長は最高のときに投資されたんですよ」
 トライシクルの群れに顎をしゃくりながら、関内は誇らしげに言った。
「俺は、投資のことはよくわからねぇから」
 辰三はまるで関心がなさそうに答えた。
 
 車は中心街を抜け、舗装のない、地面がむき出しの道に入った。前を走るトラックが巻き上げる砂埃が視界を奪う。時速二十キロ以下で走っているが、路面の凹凸が激しく、車は跳ねるように上下に揺れる。座高の高い将人は、どれだけ首を引っ込めても天井に頭をぶつけてしまう。
 その未舗装道路を十分ほど進んで、城村の家に到着した。関内の母屋ほどではないが、周囲を高い鉄柵で囲まれた、広い庭のある大きな平屋だった。
 門番らしい男が門を開くと、中から数匹のドーベルマンが飛び出してきた。車を取り囲み、よだれをまき散らしながら激しく吠える。それを合図にするかのように、太い眉に髪をオールバックにした、四十代半ばに見える体格の良い男が、辰三と似たり寄ったりのガニ股歩きで玄関から歩み寄ってきた。男は、関内の車までたどり着くと、吠え止まない犬に次々と容赦ない足蹴りを入れて黙らせていった。
「待たせてすまなかったね、道が混んでいたものだから」
 関内が助手席の窓を開けて言った。
「料理がすっかり冷めてしいましたよ」 辻村が笑みも浮かべずに答えた。「ああ、こちらがミナモト水産の辰三さんですか。初めまして、城村(しろむら)です、さあ、遠慮なく中へどうぞ」
 言って、城村は後部座席のドアを開けた。辰三に続いて、将人も車を降りる。柔道かラグビーでもやっていたのか、城村の耳は両方ともつぶれていた。肩幅のある辰三でも、城村とくらべるとずいぶんひ弱に見える。
 玄関は旅館のように広かった。熊のものなのか、黒く艶光りしている動物の毛皮が、マット代わりに敷いてある。
 城村に促されるままダイニングに入ると、キングサイズのベッドより大きな四角いテーブルが中央にどかりと置かれていた。そのだだっ広いテーブルの上を、色とりどりの料理が隙間なく埋め尽くしている。
 城村と関内が角を挟んで隣り合って座り、辰三は関内の横に座った。彼らの席から二メートルほど先の反対の角までは椅子がなかった。
「ああ、椅子がないか、そっちのやつを使いなさい」ダイニングの隅で重ね置かれている椅子を指差しながら、城村が言った。「君もミナモト水産から?」
 将人が、初めまして、柏葉将人です、と自己紹介しかけたところで、関内が割って入った。
「彼は臨時で雇った通訳ですよ、でも実務じゃまるで通用しないんだ。まあ、今夜は日本人だけだから通訳は必要ないし、私たちの仕事の話を聞いてもどうせ理解できないだろうから、その隅の席で、ひとり気楽に食事してもおらえばいいでしょう」
「ああ、通訳さんでしたか。それなら、隣に話し相手でも座らせますよ」
 言って、城村は奥のリビングに向けて「高橋!」と声を張り上げた。すぐに、背が低く小太りでメガネをかけた三十歳前後の男――営業課長のポロシャツメガネにそっくりだ――が現れた。
「こいつは高橋といいます。TTCの食堂で、関内さんのところの具材を使った日本食料理の販売を始めたら、こいつを厨房に立たせるんです。料理はまるでできないけど、日本人が厨房にいるというだけで、客の印象はずいぶん変わりますからね」
 将人の隣に座ると、高橋は上司を相手にするかのように慇懃に頭を下げた。
「高橋です、よろしくお願いします。あなたは関内さんのところで働かれているんですか?」
 将人は苦笑いしながらぶるぶるとかぶりを振った。
「僕はただの雇われ通訳です。〈ミツオカプロジェクト〉では、そうですね、通り雨みたいな存在ですよ」
 だが高橋はそれを謙遜と受け取ったらしく、感銘を受けたとでもいうような口調で言った。
「通訳なんてすごいじゃないですか! 自慢じゃないけど僕は英語がまるで話せないんですよ」
 そのとき、関内がテーブルの反対側で、「今日なんて、彼が〈小麦〉と〈花〉を上手く区別して通訳しなかったものだから、従業員たちが混乱してまいましてね。その二つの単語は、英語だと発音が同じだから、文脈を考えて訳さないとだめなんですよ」と、辰三や城村に小声で言っているのが聞こえた。

