『橋の下の彼女』(37)1999年7月21日(水)フィリピン・アレン 朝から降り出した雨はさらに雨脚を強めていた。ビー球のような雨粒が、横殴りの強風にあおられて、加工場を水浸しにしている。屋根と地面が割れるような轟音を放ち、頬が触れるほど顔を近づけなければ話もできないほどだった。 そんな中、辰三は薄ら笑いさえ浮かべながら、とり憑かれたように黙々と出刃を動かしている。吹き込んでくる雨のせいで、顔も髪もTシャツもびしょ濡れ、鮮魚をさばく手元には小さな水たまりができている。アマリアがいなくなったにもかかわらず、梱包係たちから一番遠いテーブルを使っていた。同じテーブルで作業しているのは、トトひとりだけだ。 将人は、今朝一番で逃げるように養殖池に戻って行ったジョエルを呪いたい気分だった。 「お前ら、雨だからってのろくさやってねぇで、もっとテキパキと動けや! 濡れたって死ぬわけじゃねぇだろ!」 辰三は顔を上げると、もう何度目になるか、ドスのきいた声でそう叫んだ。 「魚は水で洗うと味が落ちるって言ってましたよね? だったら、こんなに濡らしてしまったら良くないと思うんですが」 作業開始から困惑させられっぱなしのリンドンが、いよいよ辰三に言い返した。 「うるせぇんだよ、ど素人が知ったような口きくんじゃねぇ!」 もはや辰三が完全に理性を失ってしまったのは、誰の目にも明らかだった。つい先日までは気さくで面倒見のよかった辰三のこの突然の変貌には、加工係たちも相当戸惑っている様子だ。しかし彼らにその原因がわかるはずもなく、とにかくこれ以上機嫌を損ねては大変だとばかりに、ずぶ濡れになるのもかまわず、必死に出刃を動かしている。クリスティ、イザベラ、ティナの三人も、Tシャツ越しに下着が見えてしまうほどびしょ濡れだったが、足早にテーブルをまわってヒラキを集めている。 傘を差したライアンが小走りに加工場へ駆け込んできた。 「タツミさん、ご機嫌ななめだね」 「ななめなんてもんじゃないよ」将人は辰三の背中を見つめた。久しぶりに、ミナモト水産のロゴが入ったTシャツを着ている。「まんまとアマリアに騙されただけでも体裁が悪いのに、裏で僕たちも一枚噛んでいたことを知ったんだ。辰三さんが激怒するのも当然だね。でも正直なところ、いくら事情が事情だとは言っても、辰三さんがああいう態度を取る人間だったってことには、心底がっかりさせられたよ」 「どういうこと?」 ライアンが首を傾げた。 「辰三さんは、仮にもミナモト水産の常務取締役でしょ。そんな地位にある人が、まるで子供みたいに理性をなくしてしまってる。平社員だったら首になってもおかしくない状況だよ。親族会社で地位が守られるっていう甘えがあるとしか思えない」 ミナモト水産では、社長に次ぐ地位でありながら、おごり高ぶることなく、現場仕事こそ命、といわんばかりに、自ら出刃を持って作業する辰三だからこそ、将人は尊敬し、他の似たような地位にある威張りくさるだけが能のような中年たちには感じたことのない親しみを感じていた。確かに、壮行会の帰り道に久保山がほのめかしたように、辰三が役員職に就けたのは親族会社ゆえだと思ってはいたが、いざとなれば、その地位にふさわしい人間性を発揮して、困難を乗り切る器量のある人だと将人は信じていた。 だが、昨日からのあまりに感情的で粗暴な態度に、将人はすっかり失望し、さらにそこを通り越して、今では怒りすら感じ始めていた。それが次第に、辰三個人に対する感情から、血縁や財力で社会的地位が決まってしまう世の中全体に対する憤りに膨らんでいる。自分の両親も、勤め先の会社で、こんな類の経営者たちの懐を肥やすために、安い給料で働かされているのかと思うと、将人はやりきれない思いだった。 「そういえば、父さんが前に言ってたんだ。ミナモト社長はビジネスマンだけど、タツミさんは少し違うようだ、ってね」 ライアンが腕組みした。 「さすがにレックスは鋭いね」将人は頷いた。