219945 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

Locker's Style

Locker's Style

『橋の下の彼女』(17)

1999年7月2日(金)

フィリピン・アレン

 その朝は、関内の希望通り七時前に社宅を出た。
 ブエナスエルテ社に到着すると、リンドンが待ってましたとばかりにコンテナの状況を報告した。霜取り機能の間隔を短く変更してから、温度はぐんぐん低下して、深夜になって庫内温度がマイナス二十度に達し、それ以後は霜着きを起こすことなく安定しているという。
「でかした!」辰三がにんまりとした。「白いリーファーコンテナの急速冷凍室はそのままマイナス二十度を維持してくれ。手前の部屋は鮮魚保管に使うから、水が凍るか凍らないかぎりぎりの、マイナス二度で冷蔵庫にする。緑の方は製品保存の冷凍庫として使うから、マイナス十度だ」
「わかりました。あと、もうひとつ報告があります」リンドンがにこやかに言った。「バケツ氷ができています」
 聞くなり、関内がコンテナの方へ走り出した。みな、慌ててあとに続く。
「これはすごいね」
 リーファーコンテナの扉を開けるなり、関内は興奮した顔で白い息を吐き出した。ずらりと並んだ大バケツには、せり出すように盛り上がった硬い氷ができあがっている。
「従業員たちにも見せてやろうじゃないか。アルマン、みんなを呼んできなさい」
 言いながら、関内は一人で大バケツを外に引きずっていこうとしたが、五十キロ以上はある氷の塊はびくともしない。
「こういうときは、言われる前に部下が駆け寄ってきて『私がやります』って代わるもんだよ、柏葉君」
 関内がとがめるように言った。
 仕方なく、将人は重たい氷入りのバケツを外に向かってずるずると引きずっていった。ライアンが「僕も手伝うよ」とバケツを反対側から押してくれる。
 コンテナから出ると、すでに多くの従業員たちが、今度は何事か、といった面持ちでプラットフォームを取り囲むように集まっていた。ノノイやアルバート、それにあの陰鬱な顔をした運転手の姿も見える。
 バケツが外に出るか出ないかのところで、関内は将人から奪うようにバケツの取っ手を握った。そして地面から一メートル五十センチほどの高さのあるプラットフォームの上で、従業員たちに中の氷が見えるように傾けた。
「よく見たまえ君たち! これが日本の技術だ! この蒸し暑いアレンでこんなどでかい氷が作れるんだぞ! いいか、ブエナスエルテ社で働けることがどれだけ光栄なことか、もう一度しっかり心に刻むんだ!」
 従業員たちから割れんばかりの拍手が沸き起こると、関内は悦に入った顔で彼らに頷き返した。

 リンドンたちが夜通しで記録した燃費消費量を基にして、ブエナスエルテ社が通常の運営で必要する燃料費を予測することになった。テーブルに広げられた手書きの記録を前に、関内は電卓を取り出してパチパチと弾きながら「今から算出するより燃料費がかかったら、それは全てブエナスエルテが負担することになるからね――」というようなことをレックスに言っている。
 そのうち、関内とレックスは今日もまた「それは理想論だ」とか「新しい従業員を雇う金はどこから出すんだ」などと口論を始めた。
 昨日のことがあったので、将人は二人の会話を、聞き取れた部分は残らず辰三に通訳した。辰三が感心なさそうにそっぽを向いたときも、将人はかまわず通訳を続けた。
「まだ港にすら行ってねぇし、魚種も相場も量もわからねぇってのに、卸値がどうのこうのなんて今話したって始まららねぇのにな」
 辰三がぼそりとこぼした。
 手持ち無沙汰からか、辰三は二機のリーファーコンテナの周りをぐるぐると歩きながら、鮮魚の買い付けはおそらくカルバヨグという港町を使うことになる、と辰三が言った。カルバヨグはアレンから約七十キロほど南にある町で、その漁港はサマールで有数の規模だという。関内が明日、カルバヨグ空港発の国内線でルソン島に戻るので、カルバヨグ港での初めての買い付けも明日になった。今日の夕方にアレンを出発し、カルバヨグ港の近くのホテルで一泊する。明朝は午前五時前には魚市場で競りを始めるそうだ。
「見た目は同じでもな、実際に調理して食ってみるまでは、どんな味か見当もつかねぇ。だから明日の買い付けではよ、それなりの見てくれの魚種は、コンテナにおさまる限りどんどん買い付けてみるって話だ」
 辰三が苦笑いした。
 買い付けた鮮魚がブエナスエルテ社に届けば、あとは加工する従業員を雇い、いよいよ辰三が技術指導を始めることになる。順序的には逆のような気もするが、時間に余裕がないのも事実だ。
「とりあえず明日で関内さんとはしばらくお別れだな。お前、あの人にはずいぶん好かれてるみてぇだから寂しいだろ?」
 将人はぶるぶると首を振った。
「辰三さんのほうこそ、晩酌の相手がいなくなって寂しくなるんじゃありませんか?」
 このやろう、と、辰三は笑いながら将人の頭を軽くはたいた。
 昨日の一件から二人のあいだに漂っていたわだかまりが消えた瞬間だった。