 関内と城村は、料理にもろくに手をつけず、TTCでの試験販売について夢中になって語り合っていた。その脇で退屈そうにしている辰三は、ジョニ黒をやりながら、ひたすら料理をつまんでいる。
 将人と高橋はといえば、十分も話さないうちにすっかり打ち解けて、〈ミツオカプロジェクト〉とはまったく関係ない話で盛り上がっていた。
「僕がこっち来たのは五年ほどまえだけどさ、最初は困ったよ。関内さんとこのきれいな宿に泊まってる柏葉君にはまだわからないだろうけどさ、道端に建ってるようなニッパハウスだとね、電気もガスも水道も通ってないのが当たりまえ。火は薪を拾い集めて起こすし、それで調理するんだ。そんでもって、水は井戸から汲むんだよ。ガスなんてオナラ以外じゃまずお目にかかれないね」そこで高橋は関内の方をちらりと見てから、将人に顔を寄せてきた。「サマールに行くんだってね。トイレの話は聞いた? そうか、でも別に悪いことばかりじゃないんだ、だってさ、フィリピーナは紙じゃなくて、桶の水と石鹸であそこを洗うだろ、だからさ、紙だけで済ませる日本人より清潔なんだ」
 高橋が大真面目な顔でそんなことを語るので、将人は関内の手前もあり、笑いをこらえるのに必死だった。
 しばらくして、城村がキッチンに向けて、酒をもってきてくれ、と大声を上げた。すぐに、将人とたいして年の違わない日本人女性が、フィリピン人の家政婦と一緒に酒の瓶を抱えて現れた。
「女房です」
 城村が辰三に紹介した。
 彼女は、辰三の前に新しいジョニ黒のボトルを一本、将人と高橋の前に、サンミゲルのボトルを六本置いていった。
 高橋は舌なめずりしながらサンミゲルの栓を抜き、ごくごくと半分ほど飲んでから、話を続けた。
「女遊びはもうやった? ああ、関内さんとこにいるんじゃ出来るわけないか。なあに、心配しなくたっていい、サマールの方が質も良くて値段も安いからさ。マニラやサンパブロなんかのそういう場所はちょっと危なくてね、病気も多いんだよ」
 そこまで聞いて、ふと、そもそも高橋がなぜフィリピンに住んでいるんだろうか、と将人は訝った。
「本当はね、下手に店に行って女を買うより、田舎の子をだました方が安全なんだ。コンドームは持ってきた? あ、そうか、君もなかなかわかってるじゃないか。いいかい、絶対に妊娠させちゃだめだよ、日本に帰れなくなるからね。ここはカトリックの国だから、できちゃったら絶対に産むよ、中絶なんて生死に関わる罪だからね、そこのところ、くれぐれもよろしく」
 言って、高橋は敬礼した。
 心に留めておきます、と将人はにこやかに頷いて見せたが、この滞在中に限らず、人生においてフィリピン人女性と交わる機会が自分にあるとは思えなかった。
 テーブルに並んだ料理のほとんどを平らげてしまうと、高橋が城村夫人にマンゴを頼んだ。将人は促されるまま、三枚にスライスされたマンゴを食べてみた。
「うまい!」
 思わず声が出てしまった。会話に夢中だった関内と城村、辰三の視線を一気に集めてしまう。会話を中断させられたことに、露骨な不快の表情を浮かべた関内をよそに、城村は将人に向けてにこやかに頷いた。
「なんだ、マンゴ好きなのか、まだまだたくさんあるぞ、遠慮なく食べなさい。おい、マンゴ、もっと持ってきてくれ」
 城村夫人が、マンゴが山盛りになった大きな皿を両腕で抱えて運んできた。続いてフィリピン人の家政婦も、まったく同じ皿をもうひとつ抱えてやってきた。将人は口をあんぐりと開けた。十人前と言われても不思議でない量だった。
 しかし高橋はひるむことなく、目を見開いて舌なめずりすると、早食い競争のように、次から次へとマンゴにむしゃぶりついた。
「城村さんね、普段は僕に、同じテーブルで食事させてくれないんだよ。それにこんなご馳走、いつもなら見てるだけ。でも今夜は君のおかげで、こうしてありつけたのさ、ありがとう。お礼といっては何だけど、胃が破けるまで食べさせてもらうね」
 おっとそれじゃお礼にならないか、と続けて、高橋は楽しそうに笑った。そして、二つの皿が空になるまで、むさぼるようにマンゴを食べ続けた。
 