「昨日からの辰三さんの言葉遣いや態度は、まるでヤクザみたいなんだよ」 言いながら、将人はなんだか、辰三が資本主義のもたらす矛盾の象徴のようにすら思えてきた。 汗水流して働く平社員がもたらした余剰価値を資本家たちが掠め取る――資本家階級は、その地位にふさわしい人間性と、その高額の報酬にふさわしい実力を常に備えているわけではないと、さまざまなアルバイトに明け暮れた学生時代に、将人は身をもって思い知らされた。誰もが資本家になれるわけではない。そこには学歴や財力やコネなどの縛りが必ず存在し、階級間の多少の移動は可能だとしても、既得権益は強固に守られている。政治家や公務員ですらそうなのだ。そういう意味では、日本もある種の階級社会だと言えなくもない。 そして今、将人が目の当たりにしている辰三の振る舞いは、営業のサラリーマンが、外まわりの途中で公園に寄って昼寝しているのとはまるで次元が違う話だった。一企業の常務取締役――その地位と収入を維持できるのは末端の従業員たちの余剰価値を搾取しているからだ――が、やくざまがいの乱暴な言葉遣いで、職務放棄の一歩手前をさまよっているのだ。 〈万年〉常務取締役でけっこう、と辰三は言った。だがそれは同時に、常務取締役という地位が、経営者の血縁であるという理由だけで、〈万年〉保障されていると思っている証拠だ。果たして本人がそれに気付いているかどうかはわからないが。 そもそも将人が社会人になることを拒み、フリーランスの通訳で独立しようと考えるようになったのは、そんな社会的矛盾に実力を持って抵抗したい、という思いがあったからだ。毎日夜八時、ときには九時過ぎまで、残業手当のつかない無給奉仕をして帰ってくる両親の疲れた顔が目に浮かぶ。 将人の中で、社会的矛盾に対する怒りが、久しぶりにその巨大な鎌首をぐいと引き起こした――今後、ミナモト水産から正社員採用の話があったとしても、自分はそれを受け入れるべきだろうか――関内や辰三のような人間の下で働くことが、人生において果たして正しい決断なのだろうか――正社員になれば、日々の生活に飲み込まれて、そんな疑問を持っていたことすら忘れてしまうのではないだろうか――。 「ショウ、大丈夫?」 ライアンに肩を揺さぶられて、将人ははっと我に返った。 「あ、ごめん。学生時代に読んだ本のことを思い出してて」 大学の図書館で、友人を笑わせようと冗談半分に借りた後、結局最後まで読み切った〈資本論〉のことだとは言わなかった。 「父さんなら、きっとタツミさんをうまくなだめてくれると思うんだ。だけどこの雨じゃ、飛行機が飛ぶかどうか――」 「飛行機が飛ばないと、代わりにブエナスエルテ社がどこかへ飛んでしまうかもれないよ」 将人は大真面目に言ったつもりだったが、ライアンは冗談と取ったらしく、くすくすと笑った。 辰三が仮にすべてを放り出して帰国したとしても、ミナモト水産を首になることなどあろうはずがなく、むしろ何のお咎めもなしで終わる公算が高い。ただ、辰三が昨日、ミナモト水産に電話をかけることができなかったのは、まだ心に迷いがあるからだろうと将人は感じていた。辰三に期待してこの任務を与えてくれた会長、つまり実父の期待を裏切りたくない、という気持ちは相当大きいに違いない。 レックスならば、そのあたりを上手く突いて、辰三を説得してくれるかもしれないと将人は思った。 昼食を取りに社宅へ戻るころには、雨は小ぶりになり、空もわずかに明るくなった。ただ、ライアンがマカティのオフィスへ電話したところ、マニラ周辺ではまた豪雨が降り続いているということだった。レックスはすでに空港で待機しているが、飛行機が飛ぶという連絡はまだ入っていないという。 社宅には、大家の友人たちがいつにも増して多く出入りしており、庭やリビングやダイニングやら、そこらじゅうを自分の家のように歩きまわっていた。少し前までは、将人たちが仕事で出ているあいだだけに限って、大家は友人を招き入れていたようだが、ここのことろ、その線引きがかなりあいまいになっている。