 氷は大バケツから取り出してからハンマーで粉砕して小売用に麻袋に小分けされた。ライアンとジョエルが、ブエナスエルテ社の前を通る人々を「氷がありますよ」と片っ端から呼び止めた。思いつきで始めたわりに、販売は順調だった。通行人の口伝でやってくる一般客だけでなく、アレンの港の漁業関係者もやってきて大量に買い占めたため、小売を始めてから一時間もしないうちに氷は完売してしまった。
「もし不漁で鮮魚の供給が数日滞ったとしても、氷を売ればランニングコストの埋め合わせができそうだな」関内がアルマンに言った。「今日の売り上げも会計報告書に記載するのを忘れないように。君たちの小遣いではないんだからね」
 脇で聞いていたレックスが、ふんっ、と鼻を鳴らした。
「バケツ二十杯分の氷を売ると、使った燃料費が相殺できる計算なんだけど、セキウチさんには三十杯って言っておいた」
 アルマンがくすくす笑いながら将人に耳打ちした。

 実際に鮮魚加工が行われることになる加工場をぶらつきながら、辰三はレックスに、鮮魚を加工するテーブルと、干物を作るための干し網、それに干し網を並べる干し台を早急に製作するよう頼んだ。どんな形のものか図に書いて欲しい、と言ったレックスに、辰三は小学生の落書きのような絵を書いて渡した。絵だけでなく寸法も、〈畳一畳ほど〉〈だいたい腕の長さ〉などとあいまいなものばかりだった。
「とりあえずひとつずつ作らせてみて、変更したい点があれば現物合わせで調整していきましょう」
 レックスは言って、何人かの従業員を呼び寄せ、手短な指示を与えた。数分もせずに、彼らはどこからかたくさんの木材を運んできて加工場の前に山積みにした。木材はどれもこれも不揃いで、たった今切り出してきたかのようにじっとりと湿っているヤシの幹だった。このまま乾燥させずに使ったら後々反ってしまうのは明白だが、誰も気に留めている様子はない。
「さて、とりあえず材料はそろったみてぇだが――」辰三が将人に苦笑いた。「肝心な現場の従業員をさっさと雇わねぇとな。買い付けた鮮魚は明日中に届くだろ。魚の鮮度が落ちねぇうちに採用試験を始めてぇって、レックスに言ってくれや」
 辰三はタバコに火をつけながら、「そういや、この町じゃ、どうやって求人を出すんだろうな」と首を傾げた。
 しばらくして、加工場の前に積み上げられた木材の山のところに、ショートパンツにサンダル、上半身裸といういでたちで、伸びっぱなしの前髪を額からだらりと垂らしたフィリピン人がチェーンソーを持って現れた。彼はヤシの幹の一本を足で転がして適当な位置まで動かすと、タバコをくわえたまま、プルスターターのひもを軽々と引っ張ってエンジンを始動させた。サンダル履きの足で幹を押さえると、芸術的な器用さで、あっという間に幹を縦に二等分にしてしまった。そこでいったんエンジンを止めると、彼は真っ二つになった幹の断面に、耳に挟んでいた鉛筆と定規でざっと線を引き、再びエンジンをかけて、今度はその線に沿って、寸分の狂いもなくチェーンソーの刃を走らせていき、今度は数枚の平板にしてしまった。
 彼の手際に見とれていた将人たちのところへ、ライアンが誇らしげな笑みを浮かべてやってきた。
「彼はね、ブエナスエルテ社の大工仕事を担当しているブノンだよ。アレンだけでなく、他の町にも名が知れ渡っているほどの腕利きの大工なんだ」
 ブノンと呼ばれた男は、自分の名前が呼ばれたのに気付いたのか、急にエンジンを止め、目にかかっていた前髪を指で横にはらって、将人たちに向けてにやっと笑った。
「フィリピンジン、ナンデモツクル。ゼンブ、ジブンタチデ、ツクル」
 最初は彼がタガログ語を話していると思ったが、途中でそれが訛りのひどい英語だと将人は気付いた。前髪をかき上げて顔をあらわにしたブノンは、ノノイに負けず劣らずのハンサムだった。茶色で艶のある前髪が額に垂れ下がり、その隙間から片目をのぞかせているさまは、さしずめ色気づき始めた日本の高校生のように若々しく見える。
