『橋の下の彼女』(40)-3露店の列の最後尾を抜けると、ちょうどタタイ・アナックの前だった。Gショックを見ると十二時三十分を過ぎていた。将人は喉が渇いていたし、ノノイも昼食がまだだろうと思い、「ちょっとタタイ・アナックで涼もうか」と誘った。 昼食時とあって、客席は半分ほど埋まっていた。もしかしたらティサイがすでに来ていて、ノーラとおしゃべりに花を咲かせているかもしれないと期待してフロアを見回したが、約束の時間まではまだ一時間以上あり、さすがに彼女たちの姿はなかった。イボンをねらったというあの二人組の姿もない。 午前中に顔を合わせたばかりのウェイトレスが案内にやってくると、将人は「外の席にしてくれる?」と頼んだ。フロアから出てすぐの、ひさしの日陰になっている席に通された。 「今日は船の席は閉鎖だね」 ノノイが言った。晴れ渡った空とは対照的に海は荒く、タタイ・アナック号の船首は、デッキの中央あたりまで波をかぶっている。そこへ下る階段には赤いロープが渡され、〈閉鎖中〉と書かれた板がくくりつけられていた。 「かまわないさ。最初にタタイ・アナック号へ乗船するときは、ティサイと一緒だと決めてるからね」 将人が言うと、ノノイがにこやかに頷いた。 「今夜は雨になるかもしれない」南に広がる灰色の空を眺めながらノノイは言った。「この海の荒れ方からすると、カルバヨグの方は、もうふってるかもしれないな」 将人はウェイトレスにアイスティーとハンバーガーを注文した。 「君も何でも好きなだけ頼んでいいよ、おごるから」 「いや、ぼくは腹がへっていないから」 「おいおい、僕を相手に遠慮はよしてくれよ。買い物に付き合ってもらったし、こうして君と僕が二人だけで食事することなんてめったにないんだ、悔いの残らないようたらふく食べてよ」 ノノイは笑って、それもそうだね、と頷いた。 「この会社ではたらきだしてから、日本人と顔をあわせることはあっても、口をきくことはなかったんだ。まさか、年の近い通訳がやってきて、下品なじょうだんを言いあったり、恋愛のそうだんをしたり、昼飯をおごってもらうことになるなんてね、想像もしなかった」 言いながら、ノノイはハンバーガーを一つ、カラマーレを一皿、コーラを一本、ウェイトレスに注文した。遠慮しているのは明らかだったので、将人は「今の彼の注文をすべて二倍にして」とウェイトレスに告げた。 ノノイは驚いた顔で目を見開いてから、にっこりと微笑んだ。 「なんといったら言いか、その、ありがとう。ほんとうのことをいうと、かなり腹がへってるんだ」 「そんなとこだろうと思った」将人は笑った。「いや、礼を言うのは僕の方だよ。今日はいろいろと話してくれてありがとう。サマールに来て、君と出会えたことを、僕は神に感謝してる」 僕もさ、とノノイが手の平を将人に向けた。将人も手の平を掲げ、パチンとたたき合わせた。 「例えばの話だけどね、もし僕がミナモト水産とは関係なく、一人の旅行者としてアレンにやってきたとしても、君は、僕のことを友人として助けてくれるかい?」 ずっと聞こうと思っていたことを、将人は聞いた。 「つまり、この昼食はそのわいろってことか」ノノイは笑った。「――というのは冗談さ。あたりまえだよ、きみとぼくはもう親友じゃないか。親友はね、フィリピン人がときとして命より大切にするものなんだ。きみがだれに雇われていようと、いまいと、関係ない。いつだって、きみのボディガードは、ぼくなのさ」 聞いた途端、目に涙がにじんできた。将人は辺りを見回すふりをして目頭を指でぬぐった。二十五年間の人生で、こんなことを言う友達が今までいただろうか――。 「だけどなぜだい? これからもタツミさんはブエナスエルテ社にくるんだろ? それとも、もうフィリピンなんてこりごりなの?」 