『橋の下の彼女』(28)1999年7月12日(月)フィリピン・アレン 加工係たちは、辰三のひと言ふた言の短い指示を受けただけで、てきぱきと仕事をこなしていく。その手際は、初めて出刃を持ってから今日でちょうど一週間だとというのに、将人の目には、もはや熟練の域に達しているようにすら見える。 十日前にカルバヨグで買い付けた、約一トンの鮮魚の在庫も、あと二日分あるかないかまでに減っている。やはり初回で一トンの購入は多すぎたようで、残っているものはとても〈鮮魚〉と呼べないまでに痛んでしまっていた。 痛んだ魚の中には、バケツから取り出しただけで、内臓が腹の皮ごとごっそり取れてしまうものもある。もはや煮物や干物にしてごまかせる状態ではなかったが、「そのまま腐らせるよりは乾かした方が捨てるにも楽だ」と辰三は笑みを浮かべながら開き直ったように言った。 ライアンが、腐りかけの魚でも油で揚げれば味がごまかせるから、パンで挟んで、ファーストフードのように売るのはどうか、と提案した。 「ブエナスエルテ社の製品はAMPミナモトの専売だが、腐りかけた在庫を揚げ物にして通行人に小売りするくれぇかまわねぇえさ。この会社が〈ミツオカプロジェクト〉抜きでも自力で採算がとれるようになりゃ、それはよ、投資したミナモト水産のためにもなるんだからな」 辰三はそう言って二つ返事で了承した。 「あっという間にアレン名物になって、原価くらいは簡単に回収できると思います」 リンドンが目を輝かせて言った。 「セキウチさんの〈ミツオカプロジェクト〉が必ずしも成功するとは限らないからね。独立採算できる体制を整えておくのは大事だよ、投資してくれたミナモト水産のためにもね」 ライアンが、本気とも冗談とも取れる口調で将人にささやいた。 加工係たちは、干物の加工なら、辰三いわく「もう完璧にこなせる」ので、世話を焼く必要もなくなり、辰三は完全に加工係の一員になりきって、彼らとともに黙々と出刃を動かし続けた。 八時の始業からそんな状況なので、将人は、ときおり「氷を持ってこい」などという辰三の指示を通訳するほかは、ただ加工場の隅に突っ立って――ちょっとした疎外感を覚えながら――ぼおっと作業風景を眺めているしかなかった。 アルバートが、その小さくか細い体に張り付いた筋肉を硬直させながら、ミナモト水産の大バケツを肩に担いで、リーファーコンテナと加工場のあいだを何度も往復するのを見ているうちに、将人はふと、辰三から将人、将人からリンドン、リンドンからアルバート、といちいち日本語から英語を介してタガログ語にする手間をかけなくても、自分が氷を運んでくれば良いだけの話じゃないか、と思うようになった。 何度目かに辰三から氷を運んでくるよう言われたとき、将人はそれをリンドンに通訳せず、リーファーコンテナに自ら向い、防寒服姿のイボンとブノンの驚いた顔を横目に、五十キロはある、ふちからせり出すほど氷が張ったミナモト水産の大バケツを肩に担ぎ上げて加工場へ運んでいった。 その突き刺さるような重さを肩で感じて、改めてアルバートの筋力に驚かされた。 リンドンのほか数人の加工係たちが、大バケツを担いで戻ってきた将人に気付いて目を見開いた。加工場のコンクリートの地面に将人がバケツをどさりと降ろしたとき、アルバートが背後から全力疾走で駆け込んできた。 「すみません、トイレにいっていたので、もちばをはなれていました」 今にも泣き出しそうな顔で、アルバートが詫びた。 「違うんだって、アルバート」将人は、彼の肩に手をかけた。リンドンが怪訝な顔でこちらを見ている。「僕は君の仕事を手伝ったんじゃない。やることがなくて暇だからウェイトトレーニングをしてるんだ。