「シゴト、シゴト、シゴト。マイニチ、トテモ、イソガシイ!」
 そう言ってにやけながら、指に挟んでいたタバコを口にくわえ直すと、プルスターターのひもをぐいっと引っ張ってエンジンをかけた。ブノンは、その童顔に不釣合いな突き出た腹に、チェーンソーの尾部を載せるようにしてバランスを取りながら、切り出した平板を、今度は角材へと刻んでいく。
 ブノンが切り出した角材を、辰三は長方形に仮組みしていく。畳一畳ほどの大きさの枠を組み上げ、そこに網を張って、干物を乾かす干し台にするのだ。網は、ブエナペスカ社の養殖池でミルクフィッシュを収穫するのに使ったものがあるというので、それを使うことにした。辰三は身振り手振りで、ブノンに釘を打つ位置や網の張り方を伝えた。
「それにしても、機械で切り出したみてぇにまっすぐだ」
 角材のひとつを目の前にかざしながら、辰三がつぶやいた。
 ブノンは、タバコと一緒に口にくわえていた釘を慣れた手つきで角材に打ち込んでいき、五分もかからずに、辰三の望みどおりの干し網を組み上げてしまった。
「昔の日本の大工も、こんな感じだったんだろうなぁ、今の日本じゃ、絶対にお目にかかれねぇよ、こんな、目分量で寸本をきっちり合わせちまうような大工はよ」
 ブノンの腕前に辰三はつくづく感心している様子だった。
「じゃあこの調子で、今日中に同じやつを二十個作ってくれよ」
 将人が辰三の言葉を通訳すると、それまで上機嫌に鼻歌を歌いながらトンカチを振っていたブノンは、口をあんぐりとあけて、くわえていたタバコと釘をポロリと地面に落とした。その光景を見ていた従業員たちは腹を抱えて笑い転げた。

 辰三はライアンを呼び寄せ、できれば採用試験は日曜か月曜からさっそく始めたい、と言った。魚は加工を済ませて冷凍してしまえば長期保存が効くが、まる(未加工)の状態では、魚種にもよるが、冷蔵保存でも三日すれば味の低下が顕著になるという。つまり明日買い付けた魚は、火曜か水曜までにすべて加工してしまうのが望ましいのだ。
「採用試験は月曜に行うということで手配を済ませてしまいました」
 ライアンがわびた。
「どっかの求人誌に広告でも載せたのか?」
 ライアンが首を振った。アレンでは口伝えで、他の町では手書きの求人広告を貼った板を道端に突き立てたのだそうだ。
「そんなことで本当に人が集まるのか?」
 辰三は首を傾げたが、ライアンは、これ以上告知を増せば求職者が集まりすぎて困ることになる、と真顔で答えた。

 加工場に座り、ブノンが干し網を作るのを見つめていると、辰三がふとこぼした。
「まったく、サンパブロでフライなんか揚げてねぇで、さっさとこっちに来りゃよかったんだよ」
 技術指導を能率よく行うため、辰三はまず、ライアン、リンドン、アルマン、ジョエルの四人の重役のうちの何人かを徹底的に指導して、加工専門の従業員は彼らに指導させるという、階層式の指導方法を考えていると語った。将人はその考えに賛成だった。ブエナスエルテ社で満足に英語を理解できるのは、レックスとライアンたち重役の四人だけだ。ノノイやブノン程度の英語力では、将人の通訳を介しても、辰三の言いたいことが正確に伝わるか疑問だ。確かに、日本語から英語、英語からタガログ語という、三点通訳をすれば意思疎通はできるだろうが、指導時の能率が大幅に低下するのは間違いないし、誤訳の元にもなる。それならば、英語の話せる重役四人全員、もしくは彼らのうち何人かにまず加工技術を学ばせ、次に彼らが現地雇用した従業員の指導を行えば、人数的にも言語的にもずっと能率が良くなる。
「でもあの四人、器用なカルロみたいにすぐ覚えますかね? ライアンはどう見ても現場向きじゃないし、アルマンとリンドンは電気屋です。ジョエルはどこか足が地面についていないような印象があるし――」
「俺もそうは思うんだけどよ、他に方法がねぇだろ?」
 確かにその通りだと将人は頷いた。