そんなわけないだろ、と将人は冗談めかしてノノイの肩をたたいた。しかし内心では、これから起こり得るさまざまな可能性を考えたとき、ミナモト水産の通訳として将人が再びアレンに戻って来られる確率はかなり低いと思っていた。レックスから託される関内の資金不正流用疑惑に関する証拠資料を源社長に渡すことができたとしても、もし社長が関内のやったことを不問にすると決めれば――事なかれ主義の日本企業、それも親族会社なら大いにありえる話だ――将人は〈立ち入りすぎた邪魔者〉として、〈ミツオカプロジェクト〉から排除されることになるだろう。結果、関内は不正流用、もしくは投資詐欺という罪に対して、ミナモト水産から免罪符を与られたも同然となり、今度は仕返しとばかりに、今まで以上にレックスをねじ伏せ、AMPミナモトによるブエナスエルテ社の植民地化を一段と進めるはずだ。 レックスは「投資家たちの決定を受け入れる」と言っていたが、ときには犯罪さえも見逃してしまう日本人の事なかれ主義を、彼は本当に理解しているだろうかと考えて、将人はたまらなく不安になった。 一時になる頃には、追加のまた追加で、二人でハンバーガーを十個も平らげていた。将人はウェイトレスを呼び、ノノイを介して事情を説明した。 「ティサイが来たら、彼女の飲食代はこれで払ってくれ。つりが出たら君のチップにしてくれればいい」五百ペソを差し出しながら将人が言うと、ウェイトレスは目を瞬いて驚きながら頷いた。「それから、もし何時間も待たせるようなことになったり、彼女がしびれを切らしてしまうようなら、〈アンジェラズ・イン〉で休んでいるよう伝えてくれ」 言って、将人はモーテルの場所と部屋をメモして彼女に渡した。 二人で二百ペソほどの昼食を終えてタタイ・アナックを出て、再び露天の間を歩いた。途中、将人はジーンスを専門に売っている露店で立ち止まり、ノノイに言った。 「君が好きなやつを一本、選んでよ」 「サイズはいくつだい?」 ノノイはジーンズの山をかき分けながら聞いた。 「君は自分のサイズを知らないのか?」 ノノイはあっけに取られたような顔で将人を見返してきた。 「ぼくのサイズだって?」 彼は将人のためにジーンズを選んでいたらしい。 「そうに決まってるだろ、君のジーンズを買うんだよ。僕はもともとジーンズが好きじゃないんだ」 「本当に?」 彼は子供のような笑みを輝かせて〈八十ペソ〉と書かれた山に手を突っ込み、自分のサイズを探し始めた。 「ノノイ、君は僕たちの友情を、八十ペソの価値しかないと思ってるのか?」 そういうわけじゃないけどさ、とノノイがジーンズの山からそっと手を引き抜いた。 「君のようなハンサムにふさわしいのは、奥の壁にかかってる、ああいうやつだと思うけどね」 将人は、奥の壁にこれみよがしに吊り下げられている<五百ペソ>の値札の貼りついたリーバイスのジーンズを指差した。 「ショウ、値札にかいてある数字は見えてるんだろうね? とても受け取れる値段じゃないよ」 いくらフィリピンの物価が安いといっても、本物のリーバイスのジーンズが五百ペソで買えるはずがないのは、将人にもわかっていた。だがそれはたいした問題ではなかった。アレンで買える最高のジーンズを、ノノイに買ってあげたいのだ。 「だったら、君が受け取ってもいいと思う値段まで値切ったらいいじゃないか」 確かにそうだ、とノノイが大笑いした。 「あれを見せてくれ」 店主に向けて、ノノイは誇らしげに言った。 「これを買うのか?」 店主は二、三度目をパチクリさせてから、慌てて鉤爪のついた竿を取り出し、ノノイにサイズを聞きながら、壁に掛かっているジーンズの何本かを台の上に降ろした。 