こっちに来てからすっかり体がなまっちゃったからさ」 かまわないだろ、と将人がリンドンに目で合図すると、彼は苦笑いしながら、仕方ないな、というように肩をすくめた。 サマールに来る前は「スプーンを落としても自分で拾うなよ」と大真面目に言っていた辰三だが、将人がアルバートの作業を手伝うことについては、「おいおい、クリスティのまえで力自慢したい気持ちはわかるがよ、くれぐれも、大事なバケツを落として壊さねぇでくれよ」とからかうように言っただけだった。 力自慢したい女性は別にいるんですけどね、と将人は頭の中で答えながら、今度はフレーク氷を調達するために製氷機のある納屋へ向かった。 歩きながら、将人はふとこの仕事が決まったときのことを思い出した――ミナモト水産は、これから通訳として関わることになる数々の会社の最初の一社に過ぎない、さまざまな業界をまたにかけて活躍する通訳になるための最初の踏み台に過ぎないと考えていたことを――。 だが、サマールにやってきてからというもの、将人の中で、自分も辰三のように、ブエナスエルテ社とってなくてはならない存在になりたい、サマールという地にこれからもずっと関わっていたい、と思う気持ちが日増しに強くなっている。とりわけ、ティサイに出会ってからのここ数日は、その感情は決意に近いものに変わっている。 しかしそうは言っても、将人には通訳以外、この会社に提供できるものはない。だからせめて氷を運ぶことで、自分も会社の一部になっていると感じたかった。 午後になって、将人は自分にもできる別の仕事を見つけた。刺すような日差しの下で、干し網の上にぎっしりと並んだ、しょうゆ漬けのヒラキと煮干に卵を産み付けようとするハエを、ヤシの枝を振って追い払う作業だ。干物を始めた当初は、アルバートやアルマンが手すきのときにやっていたのだが、ここのところはみなほかの仕事で忙しく、専属の誰かを配置するようなものでもないので、結局誰もやらなくなっていた。実のところ、焼けば食べても無害なものだから、取り込むときに、細長く黄色い卵のかたまりがないか目視して、あれば指で軽く払い落とす程度の処理で衛生上は十分だった。とはいっても、目玉の裏側や、エラの隙間など、奥まった部分に産み付けられた卵は、指で払ってもなかなか取り除けないこともあり、そういうヒラキは〈日本基準〉に合致しないため、廃棄処分か、住み込みの従業員たちのまかないになる。つまり在庫ロスとして計算されてしまうのだ。 つまり、暇な人間がいるのなら、ハエは追い払うに越したことはないわけで、その暇な人間が自分だと将人は気づいたのだ。 蛇口から出るぬるりとした青臭い地下水でタオルで濡らし、絞らないまま頭に巻いて、将人は干し網の上でヤシの枝を振った。サマールの直射日光を浴び、氷を運ぶのとは段違いに汗をかいて、飲んでも飲んでも喉が渇いたし、頭に巻きつけた濡れタオルも、あっという間に乾いてしまう。 だが将人はすがすがしい気分だった。ブエナスエルテ社の製品の製造に、わずかながら関わっている――ヤシの枝を振り続けながら、将人はそう思って微笑んだ。 一日の仕事を終え、加工場をあとにするアマリアの背中を、辰三はヤシの実をつま先で転がしながら、名残惜しそうに見送っていた。 彼女の姿がアジアンハイウェイの先に見えなくなったのを見届けると、辰三は冷蔵保存庫に入り、あと数杯を残すだけになった鮮魚入りのバケツを前に苦笑いした。 「痛めちまった魚もあったが、まさか初回で一トンを一週間でさばいちまうとはな」 「リンドンが明日、カルバヨグに行きますけど――」ライアンが、鮮魚の在庫数をノートに書き留めながら言った。「次は一トン以上、買ったほうがいいですか?」 辰三が首を振った。 「鮮度のことを考えると、むしろ一回の仕入れ量は減らして、買い付けの回数を増やした方がいい。