 いつもながらの豪華な昼食を取り終えると、関内はチェーンソーがうるさいから見張り小屋で昼寝すると言い出した。ノノイたちを小屋から追い出してライアンに簡易ベッドを用意させると、「シエスタ」と言って関内はあっという間に寝てしまった。
 将人と辰三は昼寝に付き合わず、加工場でアルバートの持ってきたボゴジュースを飲みながら、しばらくブノンの神業のような大工仕事をながめて過ごした。
 午後の日差しは、皮膚が焦げて墨になるのではと思うほど強かった。ブノンはその直射日光を全身に浴びながら、水を湿らせたタオルを顔に巻きつけ、吸い終わらないうちに汗で湿って消えてしまうタバコに悪態をつきながらも、チェーンソーをひたすら動かし続けた。彼が切り出した角材を、アルマンと数人の従業員たちが、加工場の隅で枠に組み上げ、網を張っていった。アルマンは電気工事とは勝手の違う大工仕事を楽しんでいる様子だったが、彼が組んだ干し台はみな平行四辺形か台形になっていた。木材の切り出しが全て終わったとろこで、ブノンはアルマンたちに合流したが、できあがった木枠のゆがみを見て唖然とした顔になった。彼は甲高い声でアルマンたちを叱り飛ばしたあと、しっかりした長方形になるよう木枠の釘を打ち直し始めた。
 加工場の隅で、叱られた子供のようにうなだれて立っているアルマンの姿が滑稽で、将人は思わず声を上げて笑ってしまった。
「そんなに笑うんなら、ショウもやってみればいいんだよ。すごく難しいんだぞ」
 アルマンが口を尖らせて言った。
 ごめんごめん、と将人は謝ってから、再び大笑いした。