祭りが始まったこともあってか、ここ数日は、将人たちが戻ってきても、話がひと段落するまでダイニングテーブルから離れないことも多い。おまけに、彼らは菓子皿やコーヒーカップを、ブエナスエルテ社が雇っているサンに片付けさせるという厚顔ぶりだった。 玄関を入ってすぐ、大家の友人の一人とすれ違った辰三が、いきなり食って掛かった。 「おいお前、俺の部屋で何か盗んできたんじゃねぇだろうな?」 辰三の笑みの意味を誤解した男は、挨拶でもされたと思ったらしく、微笑み返している。 「へらへらしてんじゃねぇ!」辰三の怒鳴り声で、社宅の壁が揺れた。「こんど社宅の中をうろつきやがったら、ぶっ殺すからな!」 リビングの椅子にのんびり腰掛けていた大家が、慌てて駆け寄ってきた。 アルマンが辰三に抱きつくようにして、「タツミさん、ソーリー、ソーリー」となだめながらリビングのソファーに座らせた。ライアンは大家をダイニングの奥へ連れて行くと、厳しい口調で抗議を始めた。 怪訝な顔を向けていた大家に向けて、辰三は「たたき出すぞこのマヌケ」と大声で怒鳴った。日本語だったが、その口調から侮辱されたとわかったのか、大家は目を見開いて、同じように怒鳴り返しながら辰三に近づいてきた。慌ててアルマンがあいだに割って入り、大家に抱き付いて、無理やり社宅の外へ連れ出していった。 社宅がぎこちない静けさに包まれた。 ソファーでふんぞり返っている辰三に、ライアンが深々と頭を下げた。 「すみませんタツミさん、僕らが会社に行っているあいだ、友人を招きいれていいと許可したのは僕なんです。その分、家賃を少し割り引いてくれるというので――」 タバコに火をつけた辰三は、頷きもしなかった。 大家を外に連れ出したアルマンがひとりで戻ってきた。顔がこわばっている。 「タツミさん、これからは関係者以外誰も社宅には入れないと大家に約束させましたから、安心してください」 辰三は、返事の代わりとでも言うように、煙を乱暴に吹き出した。 午後二時を過ぎて、ようやく雨が上がった。辰三は出刃を置いて加工場の外に出ると、まぶしい太陽を見上げ、魚のうろこやはらわたで汚れたままの手で、寝癖の直らない髪を神経質に何度もかきむしった。 「おい、衛星電話準備しろ!」 辰三が将人に怒鳴った。 「どちらにかけます?」 「ミナモト水産だよ。俺が帰るって話、昨日のうちに関内さんから伝わったはずだからな」 辰三が昨日ミナモト水産に電話をしなかったのは、心に葛藤があったからではなく、直接は言いにくいから、関内を通して間接的に伝わることを期待してのことだったようだ。 昨日と同じ位置で将人は衛星電話を広げた。接続が上手くいかないことを半ば期待していたが、衛星は簡単に捕まった。 ライアンが怪訝な顔で将人の隣に座った。 「タツミさん、どこに電話するの?」 「ミナモト水産だよ。昨日はミナモト水産にだけ電話をかけなかったから、日本に帰るというのはそれほど本気じゃなくて、ただの脅しかなと思ってたけど、どうも僕の勘違いだったみたいだ。それより、レックスの飛行機はどうなってるの?」 「マニラ空港にも問い合わせてみたけど、まだ搭乗開始してないって。カタルマン空港の方は、滑走路が水浸しで、まるで池のようなありさまだって」 まいったな、と将人は額の汗を拭いながら、受話音量を最大に設定すると、コンテナの日影でタバコをふかしている辰三に頷きかけ、接続が完了したことを伝えた。 そそくさと歩み寄ってくると、辰三は暗記しているミナモト水産の電話番号をすらすらと押した。 将人はライアンを脇へ引っ張って、呼び出し音が漏れ聞こえるぎりぎりの、少し離れた位置に立った。 受話器の音量の大きさに顔をしかめながら、辰三がミナモト水産の誰かと話し始めた。将人は、そのやり取りを聞き取れる範囲で、ライアンに小声で通訳した。 『ミナモト水産でございます』 「ああ、俺、辰三だ、社長いる?」 