それに、市場に揚がってくる魚種も鮮度も、毎日違うわけだからな、ひとくくりに考えねぇほうがいいんだ」 そのあと、リンドンも交えて、仕入れについて詳しい話し合いが行われた。前回買い付けた中でも、冷蔵状態で鮮度が落ちにくかったアジやカツオに似た魚種を優先して買い付けること、小イワシは鮮度の落ち方が激しいので以後は極力避けること、不漁で鮮度の悪い魚にも高い値がつくような場合には、無理して買わずに、ブエナペスカ社の養殖池からミルクフィッシュを買い取ってボーンレスを作ること――辰三がてきぱきと指示する。 サマールで七月は雨季のど真ん中、水揚げが一年で最も不安定な時期に、辰三から買い付けを学べるというのは、逆に運が良かったとリンドンは喜んでいた。 「それにしてもお前、今日はやけに働いたじゃねぇか。何かいいことでもあったのか?」 クリスが加工場の前でパジェロを方向転換させているとき、辰三がにやにやしながら将人に聞いてきた。 「辰三さんが加工に没頭してぜんぜん話さないから、通訳の僕は手持ち無沙汰だったんです」 「そんなこと言ったって、話すことがねぇときに黙ってんのは当たりまえだろ」辰三がげらげらと笑った。「でもよ、あんな感じで働いてるとこ見せりゃ、レックスがブエナスエルテの社員としてお前を雇ってくれるんじゃねぇか?」 「勘弁してくださいよ」 そう答えたあとで、それはそれで悪くない話だな、と将人は思った。 「いじゃねぇか、お前がここで雇われてくれりゃ、ミナモト水産が通訳を用意する必要がなくなるんだからよ」 辰三は何の含みもない口調でそう言って、下品な笑い声を上げた。 そのときふと、壮行会の帰り道で久保山が言っていたことを思い出した――「きみが関内さんに認められて、うちの会社が雇ったってことはだね、多分だけど、将来的にはうちの会社で働いてもらおうという考えが、社長や関内さんにあってのことだと僕は思うね」――。 もし〈ミツオカプロジェクト〉が、関内の言うとおり、ラグナ工業団地だけでなく、メトロマニラにも販売網を拡大するような成功を収めれば、ミナモト水産は英語が話せる社員が絶対に必要になる。そんなことは、久保山でなくとも、源社長も関内もとっくにわかっているはずだ。となると、辰三はとぼけたふりをしながら、実は将人が正社員として雇うに値するかどうかを、その働きぶりを見ながらじっくりと見極めているのだろうか――もしくは、将人を正社員で雇うなどという話は、久保山の勝手な思い込みに過ぎなかっただけか――。 「ブエナスエルテ社は、僕をいったいいくらで雇ってくれるんでしょうね」 ブエナスエルテ社に就職するのは、アレンに留まるための最良の選択だ。給料を度外視すればの話だが。 「ライアンに聞いてみりゃいいじゃねぇか」 将人が冗談交じりでライアンに聞くと「良くて月給七千ペソかな」と同じように冗談交じりで答えた。 「七千ペソっていうと、二万円ちょっとか。まあ、嫁さんもらっても、アレンじゃそれなりにやってける額じゃねぇか?」 言って、辰三が大笑いした。 将人も笑いながら、でもそれも悪くないな、と本気で感じた――電気もガスも水道もないニッパハウスだろうと、ティサイと一緒に暮らせるのなら、そこは天国に違いない――。 夕食を終えてシャワーを浴び、リビングで涼んだあと、将人は、「今日は疲れたんでもう寝ます」と辰三に告げてソファーから立ち上がった。まだ八時を少しまわったばかりだったが、ライアンもアルマンも、将人に続いて「じゃあ、僕たちも」と立ち上がった。すると辰三まで慌てて「おいおい、ばかに早いじゃねぇか」と言いながら、二階へ向う将人のあとを追いかけてきた。 部屋に入って数分待ってから電気を消した。続いて辰三の部屋からも、電気を消すスイッチの音が聞こえた。 