 重役を先に指導したい、という辰三の考えを伝えると、リンドンはそれならばと、練習用の魚をアレンの港に買いに行った。
 一時間ほどしてリンドンが戻ってきたときには、十枚の干し台と、一台の鮮魚加工用テーブルが出来上がっていた。
「この加工用テーブルにはビニールシートを張るつもりなんです」出来上がったテーブルを見ながら、リンドンが誇らしげに言った。「天板に抗菌シートを貼れば長持ちすると思います」
 良いアイデアだと将人は思ったが、辰三は顔をしかめて首を振った。
「いいよ、そんなもん張らなくて」
「でもこのテーブルは水浸しになるわけですから――」
「また関内さんに経費がどうのこうの言われてえのか」
「だけど天板がむき出しでは、魚に木屑が入ってしまうかもしれません。日本基準が保てませんよ」
 リンドンは通訳を続けている将人に助けを求めるような顔を向けた。リンドンの言うことはもっともだと思った将人は、辰三に「本当に良いんですか?」と何度も聞いたが、返ってくる返事は「お前の気にすることじゃねぇ」ばかりだった。
 どうしても納得がいかないリンドンは、将人が彼の言ったことを正確に通訳していないのではないかと疑いだす始末だった。
 とえいあえず天板には抗菌シートを張らない、ということで話が落ち着くと――辰三が日本に帰ったら貼れば良いと将人が耳打ちしてリンドンを納得させた――辰三は木板むき出しの加工テーブルの上に、リンドンが買ってきた魚を横一列で並べた。サンパブロのときのように、一匹ずつ手にとっては、時間をかけて吟味していく。キス、アジ、サバなどと似ているが、日本で見かけるものとはわずかに形や色が違っていた。辰三が言うには、全く別の魚種なのだそうだ。他にもリンドンが「試しに買ってみました」という、辰三ですら初めて見るという、とても食用とは思えない不気味な外見の魚も混じっていた。
「どのみち食ってみるまで味はわからねぇからな。おい、出刃もってこい」
 辰三が言うと、先に日本から別便で送られていた出刃包丁をリンドンが持ってきた。
 出刃を受け取って深呼吸すると、辰三はさっと一匹つかみ上げ、瞬く間に出刃をその腹に差し込んだ。出刃が滑るように動き、一匹、また一匹と、テーブルに並んだ魚が次々とさばかれていく。最初の三匹は腹から開かれ、次の三匹は背中から開かれた。その違いはてんぷら用かフライ用かだということを将人はサンパブロで学んでいた。
 魚が腹や背中から割れるように開かれ、出刃をさっと滑らせただけで背骨が抜き取られていくのを、ブエナスエルテ社の従業員たちはうめき声すら漏らしながら、取り憑かれたように見つめていた。
 五分も経たないうちに、見事な三角形を描いたヒラキが、テーブルの上にずらりと並んだ。
「なぜ包丁だけであんなにきれいに背骨が取れるんですか?」
 リンドンが目をぱちくりさせながら聞いた。
「それをこれからお前たちに教えるんじゃねぇか」
 辰三がリンドンにニヤリと微笑んだ。
「これはボンレス(骨なし)の切り身を作っているんですか?」
 ライアンが聞いた。
「ボンレスにはまた別のやり方があるんだよ」
 辰三が誇らしげに答える。
 ライアンによれば、特にミルクフィッシュのボンレスは、スーパーマーケットでもなかなか手が出ない高級品だという。そういったボンレスを作るときは、まず半身におろしてから、指やペンチを使って背骨をはがすのだそうだ。ところが、辰三が出刃一本だけで背骨のない切り身を作り上げてしまったものだから、彼らが、中央の皮一枚でつながり、帳面のように左右に開いた天ぷらやフライ用のヒラキをボンレスだと思ったのも無理はないと思えた。
「これが〈日本基準〉だ」後ろで様子を眺めていたレックスがいきなり大声で言った。全員の視線が彼に集まる。「ブエナスエルテ社が製造するのはこのレベルの製品だ。そのことをしっかり心に留めておくように」
 レックスは英語でそう言ってから、おそらく同じ内容を、タガログ語で従業員たちに、もう一度言っていた。
 従業員たちの尊敬の眼差しに辰三は照れ笑いを返しながら、彼らの何人を呼び寄せて出刃を持たせた。そして、柄の握り方、出刃を入れる角度などを、身振り手振りで教え始めた。言いたいことは十分に伝わっているようで、従業員たちはおっかなびっくりしながらも、ゆっくりと出刃を動かし始めた。
 彼らが作ったヒラキは、左右の身が離れてしまったり、つながっていても尾の手前だけ、といった具合だった。そんな中でも、数人のフィリピン人たちの飲み込みが思ったよりも早いことを辰三はすでに見て取っていた。その通り、わずか三十分足らずの指導で、すでに商品として使えそうなものが、いくつか見られるようになったのだ。