『ごぶさたしております』女性の声。『少しお待ちください』 保留音のあと、源社長の太い声が響いた。 『おう辰三か、ずいぶんと連絡よこさないから、心配してたんだぞ』 兄弟だけあって、受話器越しでも、声質が似ているのがわかる。 「関内さんから聞いただろ?」 『何のことだ? あの人も、ここのところまるで連絡をよこさないよ。きっと上手くやってる証拠だなって、みんなで話してたとこだ』 「え? じゃあ聞いてねぇのか?」 『聞くって何を? 関内さんからは、お前がフィリピンに無事到着したって電話が一本あったきりだよ』 「なんてこった」 辰三が舌打ちした。 『女遊びの話なら、なにもわざわざ衛星電話ですることもないだろ』 「あんたらと一緒にしてもらっちゃこまる。いやな、実はよ――」 『あ、ちょっと待って、今、清新設備の山本が来てるんだ。リーファーコンテナの具合を聞きたいっていうから、かわるぞ』 「おい、もっと大事な話があるんだって――」 『どうも! 辰三さんお元気っすか? 山本っすよ、ごぶさたでーす』 山本の軽い声に、辰三の顔が歪んだ。 「何だお前、暇さえありゃ、うちの会社で油売ってんだな」 『ちょっと、そんな言いぐさはないっしょ。今しがた、ミナモト水産のでっかい冷凍庫の定期点検が終わって汗まみれだったから、冷房の効いた事務所で冷たいお茶をいただいてたとこっすよ。それより、そっちのデカブツは、上手く動いてくれてます?』 「おう、リーファーコンテナは二台とも順調で、霜取りの間隔も、こっちの気温と湿度に合わせて調整したから問題ねぇよ。製氷機もばっちり動いてるし」 『そりゃよかったっす。てまひまかけて運んだ機材だから、本番で不具合がでたらどうしようって、心配でたまらなかったっす。それで、ブエナスエルテ社のほうはどうです?』 「おう、全て順調よ。こっちの連中ときたら、みんな真面目で覚えが早くてな。サンパブロへの一回目の出荷も終わったし、まだ完璧とはいわねぇが、製品の出来にはけっこう満足してんだ」 『さすが辰三さんだ! 仕事なんてそっちのけ、女のことばっか考えてる斉藤社長とは大違いですね』 意外にも辰三は声を上げて笑った。 「ばかやろう、あんなスケベ野郎と一緒にするんじゃねぇよ」 『はいはい、すみません。土産話、楽しみにしてますから。それじゃ、社長にかわりますね。くれぐれも元気でやってくださいよ』 電話の相手が替わった。 『それで、大事な話ってなんだ?』 源社長の声。 「いや、その――」辰三が口ごもった。笑みが消え、むっとした顔に戻る。「俺さ、もう戻ろうかと思ってんだよ」 『サンパブロへか?』 「日本へだよ」 『ブエナスエルテ社はそんなに順調なのか? そりゃいい、なにせ辰三のことだから、現地の連中が十分に上達するまで、何ヶ月でも何年でも戻ってこないんじゃないかって、みんな心配してたんだよ』 電話越しに、源社長の大笑いが響いてきた。 「いや、まあ、その――」辰三は従業員たちが黙々と加工を続ける加工場を一瞥すると、わずかに表情を緩めた。「――順調だよ、そう、すこぶる順調だ。もう教えなくても自分らでどんどんやるから、俺もやることなくて、一緒になって魚さばいてるくれぇだ」 『そうか、よくやったな、辰三。それで、関内さんがどうとかいう話は、帰りの予定のことか?』 「そうだよ。フィリピンから日本までの航空券を手配すんのは、ミナモト水産じゃなくて、関内さんの仕事なんだろ?」 「ああ、そういう話になってるよ。それで、関内さんはお前が帰国することを承知したのか?」 「それがよ、ああだこうだ言って、上手くはぐらかされちまったよ」 源社長の唸る声が聞こえた。 『きっと、お前がサマールから戻ったら、また長々とサンパブロに引き止めるつもりなんだろう。わかった、サマールにいるお前が関内さんと連絡を取るのも何かと難しいだろうから、こっちから、航空券の手配も合わせて、はっきりとした帰国日を決めるようにと催促しておくよ。