それから五分もしないうちに辰三のいびきが聞こえてきたときには、将人は思わずベッドの上に立ち上がってガッツポーズをしていた。 しばらくして、部屋のドアがこするような音を立てて開いた。ライアンがそっと部屋に入ってくる。彼は壁に耳を押し付けて辰三のいびきを確かめると、にんまりと微笑んだ。 「ほらね、だから上手くいくって言っただろ」 将人たちが、早い時間にそろって部屋に引き上げたのは、辰三を早く寝かせるためにライアンが考えた作戦だったのだ。 「辰三さんがショウのあとを追いかけていったときには、笑いをこらえるのに必死だったよ」 言って、ライアンは口にあてがった両手の指の隙間からくすくすと笑い声を漏らした。 一緒に出かけるつもりだったらしいアルマンは、ライアンに「ショウの金でさんざん飲んだんだから、今夜はおとなしくしていてもらうよ」と釘を刺されて、社宅に留まることになった。音を立てないように玄関を抜けて社宅を出ると、表にはすでにパジェロが待機していた。 ハルディンに向う途中、ブエナスエルテ社に寄ってノノイを乗せた。今夜のボディガードは彼だ。 将人は、ティサイに会える緊張と興奮はもとより、こうしてライアンやノノイ、クリスと共に、夜な夜なアレンの町へ出かけられることに、体が震えるほどの嬉しさを感じていた。 夜のアジアンハイウェイは、その名にそぐわず真っ暗闇だった。クリスもノノイも、ライアンの前ではあまり口を開かないので、車の中には沈黙が漂っている。 闘鶏場だという建物を通り過ぎ、緩やかな右カーブを抜けると、アジアンハイウェイはメインストリートの南端と合流した。その交差点を社宅の方へ戻るかたちで右に折れて進む。 裸電球一つで暗闇に浮かび上がった〈ハルディン〉の小さな看板が見えてくる。 クリスは、ハルディンのすぐ手前で車を路肩に止めた。通行人は皆無で、町のうわさになる心配もないからだ。 「ノノイにペナルティを渡してあげて」 ライアンが言ったので、将人は慌てて二枚の百ペソ札を財布から抜き出した。ノノイは金を受け取ると、すぐさま車から飛び降りて、ハルディンの汚い庭の中へ駆け込んでいった。 本当に彼女は待っていてくれているだろうか――それとも、待ちくたびれて、もう別の客をとってしまっただろうか――。 将人の両手に、じっとりと汗がにじむ。 一分もしないうちに、ノノイがティサイを連れて姿を現した。ノノイも彼女と面識があるのか、親しげに話している。 ティサイが手を振ってきた。将人はわずかに手を上げながら微笑んでみたものの、急に照れくさくなり、思わず顔を伏せる。 「ショウ、後ろに座りなよ」ライアンが言った。「僕が助手席に移るから」 車を降りると、ティサイが駆け寄ってきて、力強く抱きついてきた。汗でわずかに湿った柔らかい頬が、将人の頬に張り付く。続けざま、彼女は将人の頬にキスをして、サンダル履きの足を見ながら、早口で話し出した。 「もらったパンプスをはいてこようとおもったけど、やっぱりもったいなくてやめたんだって」 ノノイが通訳した。 ティサイは、紺色のTシャツに白いミニスカートを履いていた。サンダル履きでも、ハイヒールを履いているのかと錯覚させられるほど脚が細く長い。これであのパンプスを履いたら、彼女の脚の前を素通りできる男など、地球上に存在しないのではないかとすら思える。 将人はティサイと手を取り合って後部座席に乗り込むと、ノノイはボディガードの特等席、荷物スペースに滑り込んだ。 「ハロー、ティサイ」 ライアンが助手席から満面の笑みで振り返った。ティサイもにこやかに挨拶を返しながら、将人に向けて、現地語で何か言った。 「今日は五時からハルディンにいて、ショウが来るのをずっと待ってたんだってさ」 ライアンが通訳した。 