「こいつら、さすがは電話もねぇ田舎町で生きてるだけのことはある。あの大工もそうだけど、こいつら、とんでもなく器用だ」
 辰三の言葉を将人がレックスに通訳すると、レックスもそれをタガログ語にして従業員たちに伝えた。従業員たちからざわめきが起こり、照れくさそうな笑みが彼らの顔に広がる。
「フィリピンジン、ミンナ、ジブンデ、ツクル! セルフメイド!」
 大工仕事を中断して出刃包丁を握っていたブノンが、誇らしげに言った。
「ブノンは器用だけど、魚はさわらせない方がいいみたいだよ」
 言いながら、ライアンがブノンの作ったヒラキを掲げた。従業員たちがどっと笑い声を上げた。ブノンのヒラキは、ミンチと呼んだ方がいいありさまだった。
 そのとき、テーブルを取り囲む従業員たちのあいだから、両腕いっぱいに刺青を入れた一人の男が、俺にもやらせてくれ、というような挑発的な面持ちで、テーブルに進み出てきた。彼の容姿を見た途端、将人はNBAのチャールズ・バークレーにそっくりだと思った。本人もそれを意識しているのか、フェニックス・サンズのユニフォームを着ている。
 彼はためらいもなく辰三の隣に立つと、テーブルの上の鮮魚を手繰り寄せ、出刃を取り上げてから、辰三に「やっても良いですか」と聞くように軽く首を傾げて見せた。
 辰三は驚きながらも「おう、やってみろ」と頷き返した。
 男は白を基調にしたサンズのユニフォームが魚の血で汚れるのも気にせず、辰三が身振り手振りで教える出刃の動きを、挑むようなな目つきで追っていく。
「あいつ、トトっていうんです。アレンのギャングの一員なんだけど、料理が好きでね、調理師として雇ったんだよ。従業員のまかないは全部あいつが作ってるんだ。ショウたちの昼飯を作ったのもあいつなんだよ。タツミさんの包丁さばきを見て、自分も挑戦したいと思ったんだろうね」
 言って、リンドンが将人に苦笑いした。
 トトは、ここは俺の特等席だ、とでも言わんばかりに、辰三の横にぴったりと張り付いている。驚いたことに、最初の二尾こそ失敗したものの、三尾目で、トトは辰三と寸分たがわぬヒラキを作り上げた。
「こりゃたまげたぞ」
 辰三が目を見開いた。そして自分のヒラキとトトのヒラキをシャッフルして、従業員の何人かに「俺が切ったのはどっちだと思う?」と聞いてまわった。ライアンとアルマンが正解したが、それがあてずっぽだったのは明らかで、他の従業員たちもトトと辰三のヒラキを区別することができなかった。
「おいおいお前ら、まさか『辰三なんか連れてこなくてもよかったんじゃねぇか』なんて考えてねぇだろうな?」
 半ば本気で言ったとも感じられる辰三の言葉を将人が通訳すると、リンドンがそれをタガログ語で通訳した。従業員たちからどっと笑いが起きる。
 トトに触発されたのか、今までは手をこまねいて見ているだけだった他の従業員たちも、次々とテーブルに進み出て出刃を取り上げた。製氷機で作ったフレークアイスの上で冷やされている魚をつかみ上げ、慎重に刃を入れていく。ついさっきまで緊張感で凝り固まっていたテーブルの雰囲気は、あっという間に和やかになった。辰三も、彼らの作った、ヒラキというよりは魚の残骸といったほうがいい物体を見て、声を上げて笑った。
「頭や尾ひれ、背骨を取り除いたあとで、どれだけたくさんの身が残っているか。つまりどれだけ〈重い〉製品を作れるかが鍵だ。製品の価格は重量で決まる。それを忘れるんじゃないぞ」
 レックスが、英語とタガログ語で一度ずつ言うと、従業員たちが真剣な顔で大きく頷いた。
「レックスの言うことももっともだけどよ、今日のところは、こんだけ積極的にやるって気持ちを見せてもらっただけでも、俺は大満足だぜ」
 将人がそれを訳して伝えようとすると、「バカ、それは通訳しなくていい」と辰三に腕をぐいっと引っ張られた。
 そのとき、まだ昼寝の最中だとばかり思っていた関内の大声が後ろから響いて、将人はぎょっと飛び上がった。
「この会社は現在、全く利益を上げていないにもかかわらず、従業員に給料が支払われている。なぜか? それは、辰三さんのミナモト水産を始めとする方々が、ミツオカプロジェクトへ投資してくれたからこそなのですよ。それも忘れないでほしいですね」従業員たちの視線がさっと関内に集まる。「それにしても、こんな塗装もしていない天板をそのまま使う無神経さは、さすがにフィリピン人といったところですね。魚にゴミがつくし、毎日水浸しになるんだから、天板はすぐに腐るだろうし、ばい菌も沸いてしまうというのがわからないのかね? ビニールシートか何か貼るくらいのことを思いついてほしいよ」
 今日中にやります、と関内に答えながら、リンドンは将人の耳元で、だから言ったじゃないか、とつぶやいた。
 レックスが将人の肩に手をかけた。