そのうちの二本が、ノノイにちょうど良いサイズだった。 「どっちがいい?」 色違いの二本の五〇一を前に、ノノイが満面の笑みを浮かべながら聞いた。将人がウォッシュの強くかかっている方を指差すと、ノノイはそれを手に取り、店主とさっそく値段交渉を始めた。 数分後、五百ペソのジーンズは半額になっていた。 「こんなに安くなるんだったら、二本とも買うべきだったんだよ」 店をあとにしてから、将人は半ば本気で言った。 ジーンスの入ったビニール袋を、胸の前で宝物のように抱えているノノイは、微笑みながら首を振った。 「一本だけのほうがいいんだ。だって、デートのまえに、どっちをはこうか悩まずにすむだろ」 数歩歩くたびに、ビニールの中を覗き込んでは、ノノイは子供のように無邪気な顔で微笑みかけてくる。 彼に微笑み返しながら、いつかティサイにもこんな顔をさせてみたいと、将人は強く思った。 ブエナスエルテ社に着くなり、ジーンズの入ったビニール袋を大事そうに抱えていたノノイは、目ざとい従業員たちにさっそく取り囲まれた。ノノイが誇らしげに袋からジーンズを取り出して、リーバイスのロゴが見えるように掲げると、従業員たちから拍手が沸き起こった。ロゴの部分を代わる代わる指先で突いたり撫でたりする彼らを、ノノイがたしなめている。 二百五十ペソの贈り物でノノイにここまで喜んでもらえたことに満足して将人がひとり頷いていると、ライアンが繕ったような笑みを浮かべて近づいてきた。 「買い物は楽しんだ?」 ライアンの視線が、将人が手にしているビニール袋に移る。 「ああ、妹へのみやげを買ったよ。それより、そろそろ鮮魚が到着してもいい時間だから、辰三さんをモーテルへ迎えに行かないとね。クリスを借りていい?」 ライアンはビニール袋から視線をはずし、訝しげな顔で将人を見つめた。 「ああ、僕も一緒に行くよ」 言うだろうと思っていたことを、ライアンは言った。将人は、辰三を迎えに行くのを口実に、ライアンの目の届かないところで、クリスと二人で話がしたかった。昨晩のモーテルでの一件について、クリスから聞きたいことが山ほどあるのだ。 しかしそんな将人の考えを、ライアンはすっかり見抜いているようだ。 将人とライアンがパジェロに乗り込もうとしたとき、レックスがライアンを呼び止めた。 「ショウは一人で大丈夫だ、どこへ行くにも何をするにも、お前がいちいち付き添うことはない」 ライアンの顔が引きつった。 「だけどタツミさんとセシルの通訳をしないと――」 「クリスがやればいい」 ライアンはしばし、あまり穏やかには聞こえないタガログ語でレックスに抗議を続けたが、やがて開いたドアにかけたままだった手をしぶしぶ離した。彼は運転席のクリスに歩み寄ると、釘を刺すような口調で「くれぐれもショウを頼むよ」と英語で言った。 クリスはむすっとした顔で、顔を前に向けたまま小さく頷いた。 パジェロはアジアンハイウェイを南に進んだ。この道路が舗装されているのに、アレンのメインストリートが穴だらけで未舗装だということを、今さらながら不思議に感じる。 サイドミラーの中で、ブエナスエルテ社がカーブの先に見えなくなった途端、クリスが口を開いた。 「ショウ、こんなことを君に話したのがばれたら私は間違いなく首になるだろうが――」そこでクリスが深呼吸した。「――君に真実を伝えることを選ぶよ」 そのとき、一羽の鶏が道路に飛び出してきた。クリスはブレーキをぐっと踏み込み、驚いた鶏が羽根をばたつかせながら道を引き返して路肩に消えるまで待ってから、パジェロを発進させた。 「昨日のライアンはひどい通訳をしていた。全部がでたらめとは言わないけど、ほとんどはでたらめだった」 モーテルで、涙を流しながら必死で何かを訴えようとしていたティサイの顔が浮かぶ。