「遅くなってごめん」 彼女の大きな瞳に直視され、将人の心臓が大きく脈を打った。 「仕方がないさ、ショウは会社でも忙しいし、社宅に帰ってからも上司の世話で大変なんだよ。それでも、君を待たせてはしないかと、ずっと気にかけていたんだからね」 言いながら、ライアンは将人にウィンクして見せたが、肝心のティサイは英語がわからなかったらしく、きょとんとした表情で、首を傾げている。それに気付いたノノイが、荷物スペースから身を乗り出して、ティサイに、恐らく〈ワライ語〉で通訳した。 「あなたって、外見も頭も良いのね、感心するわ」 言うなり、ティサイは将人の手をさらにぎゅっと握って、胸にもたれかかった。大きな目を上目遣いにして、じっと将人の顔を見つめる。 「忙しいというか、僕は――」氷を運んで、ヤシの枝でハエを追い払っていただけだよ、とは言えなかった。「――まだ楽な方なんだ。他のみんなの方が、すごく大変で忙しいよ」 車はUターンすると、南へ向かって走り出した。タタイ・アナックとは逆方向だ。 ライアンは現地語で、からかうような口調でティサイに質問を浴びせていた。彼女が答えるたびに、その返答が面白いのか、クリスもノノイも笑い声を上げる。 現地語で交わされる会話を誰も通訳しようとしなかったが、ときおりティサイが、将人の顔をのぞきこんで、気遣うような視線を向けてくるので、将人は会話の内容などわからなくても、それだけで満たされる思いだった。 二十分以上走ってようやく、パジェロは速度を緩め、どこなのか見当もつかない海岸沿いの、円形の公園に乗り入れた。 「さあ、ここまで来れば誰の目も気にする必要はない。好きなだけ愛を語ってくれ」 助手席から降りるなり、ライアンが暗闇に響く大声で言った。 ティサイが「もちろんそうするわ」と返す。 「それで、ショウ――」ライアンは将人の腕を引っ張り、顔を寄せた。「今夜は彼女を抱くんだよね?」 「いや、そういうつもりじゃ――」 「まさか、今夜も話だけして返すつもり?」 「僕はそれで満足だよ」 ライアンは飽きれたように首を振って、もう一度将人の腕を取ると、ティサイに声が聞こえない距離まで引きずっていった。 「いいかい、彼女にだって、うちの会社の加工係たちと同じように生活があるんだよ。ハルディンから連れ出したはいいけど、話だけして帰すのは、今夜の彼女の稼ぎを奪ったのと同じなんだよ」 言われてみれば確かにその通りだ。 「わかった、わかったよ。それじゃ、抱くか抱かないかに関わらず、一回分の金を渡せばいいだろ?」 ライアンが首を大きく横に振った。 「金を渡すんなら、彼女を抱くんだ。クリスからそう聞いただろ?」 「聞いたよ、だけどそれじゃ、まるで彼女を娼婦扱いしたも同然じゃ――」 「娼婦なんだよ、彼女は」ライアンが口調を強めた。「ショウ、どれだけ美人でも、ティサイは娼婦なんだ。いいかい、君はフィリピンに来てからまだ一ヶ月も経ってない。おまけに、夜遊びに出かけたのは、今夜が三度目だ。君には、これからいくらでも、まともな女性に出会う機会がある。日本人で、ハンサムで、背も高くて、おまけに金持ちの君だから、良くも悪くも、この国では引く手あまたさ。ティサイは、この国の女遊びを学ぶための教材だと思えばいい。だから今夜は金を払って彼女を抱くこと。一回抱けば目が覚める。いいね?」 将人は、ティサイを抱くつもりはまったくなかったが、とりあえず頷いておくことにした。 「通訳はノノイがやってくれるから安心して」 「え? ライアンはどうするの?」 「君たちの邪魔になりそうだから、僕は彼女に会いに行ってくるよ。クリスは僕を彼女の家まで送っていくけど、すぐに戻るから。そしたら真っ直ぐモーテルに向うんだよ」 だったら始めからクリスとノノイを自分に預けて自由にさせてくれればよかったのに、と思いながらも、将人は「わかったよ」と微笑んだ。