 食事が終わると、将人は高橋と共に、サンミゲルの瓶を片手にリビングのソファーに移動した。やがて、関内と城村から開放された辰三も加わった。
「やれやれ、関内さんは城村さん相手にも、赤丸時代のおんなじ話をするんだからな、まいっちまうよ」
 辰三もすぐに高橋と打ち解け、二人でフィリピーナの話に花を咲かせた。
 城村の小さい娘二人が、リビングを走りまわっていた。フィリピン人の家政婦がタガログ語で何か言うと、驚いたことに、少女たちは流暢なタガログ語で答えていた。
 やがて城村もリビングに現れ、辰三の隣に座り、ミナモト水産の業務についていろいろと質問した。辰三は、ここまで来て仕事の話はしたくない、といった顔で受け答えしていたが、そのうち話題がゴルフに移ると、途端に会話が盛り上がった。
 将人は二人の会話を脇で聞くうちに、明日の日曜は、関内、城村、辰三の三人がゴルフコンペをする予定だということがわかった。
 ダイニングにひとり残されてジョニ黒を飲んでいた関内も、ついにリビングにやってきた。空いていたソファーに座ると、城村相手に、また〈ミツオカプロジェクト〉の話を始めたが、城村は鋭くひと言、「明日早いから、今夜はこのへんでお開きにしましょう」と言い放った。
 関内は、まだまだ話し足りない、といった顔になったが、「そうだね、もうそろそろ帰ろうかと思っていたところなんですよ」と言うなり、取ってつけたようなあくびをした。
 将人は、ごちそうさまでした、と城村に礼を言って立ち上がった。高橋にも、「サマールから帰ってきたら、また会いましょう」と微笑んだ。
「サマールは楽しいぞ。僕もついて行きたいくらいだよ」
 高橋はにんまりと微笑んだ。

 帰りの車中、関内が辰三に言った。
「あの高橋というやつ、フィリピンにはよくいる、失敗した日本人の典型なんですよ。こっちでビジネスを始めようと、日本で溜め込んだ五百万ばかりの金を持ってやってきて、フィリピン人の女房をもらってね。でも問題はそのあとなんです。日本でダメな人間が、こっちに来た途端、手の平を返したように成功するわけないんですよ。子供が二人も生まれたというのに、結局、ビジネスはやらず仕舞いで、貯金を食いつぶしてね、今では一文なしというわけです。それで、仕事もせずにマニラをふらついていた彼を、城村さんが見つけて拾ってやったんですよ。厨房に立ってるだけで一ヶ月二万ペソの給料がもらえるんだから、地獄に仏、フィリピンに城村、といったところですね、まったく」
 そこで一呼吸おいてから大きな舌打ちをすると、「あんなくずに二万ペソももったいない。一万ペソでいいじゃないか」と関内は独り言のようにつぶやいた。
 話を聞きながら、将人は、高橋の半生を垣間見たような気がした。城村に拾われる前は、人生八方ふさがりだったに違いない。とはいえ、こうして月二万ペソの仕事を得た今でも、彼の態度からは、仕事に対する決意や情熱、家族に対する責任のようなものがまるで感じられなかった。同じテーブルで食事させてもらえない城村に対しても、取り入ろうとするようすはまるでなかった。
 なるようにしかならないんですよ――そう言う高橋の声が聞こえたような気がした。
 ギャランのヘッドライトに照らされ、ときおり暗い道端に浮かび上がる小さなニッパハウスを見ながら、電気もガスも水道もないこんな家で、フィリピン人の妻と二人の子供と暮らす高橋は、きっと日本を出たことを何度も後悔したに違いない、と将人は感じた。

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