将人の胸に、槍で突かれたような痛みが走る。 「私が何度か口を挟んで、ライアンが怒鳴って、そのあと、私は部屋を飛び出してしまった。そう、逃げたようなものだね。でも耐え難かったんだよ、ライアンがあまりにひどいことをティサイに言うものだから。悪かったと思ってる。じっと我慢して、あそこに留まって、どんな会話が交わされたのか、すべて聞き届けるべきだった」 将人は首を振った。 「ライアンのことはどうでもいい。それよりティサイはその――」将人は唾を飲み込んだ。「――僕のことを愛していないと、本当に言ったのか?」 何よりもまず、将人はそれを確かめておきたかった。 初めて彼女と結ばれた時、深い愛情なしには決して起こりえないと言いきれるほどはっきりとした、体を通した心のつながりを、将人は確かに感じ取っていたのだ。ティサイが自分に対してまるっきり何の感情も抱いていないとは到底思えない。 「冗談じゃない!」クリスの大声で、将人はびくりと跳び上がった。「彼女は『私はショウのことを心から愛してる』って何度も言ったんだ! それなのにライアンのやつ――」 クリスはハンドルに拳を思い切り叩きつけた。クラクションが鳴って、今度は道端にいた子供たちが跳び上がった。 「ティサイが――そんなことを言ってくれたなんて――」 彼女への思いが胸の中でいっそう大きな炎を上げて燃え出した。同時に、たとえ現地語だとはいえ、そんな大事な言葉も理解できない自分を、将人は情けなく思った。 子供たちに手を上げて謝っていたクリスが、助手席の将人に向き直った。 「言わないわけがないだろ、本当に愛してるんだから。だいいち、そんなことは誰より君が一番わかってるはずじゃないか」 言われてみればその通りだ。ライアンがどんな通訳をしようと、二人の心は結ばれている――言葉の壁を越えて、心も体も、固く結ばれているのだ。 クリスが続ける。 「あの部屋で、ライアンはティサイに向けて、ひどい言葉を何度も言った。僕は彼に殴りかかりたい気持ちをこらえるのに必死だった。でも彼女はずっと落ち着いて受け答えしていたんだ。きっと、言葉の通じない君のまえだからこそ、へたに取り乱して誤解を与えないようにって頑張っていたんだと思う。でもね、『お前の娘もさぞかしいい娼婦になるだろうよ』とまで言われて、さすがに彼女も我慢できなかったんだろう、それでも僕が聞いているあいだ、ティサイが声を荒げたのは、そのときの一回だけさ」 闘鶏場が見えてきた。クリスは必要以上に車をゆっくりと走らせている。 将人は大きくため息をついた。 「いくらワライ語もタガログ語もわからないとはいえ、昨日あの部屋で、僕はライアンの言うことを真に受けて、ときとして一緒になって彼女を責めようという気になっていた。君の目からは、さぞかし間抜けに見えただろうね」 将人は、握り締めた拳を自分の膝にたたきつけた。 「君が自分を責めれば、本当に責められるべき人間をむしろ喜ばせることになる。くれぐれも、責める相手を間違ってはいけない」 車がモーテルの駐車場に入った。将人はすぐに車から降りず、クリスに、伝言少年がライアンによって毎日ティサイの家へ遣わされていたこと、そして昨晩、彼女に「ハルディンで将人を待て」という伝言がされていたことを話した。 「何てやつだ」 クリスがハンドルに拳をたたきつけた。再びクラクションが鳴った。 その音で、四十代前半に見える女性が、モーテルの外付け階段の下にしつらえた、小さなカフェテリアから顔をのぞかせた。クリスは顔見知りのようで、彼女に向けてにこやかに手を上げた。彼女も手を振り返している。 「そういえば以前、ティサイがこの近くの食堂で、『いい客を捕まえた』とかなんとか吹聴していたと、シャイメリーが会社までわざわざ告げ口に来たそうだね。