考えてみるまでもなく、臨時で雇われた通訳に過ぎない将人が、ブエナスエルテ社の車と運転手を自由に使えるなどと、そもそも期待するほうがおかしいのだ。 「じゃあ、思う存分楽しんでね」 そう言ったライアンの目つきが、どこか哀れんでいるような光を放っていたのを、将人は見逃さなかった。 電球一つない公園だったが、夜空を埋め尽くす星と、水銀灯のようにまぶしく輝く月の光で、影ができるほど明るかった。公園の真ん中には、長い丸太のベンチがあった。ティサイを真ん中に挟んで、将人とノノイが左右に座る。ノノイの英語はフィリピン人らしい訛りあるが、彼の通訳は驚くほど早かった。おまけに、通訳するときだけは、なぜか普段は使わないような、やたらと難しい文語調の単語ばかり使う。 「絶対にからかわれているんだろうな、って思ってた」ノノイの通訳を通して、ティサイが言った。「だってそうでしょ? 初めて会った夜、モーテルの部屋に入って、何もしないで帰った。二回目は、あんなすてきなパンプスを渡すだけ渡したら、さっさと帰った」 「ショウだって、いろいろと制約があって大変なんだよ」 そう言ってノノイがティサイを諭した。 「あなたは、本当に女に興味があるの?」 「僕はただ、君の顔を見られるだけで嬉しいんだ」 将人は思ったままを言った。 「私を口説いてるつもり?」 ティサイがいたずらっぽく微笑んだ。上唇から八重歯がちらりとのぞくその微笑みに、将人の心臓が肋骨の中で跳ね飛ぶ。 「ノノイ、この程度でも、フィリピンでは口説いてることになるの?」 照れくささから、将人はノノイに聞いた。 「うーん、まだ、たりないとおもうね」ノノイがくすくす笑った。「もっと、もっと、かのじょをほめてあげて、いいきぶんにさせないとね」 ティサイが腰に手を当てて、将人に向き直った。 「いいわよ、かかってきなさい」 「それじゃ遠慮なく」 将人は笑いながら、感じていることを素直に言葉にしていった――髪が柔らかくてきれいだ、その髪型がとても似合っている、細くて高い鼻が素敵だ、黒目の大きな目が可愛い、唇が完璧な形をしてる、とがった顎が彫刻のようだ、ウェストは片手でつかめそうなほど細い、それから――とんでもなく長くて細くて形の良い脚をしてる――。 「わかった、わかったから!」ティサイが降参するように両手を上げた。「もう十分だわ、ここ二、三年で言われたお世辞の合計の十倍ほどを、今夜だけで頂いたんだから」 「おれなら、もっともっと、つづけるよ」 ノノイが真顔で言った。それなら、とばかりに将人が口を開きかけたとき、その口がティサイの唇でふさがれた。 「ぼくは、どこかにいっていようか?」 ノノイがつぶやいた。 「いや、そこにい〈え〉くれ」 将人はキスしたまま言った。 それから三十秒ほどしてティサイはようやく唇を離し、将人の胸にもたれかかった。 「いや、むしろノノイにはいてもらわないと困るんだ。自制心を保てるか、自信がなくなってきてる」 静かな公園に、ノノイとティサイの大きな笑い声が響いた。 「ねえ、ショウ」ノノイの顔がわずかに鋭くなった。「きみはほんとうに、かのじょのことがすきなのか?」 「もちろんさ」 「あいしているのか?」 「ああ」 「かのじょが〈しょうふ〉でも?」 「関係ない」 将人は、普段なら答えに詰まるような質問の数々に、すべて即答している自分に驚いた。 娼婦でも関係ない、と本気で思っている自分にも――。 だったらなぜ、スナックで見ず知らずの男性客の〈話し相手〉を仕事にしているひとみを自分は軽蔑していたのか――そんな考えが、ふと頭をよぎる。 