できるだけ早い方がいいだろ?』 「ああ、帰れるもんなら、今日の夜でもかまわねぇぜ」 『さすがにそいつは無理だが、できる限りのことはやってみよう。そうそう、そういえば昨日、会長がここに来たんだが、お前のこと、ずいぶん気にしてたな。お前も昔はさんざん親に苦労かけたけど、今度のプロジェクトで、まとまった恩返しができそうじゃないか』 辰三の顔が引きつった。 「あ、ああ、そうだよ、その通りだよ。とりあえず、もう切るからな」 受話器が置かれた。辰三は衛星電話の前に座ってうなだれたまま、しばらく動かなかった。 午後四時ころ、電話交換所から戻ってきたライアンが、レックスの乗るはずだった飛行機が欠航になったと将人に伝えた。 将人は思わず頭を抱えて座り込んだ。 その夜。 気苦労が相当に応えているらしく、ライアンもアルマンも、夕食を取り終わると、そうそうに部屋にこもってしまった。 ダイニングで将人と二人きりになっても、辰三は部屋に戻らず、思い詰めたような顔でジョニードラムを飲み続けた。 「お前にこんなこというのもなんだけどさ、なんというか、俺はもう疲れちまったな」 将人は黙って頷いた。 「みんな表向きにはよ、俺が〈ミツオカプロジェクト〉を任された、みてぇに言ってるけどよ、本当はそうじゃねぇってこと、お前もうっすらと気付いてるだろ?」 将人はあいまいに頷いてから、言った。 「でも、生まれて初めて出刃を持ったフィリピン人たちを、こんなに短いあいだで、立派な加工係に育て上げたし、製品だってかなりのものが出来上がったじゃないですか。ブエナスエルテ社の製品がなければ、関内さんはAMPミナモトで調理も販売もできないんですよ。〈ミツオカプロジェクト〉の成功の鍵は、辰三さんが握っているんです」 その責任をもっと感じてください、と将人は心の中で続けた。 辰三は頷かずに、グラスをあおった。 「うちの社長。関内さん。レックス。〈ミツオカプロジェクト〉を実際に動かしてるのはこの三人で、俺じゃねぇんだよ。俺はな、清新設備の山本と同じで、現場の仕事をしてるだけ、代わりはいくらでもいる」 「でも――」 「お情けなんだよ。常務なんて肩書きもらってるけどな、俺は現場以外には関わったことがねぇ。頭が悪いから、関内さんとレックスがやりとりしてる経営の話なんか、まるでちんぷんかんぷんだし、そもそも聞く気がおきねぇよ。こっちに来たばっかのとき、お前に怒鳴ったことあっただろ。ありゃ、朝から晩まで数字の話ばっかしてる関内さんにな、かなりいらついてたってこともあったんだ。今さらだけど、あんときは悪かったな」 将人は、通訳しなかった僕が悪かったんです、と首を振った。 「俺が現場でしか役に立たねぇ人間だってことはよ、ミナモト水産に関わってる連中ならみんな知ってんだ。経営がわからねぇ、学ぶ気もねぇ人間が、どうやったらこんなでけぇプロジェクトを取り仕切れるってんだ? しょせんは茶番なんだよ。誰でもできることを、あえて俺にしかできねぇように見せかけた茶番さ。頭を使う仕事は別の誰かがやって、俺は主役になったつもりでいるが、ひとりじゃ何にもできねぇのさ。ちょうど俺とお前の関係に似てるよ。お前がいなきゃ、加工係の連中と俺は、まともに話もできねぇんだから――」 そこで言葉を切ると、辰三は空になったグラスを何度かすすり、続きを話さないまま、もう寝る、と言って部屋に戻っていった。 ひとりになった将人がリビングのソファーにたたずんでいると、クリスがこっそりと社宅に入ってきた。今夜もティサイとノーラを探しに行ってくれたのだ。 いつものようにいたずらっぽい笑みを浮かべると、クリスは将人の隣に腰を下ろした。 「どうだった?」 将人は期待をこめて聞いた。 「だめだったよ、見つからなかった」 「ノーラも?」 クリスが首を振った。 「それにしてもノーラまでいなくなってしまうなんて、いったい何がどうなってるんだ? クリス、君は彼女のボーイフレンドなんだろ?」 