その話だって怪しいもんだよ、シャイメリーがショウに惚れていることを考えればなおさらだ。もしかすると、ライアンと結託して、ショウの気をティサイから離そうと企んだのかもしれない」 車を降り、将人はクリスのあとに続いてカフェテリアに入った。カフェテリアとは言っても、小さなテーブル二つと、椅子が四つあるだけだった。〈チェックインカウンター〉と手書きで書かれた演壇のようなテーブルが隅にあり、そのまわりの壁には、伝表やメモがいたるところに画鋲で止められている。どうやら、ここはモーテルのフロントも兼ねているようだ。 クリスが女性を将人に紹介した。モーテルのオーナーで、名前はアンジェラと言った。 「あなたのうわさはよく聞いてるわ」 アンジェラは微笑んだ。 将人は照れ笑いを返しながら、「もしティサイが訪ねてきたら、部屋で待たせてあげてください」とアンジェラに頼んだ。 彼女はティサイを知っているようで、「彼女の話し相手になってあげる」と言ってくれた。 「ありがとう。おっと、あともうひとつだけ、お願いがあるんですけど」 将人は抱えていたビニール袋から三枚のTシャツを取り出し、グリーンをセシルに、残りの二枚をティサイに渡してくれとアンジェラに頼んだ。セシルに直接渡さないのは、カルバヨグでの一件を知らない辰三に変に勘ぐられないためだ。 「お安いご用だけど、次は私にも何か買ってくれるんでしょうね?」 もちろんです、と将人が言うと、彼女は、冗談よ、と微笑んだ。 彼女の話し方やしぐさのひとつひとつが妙に艶かしかった。女手ひとつでモーテルを経営しているようだし、もしかすると彼女も昔、娼婦だったのかもしれないと、将人は勝手な想像をめぐらせた。 辰三の部屋をそっとノックすると、出てきたのはセシルだった。シャワーを浴びたばかりらしく、それほど長くないタオルを一枚、体の前にあてがっているだけで、背中から尻まで丸見えだった。 「ハイ、ショウ」 「ハイ、セシル。君にプレゼントを買ったんだ。あとで、カフェテリアにいる女の人と話してみて」 彼女が頷くと、タオルの隙間から小さな胸があらわになった。 「ありがとう」 将人は彼女の顔より下に視線がいかないように努めながら、「気に入ってもらえるといいけど」とぎこちなく微笑んだ。 入りますよ、と将人が部屋に顔を突っ込むと、辰三はダブルサイズのベッドに横たわり、満足げな顔でタバコをふかしていた。 「そろそろ鮮魚が到着してもいい時間になったんで、迎えに来ました」 将人が言うと、辰三はにやけた顔で頷いた。 「おう、支度するから、ちょっと待ってろ」 口と鼻から煙を立ち上らせながら、辰三は全裸のままベッドから起き上がった。床に脱ぎ散らかした服を、セシルが一枚一枚拾い上げて、辰三に着せていく。股間をさらけ出した辰三にセシルがパンツを履かせている光景は見るに耐え難く、将人はドアを閉めて、逃げるようにパジェロに戻った。 パジェロが走り出すと、辰三は新しいタバコに火をつけた。 「いい女だろ?」 煙をはき出しながら、辰三が自慢げに言った。この期に及んでもシャワーを浴びなかったようで、相変わらず酸っぱい体臭を漂わせていたが、わずかに香る女物のシャンプーのにおいが、それを少しだけ和らげていた。 「ゆるゆるのアマリアさんとは大違いで、しまりがいいのなんのって――」 そこまで言って、辰三はむせ返るように大笑いを始めた。 シャワーくらい浴びてくださいよ、と言いたい気持ちを、将人はぐっとこらえて苦笑いした。 ブエナスエルテ社に戻った時には午後二時をまわっていたが、鮮魚はまだ到着していなかった。見れば、いつのまにか空がどんより暗くなっている。