「きみは、ほんとうに、かわったにほんじんだな」 ノノイは、そのやりとりをティサイに通訳していなかったが、雰囲気で内容を感じ取ったのか――少なくとも、娼婦(Prostitute)という単語は聞き取っただろう――彼女は、将人の胸に顔をうずめたまま、口を挟むことなくおとなしくしている。 「僕もたった今、自分は変わった人間だなと改めて感じたよ」 将人はかぶりを振って、ひとみのことを頭から追い出した。 「もうすこし、かのじょのことを、しったほうがいいとおもう」 ライアンと違って、ノノイの口調には、ティサイを蔑むような響きはなかった。露骨な質問でも、将人のためを思って、率直に言っているのだと感じられる。 「例えばどんなこと?」 「まずは、ねんれいだよ。それから、けっこんしてるかしてないか。こどもがいるかいないか。こいびとがいるかいないか」 言われてみれば、まず確かめるのが当たり前のことばかりだった。しかし彼女の答えいかんでは、この夢のような時間が、ただの擬似恋愛として終わってしまうこともありえる。だからどうしても自分の口から聞くことが出来なかった。 「君が聞いてくれないか、僕が彼女について知らなければいけないと思う事柄のすべてについて」 将人はノノイに頼んだ。 ノノイはためらわず、ティサイに質問を浴びせていった。 質問の内容が気に触ったのか、彼女は、ときおり怒ったような表情を浮かべながらも、淡々と答えていった。やりとりはワライ語だったが、ティサイの表情を見て、彼女は質問に正直に答えている、と将人は感じた。 ひと区切りついたところで、ノノイが語り始めた。 ティサイの年齢は二十七歳。ハルディンでは、客の年齢に合わせて、上にさばをよむこともあるという。十代で結婚したが、今は合法的別居状態――これは離婚が許されないカトリック教国家ならではの制度で、実質的な離婚だそうだ――恋人はなし、子供は二人いて、上が八歳の息子、下が三歳の娘。娘とは一緒に住んでいるが、職業柄、八歳の息子と一緒に暮らすわけにはいかず、サンタ・マグダレナという、ルソン島南端の町に住む母親に預けているという。 ノノイも、実はサンタ・マグダレナの出身で、両親と妹が今もそこに住んでいるという。ハルディンから連れ出すときに、ティサイがその町の出身だとわかって、話が盛り上がったのだそうだ。サンタ・マグダレナは、サマールと同じで、ほとんどの人たちが、ワライ語を話すという。 「ショウ、かおいろがさえないぞ」 「あ、いや、そういうわけじゃなくて――」カルバヨグのセシルのことがあったから、半ば予想はしてはいたものの、いざ子供がいると聞かされると、やはり胸が突かれたように痛んだ。「――いろいろと大変なんだな、って思ってさ」 ティサイは、将人の胸に顔をうずめたまま、将人の短い髪に手を伸ばして撫でている。 「しょうふにとっては、めずらしいはなしじゃないさ。ふつうのフィリピンじんにとっても、めずらしいことじゃない」 こんな美人と別れる男は本物の間抜けだ――。 わずかに苛立ちを覚えながら、将人もティサイの髪をそっと撫でた。 「日本には、いつ帰るの?」 ティサイが聞いた。 「まだはっきりとはわからないけど、早ければ、八月に入ってすぐだと思う」 「またフィリピンに来るの?」 「うまくいけば、これから何度も――」 ティサイの顔がぱっと明るくなったのを見て、将人は思わず、うまくいかない場合は、と続けるつもりだった言葉を飲み込んでしまった。 「あなたは、結婚していないの?」 将人は首を振った。 「彼女は?」 また首を振る。 「もてるでしょ?」 大きく首を振った。 「今夜は何もせずに返したりしないでね」 将人は、縦にも横にも首を振ることができなかった。 ぎこちない沈黙が漂ったそのとき、パジェロが煌々とヘッドライトを輝かせて公園に乗り入れてきた。 「待たせたね、さあ乗った乗った!」 