「ショウ、うちの従業員で、誰か目ぼしい者がいたか、タツミさんに聞いてくれるかね?」
 将人は、残り少なくなった鮮魚を従業員たちとにこやかに加工している辰三に歩み寄って、レックスの言葉を伝えた。
「こいつだよ。この俺の隣にいる、刺青のこいつだ。ずば抜けていやがるよ、まったく」
 辰三はトトに向けて顎をしゃくった。将人は彼がブエナスエルテ社の調理師だということを伝えた。
「へえ、こいつがまかないを作ってんのか。なるほど、包丁の扱いが手慣れてるなとは思ったが。だけどそれだけじゃねぇぞ。こいつには生まれつきの器用さがある。こいつを徹底的に鍛え上げれば、もしかすると、俺が日本に戻るまでに現場を任せられるくれぇにはなるかもしれねぇぞ」
 将人がにこやかにその言葉を伝えた途端、レックスの表情がさっと曇った。横で聞いていたリンドンまで、同じように難しい顔になる。
「それはつまり、トトを加工の責任者にするということですか? とんでもない! トトは小学校も卒業していないただのギャングですよ。確かに器用で覚えも早いですが、だからといってあいつをブエナスエルテ社の心臓部である加工場の責任者にするというのはばかげています。将来、リンドンやジョエル、ライアンやアルマン、もしかしたら私にだって、楯突いてくることになるかもしれないし、同業者に目を付けられて、引き抜かれてしまうこともありえます。そうなったら、ブエナスエルテ社の経営を揺るがす一大事になるんですよ」
 リンドンが続いた。
「トトなんて、レックスに拾ってもらわなければ、今ごろアレンの田舎町の道端で、アヘンを吸って腐っているに違いなんです。そんな重要な役割は、絶対に与えるべきじゃない――」
 レックスとリンドンは、それからも、あれやこれやと理由を見つけては、トトが加工責任者になるという辰三の考えに異を唱えた。
 関内は、その光景を少し離れたところから、面白そうに眺めているだけで、口を挟もうとはしない。
 辰三が、参ったな、というように将人に肩をすくめて見せた。
「でもな、ああいう刺青だらけのワルだってよ、他人に認めてもらって、責任ある立場を任せられると、それなりの自覚が出てくるもんだよ。そうやって他人から認められて得たものを守ろうとする気持ちは、恵まれて育った連中よりも、逆にずっと強いはずだ。俺は、やっぱりこいつに任せたい」
 辰三の言葉の裏にあるものが、将人は何となくわかる気がした。昨日、将人に怒鳴り声をあげたときの目つきや言葉遣いから、今でこそ常務取締役であるものの、きっと若い頃は、辰三も社会から蔑まされる類の集団に一度は傾倒していたに違いないと感じたからだ。辰三はトトに、若いころの自分を重ね合わせているのかもしれない――。
 それでもなかなか首を縦に振らないリンドンに、辰三がぴしゃりと言い放った。
「じゃあ言わせてもらうけどな、リンドン、お前、今日一回でも出刃握ったか?」
 リンドンの顔が引きつった。
「でも、私の仕事は電気関係と、人事関係ですから――」
「つまり握らなかったし、握るつもりもねぇってことだな。よし、そんじゃアルマン、お前はどうだ? ライアンは? 見てただけか、ああそうか。さてジョエルはどこいった? あそこで寝てるの、あれか?」
 辰三が出刃を突き出した先には、加工場の先にある小屋の日陰に広げた簡易ベッドの上で、ジョエルが口をあけて寝ていた。
「いいか、お前らお偉いさんたちなは、お偉いさんにしかできねぇ頭を使う仕事に集中して欲しい。そりゃ、トトは、頭は悪いかもしれねぇが、加工の腕はピカイチだ。人それぞれの長所を出し合って、助け合っていく気持ちがなきゃ、会社なんてまわらねぇぞ。ほら、なんつったっけ、そんな感じのいい言葉、あるじゃねぇか」
「適材適所ですね」と答えながら、辰三の言葉に感動していた将人は、知らぬ間に通訳する言葉にも力を込めているのに気づいた。
「つまらねぇことにこだわってねぇでな、ブエナスエルテ社が、一番上手く動くことだけを考えようや。ただでさえ俺たちには時間が足りねぇんだからよ」
「それはわかっているんですが」
 レックスはまだ首を縦に振ろうとしない。
「まあまあ、そう結論を急ぐこともないでしょう」傍観していた関内がここぞとばかりに進み出てきた。「責任者の選定は、またカルバヨグから鮮魚が届いたあとで改めて行う、ってことにしましょうよ」
「どうなろうと、俺は腕の一番良いやつを選ぶつもりですから」
 辰三が、含みを持たせるように、関内に答えた。
 そのれからも、リンドンは「トトはただのチンピラなんだぞ」と、何度も将人耳打ちしてきた。


 夕方四時過ぎに、将人たちはカルバヨグに向けて出発した。

次へ

トップへ


© Rakuten Group, Inc.