灰色の雲は厚く、低いところをゆったりと漂っている。大雨になる前兆だ。 「豪雨になるかもしれないな」 将人が車を降りると、レックスが隣にやってきて、ぼそりと言った。 辰三はレックスに駆け寄り、いきなり抱擁を浴びせた。 「ガール、ビューティフル、セックス、グッド!」 「どうやら、タツミさんはセシルがとても気に入ったようですね」 レックスは驚いたような笑みを浮かべた。 「イエス、イエス!」 辰三はにこやかに親指を突き上げると、加工場の隅にあったヤシの実のサッカーボールでドリブルを始めた。 それから十分も経たないうちに、やはり大雨が降り出した。 ブノンがずぶ濡れになりながら、納屋からガーデンテーブルセットを運んできて、廃車のジープニーの脇にセットした。左右と後ろの壁が天井まで届いたとは言っても、正面は吹き抜けなので、その位置でないと横殴りの雨が吹き込んでくるのだ。 将人たちがテーブルに座ると、ブノンがバナナを持ってきた。普段ならアルバートがやる雑用を、今日はブノンがこなしている。ここ何日かはアルバートが冷凍庫の仕事をしていたから、週末の雑用は代わりにブノンがやる、という取り決めがあったという。 めかしこんで出かけたアルバートが濡れていなければいいけど、と思いながら、将人はふと、イボンとトトの姿がどこにも見えないことに気付いて、急に心配になった。 午後三時を過ぎた。雨は小降りになってきたが、鮮魚を積んだトラックはまだ現れない。 「遅いですね」 コーラをすすりながら、アルマンがつぶやいた。 それまで空ばかり見ていたレックスが、辰三に向き直った。 「マブラットのコテージがキャンセルできるのは四時までです。ぎりぎりまで待ってみますが、もしリンドンがそれまでに到着しないようなら、残念ですが旅行は中止ということでお願いします」 辰三が身を乗り出した。 「俺たちだけで先に行くことはできねぇのか? リンドンだって、そのへんはわかってくれるだろ、こんだけ遅れたんだからよ」 将人以外、誰も頷かなかった。この雨では、アジアンハイウェイの舗装路でも、二十キロも出せないだろう。リンドンどうこうという問題ではなかった。 トラックが到着しないまま、時計が四時を指した。 ライアンとアルマンは、三十分ほど前に、コテージのキャンセルの電話をかけに出ていったが、寄り道でもしているのか、まだ戻ってきていない。 将人はティサイのことが気がかりで仕方なかった。彼女が二時にタタイ・アナックに来ていたとすれば、もう三時間近くも待たせていることになる。例えノーラが一緒だとしても、待つには長すぎる時間だ。もし時間を持て余してしまい、ウェイトレスに残した伝言どおり、〈アンジェラズ・イン〉に行ったのだとしても、将人が来るまで、ティサイがさらにあと何時間も部屋で待っていてくれるとは思えなかった。 「こんなことになるような予感がしてたんだよな」 半ばふてくされたように、辰三が言った。 「本当に申し訳ありません」レックスが頭を下げた。「この埋め合わせといっては何ですが、サンパブロに戻るのに、あえて飛行機を使わないというのはどうでしょう?」 「何だって?」 辰三に続いて、将人も驚いて身を乗り出した。 「陸路ですよ。サンパブロまで、パジェロで送っていきます。途中、マヨン山のあるレガスピや、ビーチリゾートで有名なバタンガスに泊まって、二泊三日くらいの予定にすれば、楽しい旅行になりますよ」 「しかしそんなこと、関内さんが許すとは思えねぇが」 「許そうと許すまいと、車で出発してしまえばこっちのものです。タツミさんをサンパブロに留め置いた仕返し、というわけではないですけどね」 レックスはおどけるように笑い、辰三も一緒になって笑った。 