運転席の窓から顔を突き出したクリスの白い歯だけが、暗闇の中に浮かんで見えた。 「このまえのモーテルでいいかい?」 車を発進させるなり、クリスが聞いた。 「帰るよ」 将人は答えて、ティサイの手ぐっと握り締めた。 「うそだろ?」 助手席のノノイが、その体格に似つかわしくない、甲高い声を上げた。 「ティサイとたくさん話しができたし、会ったときから、こうやってずっと手を握ってる。これだけで、僕はもう最高に幸せなんだ」 「さっきのはなし、わかってくれたんじゃなかったの?」 「もちろんわかってる。でもね、もしこのままモーテルに押し込められても、僕は彼女を抱かない」言って、将人はくすんだ黄色の五百ペソ札を財布から取り出した。「ごめん、だけど、僕が本気だということを証明するためには、これ以外の方法が思いつかないんだ。抱いてしまえば、僕は客になってしまう。でも、彼女の仕事や収入をうばうようなこともしたくないから」 言って、将人は五百ペソ札をティサイに握らせようとしたが、彼女はそれを押し返してきた。 「わたしは今夜、商売をしに来たわけじゃない」 車内がしんと静まり返った。 聞こえてくるのは、エンジンと、エアコンが吐き出す冷風の音だけ――。 「ごめん、そんなつもりじゃ――」 将人はティサイを抱きしめた。ティサイは、将人の胸に顔を深くうずめた。 ハルディンの手前でパジェロが止まると、ティサイは将人からそっと体を離し、にっこりと微笑んだ。 「今夜はもう仕事しないで帰るわ。こんな時間じゃ、もう客も来ないだろうし」 何か気の利いた言葉をかけようと思ったが、将人は、ぎこちなく微笑み返すのが精一杯だった。 ティサイに続いて車を降り、ノノイと一緒に、ハルディンの前まで送っていった。そしてきつく抱擁してから、深く、長いキスを交わした。 「おやすみ」 将人は微笑んだ。 「おやすみ」 ティサイが背伸びして、将人の頭を撫でた。 彼女がハルディンの中に消えていくのを、将人は胸を締め付けられる思いで見送った。 ブエナスエルテ社に戻る車中で、ノノイは「きみはやっぱり、いかれてるよ」と何度も繰り返した。だがその言葉とは裏腹に、ノノイの顔には、将人を称えるような笑みが浮かんでいた。 社宅の前にパジェロが止まってようやく、将人は自分の体が小刻みに震えていることに気付いた。 「僕は恋に落ちたんだろうか?」将人は小刻みに震えている腕をクリスにかざして見せた。「わかってるよ、大人の君から見れば、今の僕はさぞかし青臭い若造に見るだろうね」 クリスは真顔で首を横に振った。 「そんなふうに思い切り誰かを好きになれるのは、一生のうちで何度もないって、私くらいの年齢になると、とても良くわかる。だから今は自分の気持ちに正直に行動すればいいさ」 「そうだね」将人は微笑んだ。「今夜はとても眠れそうにないよ」 「だったらここにいればいい。エアコンも効いてるし」クリスがやさしく笑った。「ちょうど私も暇なんだ。ライアンを迎えに行くのが明け方だから」 それから日付が変わる少し前まで、将人は車に留まってクリスと語らった。 クリスは、ティサイと知り合ってからもう二年ほどになるが、彼女があんなに男に甘えているのを今まで見たことがない、それが演技だとはとても思えない、と熱心に語っていた。ただし、日本からやってきた、長身でハンサムの金持ちが、たった三日でアレンの娼婦に本気で惚れるとは、ティサイもにわかには信じないだろう、と釘を刺すことも忘れなかった。 「彼女、五百ペソ受け取らなかったでしょ? あんなこと、まともな頭の娼婦なら冗談でもやらないよ」 言って、クリスは大笑いした。 その五百ペソを、右手のこぶしの中にずっと握り締めたままだったことに将人が気付いたのは、社宅の部屋に戻ったあとだった。 次へ トップへ |