クリスは腕組みをして口をすぼめた。 「ノーラが間借りしている家の家主に聞いたんだけど、彼女は、一週間ほど旅行にいく、と言って出ていったらしい。だけど観光旅行に出かける余裕はないはずだから、きっと両親や親戚のところに行くという意味で言ったんだと思うけど」 「ティサイが彼女と一緒ってことはありえると思う?」 「そう、私もそうかもしれないなって考えていたところなんだ。それに、思い当たるふしもあるんだよ。実は、まだショウに話してないことがあって、それと関係してるんだけど――」 「まさか君が裏でティサイとつながっていて、僕から金を吸い取るだけ吸い取ろうとしているって話が実は本当だ、なんて頼むから白状しないでくれよ」 クリスはぶるぶると首を振った。 「実はね、私がノーラに〈あること〉を言ったんだ。もしかすると、二人が消えた原因はそれかもしれない」 「こんなときに遠まわしな言い方はやめてくれよ」 「ああ、すまない。君がティサイを娼婦から更生させて、新しい人生を始める手助けをするって決めてから、私の中に、ノーラも一緒にそうさせてあげたい、って気持ちがあってね。わかってくれるだろ?」 もちろん、将人にはクリスの気持ちがわかった。ただ、彼には妻子がいるのだが。 「だから私はノーラに言ったんだ、『これからティサイの人生はショウによって変わる。だから君も、彼女のあとについていきなさい』って」 「ちょっと待ってくれ、言っておくけど、日本に帰れば僕は金持ちじゃない。むしろ貧乏だぞ。いくらノーラが君の彼女だとはいえ、ティサイとノーラの二人に加えて、彼女たちの子供まで養うだけの金はとても工面できないよ」 「わかってる、わかってる。誤解しないでほしいんだけど、これはティサイのためにもなると思って言ったことなんだ。いいかい、彼女たちは何年もの長いあいだ、娼婦を続けてきたんだ。確かに辛い仕事だけど、一晩で五百ペソという大金を稼げるというのも事実だ。そんな彼女たちが、一日八時間働いて百五十ペソしか得られないような仕事になじむのは、簡単ではないと思うんだよ、特に一人っきりではね。寂しいとき、辛いときは、また娼婦に戻ろうか、と考えてしまうかもしれない。だから、君が日本に帰って、ティサイに毎月の生活費を送り始めたら、ちょっと広めのニッパハウスでも借りて、ティサイとノーラを一緒に住まわせたらどうかって思ってるんだ。二人は娼婦だったわけだし、だからこそ気の許せる親友でもある。一緒に住んでいれば、心が折れそうになったときでも、お互い励まし合うことができる。それに将来的には、そのニッパハウスで小さなサリサリでも始めさせればいいと思うんだ」 彼女たちが元娼婦だとは誰も知らない、遠く離れた町で、ティサイとノーラがサリサリを営む光景がありありと目に浮かんだ。クリスの言うとおり、ティサイを一人にしておけば、何かのきっかけで、また元の道へ戻ってしまわないとも限らない。日本へ帰ったあと、将人とティサイのあいだを取り次ぐ役目は、英語の堪能なクリスか、英語はいまいちだが絶対の信頼がおけるノノイしかいないと、将人もちょうど考えていたところだった。 「すばらしいアイデアだと思う。だけど実はね、ブエナスエルテ社がティサイを雇うって話があるんだ、アマリアの代わりに」 クリスが苦笑いした。 「知ってるよ、ライアンが言ったんだよね。でも私はそれが現実になるとはとても思えない。ショウはそういう点に関して、少し楽観的過ぎる。あの加工場でティサイが働き始めれば、みんなはきっと、ショウのコネで雇われたとやっかむだろう。彼女がみんなに暖かく迎えてもらえるなんて、夢にも思わないほうがいい。きっと他の従業員たちと上手くいかず、辛くなって、一週間もしないうちに辞めることになる。そうなるのがわかってるからこそ、ライアンは彼女を雇うと言ったのさ」 クリスの口からこうもはっきりと言い切られて、将人は目が覚める思いだった。楽観的過ぎるとは実に的を得た言いようだ。確かに、いくら陽気で気さくな従業員たちでも、採用試験も経ずにある日ひょっこり雇われた娼婦のティサイを、職場の仲間としてすんなり受け入れるとは考えにくい。例え従業員たちと上手くいったとしても、リンドンやライアンのさじ加減で、彼女が辞めたいと思うような状況はいくらでも作り出すことができる。ましてや、次回の辰三の訪問で、通訳が不要とされたり、もしくは将人以外の通訳が雇われることになったら、彼らはティサイを何のためらいもなく解雇するだろう。 将人は大きくため息をついた。 「僕が甘かったな。彼女をブエナスエルテ社で働かせるという考えはあきらめざるをえないか。わかった、金銭面の具体的な話は別に考えるとして、僕はティサイとノーラを一緒に住まわせて、サリサリを営ませるという君の提案には大賛成だよ」 クリスが歯をむき出しにして微笑んだ。将人がティサイにしたように、クリスもノーラをハルディンから救い出せるのだから、嬉しくないはずがない。 「そうだ、ショウはプレステ持ってる?」 「あるけど、それがどうかした?」 「フィリピンじゃ、今はスーパーファミコンが最先端で、マニラあたりの金持ちならそこそこ持ってるんだけど、さすがにプレステはめったにお目にかかれない。でも日本ではプレステなんて普通に買えるんだろ? どうかな、彼女たちのサリサリにプレステとテレビを置いて、一回十ペソで子供たちにプレイさせるんだ。きっと朝から晩までひっきりなしに子供たちがやってくる。ひょっとすると大人たちも。一日にたった十プレイでも百ぺソになる。かなりの稼ぎが期待できると思うよ」 将人はクリスの両肩をつかんだ。 「そいつは素晴らしいアイデアだね。ゲームをやりに来た子供たちがサリサリで菓子やジュースを買うっていう相乗効果も期待できる。なんか僕の子供の頃に、そんな駄菓子屋がよくあったっけな。わかった、プレステのことも考えてみる」 昭和を彷彿させるような駄菓子屋で、順番を争う子供たちをやさしくなだめるティサイを思い浮かべて、将人は微笑まずにはいられなかった。そんなサリサリなら住み込みで一緒に働きたいほどだ。だが、とにもかくにも、金の都合をつけなければ始まらない。それは帰国後の将人いかんにかかっている。 クリスも将人の肩をつかんだ。 「ここで最初の話に戻るけど、だからティサイとノーラは、サリサリのできそうな家を、どこか遠くの町まで探しに行ってるんじゃないかって思うんだ。彼女たち、ちょっとおっちょこちょいなところがあるから、君や私に何も告げずにね」 そうであって欲しいと願いながら、将人は頷いた。 「彼女たちを信じよう。ただ、僕に残された時間はますます少なくなってる。辰三さんが本当に帰国準備を整えてしまったら、数日後にはサンパブロに戻ることになる。ティサイがそれまでに見つからなければ、サリサリの話どころか、さよならすら言えなくなってしまうよ」 「ああ、アマリアのことが原因なんだろ。もう従業員のあいだでうわさになってるよ。騙されて金を巻き上げられたショックで、日本に帰るって言い出したってさ」 やれやれ、と将人は首を振った。突然のアマリア解雇と、辰三のあの態度をつき合わせて考えれば、勘のいい人間なら何が起きたかを推測するのはそう難しいことではない。 「でもレックスなら、辰三さんを説得できるかもしれない」 将人の言葉に、そうだね、とクリスが大きく頷いた。 「彼は人の心をつかむ達人だからね。明日の飛行機が飛ぶか心配だけど、天気予報では、晴れか曇りでときおりまたは長々と雨かスコール、って言ってたから、たぶん大丈夫だよ」 「天気予報ってのは、どこの国でも同じようなことをいうんだな」 いっそのこと、このまま毎日大雨が続いてくれればいいのに――そうなれば、マニラからサマールへの飛行機だけでなく、サマールからマニラへの飛行機も飛ぶことはないのだから――。 将人は本気でそう願っていた。 次へ トップへ |