魅力的な提案だったが、陸路に三日使うくらいなら、アレンに留まって、より長い時間をティサイと一緒に過ごしたい、と将人は思った。 「そうだ、ショウ――」辰三が思い出したように手をたたき合わせた。「セシルに夕飯持ってってやってくれねぇか」 確かに、夜の早いサマールでは、もう夕食をとってもおかしくない時間だ。 「ほら、あの船のかっこうした店で、ハンバーガーと、イカのフライでも買って、届けてやってくれ。あ、そうだそうだ、飲み物も忘れんなよ」言って、辰三は財布から千ペソ札を抜き出した。「それから、もし待ってるのが退屈だったら、祭りでも見に行ってこいってな、釣りを小遣い代わりに渡してやってくれ」 将人は、わかりました、と札を受け取るなり立ち上がった。ティサイがタタイ・アナックかモーテルのどちらにいようとも、とりあえずは旅行が中止になったことを告げて、待たせたことを謝ることが出来る。それから、「週末を一緒にモーテルで過ごして欲しい」と言うつもりだった。 レックスに事情を説明して、将人はクリスと共に、これで今日三度目になるタタイ・アナックへと向った。 もうすっかり顔なじみになったタタイ・アナックのウェイトレスが、将人に気付くなり、ティサイはすでにモーテルに向った、と伝えてきた。彼女はティサイの飲食代の釣りを載せたトレイを差し出してきたので、約束どおり、それをチップとして渡し返した。 「こんなにいいの?」 将人が頷くと、ウェイトレスは驚いたことに強い抱擁を浴びせてきた。 レシートを見ると、ティサイはたった六十ペソしか使っていなかった。飲み物を二杯ほど頼んだだけのようだ。ウェイトレスの抱擁は高くついたな、と将人は苦笑いしながら、ハンバーガーとカラマーレを二つずつ、コーラとサンミゲルを五本ずつ頼んだ。 「あなたのせいで、明日の分のハンバーガーまで売り切ってしまったのよ」 注文の入った袋を差し出すとき、ウェイトレスはそう言って微笑み、もう一度抱擁を浴びせてきた。 モーテルに向う車の中で、将人はクリスに言った。 「そういえば、レックスがサンパブロまで陸路で僕たちを陸路で送り届けると言い出したよ」 クリスは心底うんざりした顔で首を振った。 「行きは楽しいだろうが、帰りは苦痛だな」 その通りだね、と将人は苦笑いした。その長い道のりをクリスは一人で運転するのだ。 アンジェラズ・インに着き、セシルに夕食を手渡した。 「Tシャツ、ありがとう、とっても素敵だわ」彼女は、まだバスタオルを一枚素肌に巻きつけているだけだった。「よかったら、中に入って少し話さない?」 クリスが通訳できるので、彼女をカルバヨグから辰三のために連れてくることになったいきさつを詳しく説明する良い機会だと思ったが、それよりも将人は、二階の自分の部屋にいるはずのティサイのところに一秒でも早く駆けつけたかった。 「ごめん、すぐに会社に戻らないといけなんだ」 彼女は一瞬だけがっかりしたような顔をしたが、すぐ笑顔に戻って「いいのよ、気にしないで」と頷いた。 「それから、旅行はキャンセルになったんだ。もしここで待っているのが退屈なら、祭りでも見に行ってくれと辰三さんが言っていたよ。はい、これはお小遣いだって。まあ、あいにくこの雨だけどね」 セシルが部屋のドアを閉じるまで待ってから、将人は二階に続く階段を全速力で駆け上がった。 将人の部屋から、明かりが漏れている。 そっと鍵を差し込んで、扉を開けた。 ティサイがいた。ベッドの上で、エメラルドグリーンのパンプスと、ブルーのナイキのTシャツ、それに白いミニスカートを身につけ、静かに寝息を立てている。 彼女が待っていてくれた、と将人は床にへたり込みそうになるほどの安堵を覚えた。 つんと上を向いた細い鼻先、薄いのにふっくらとした唇、すっと長い眉毛と大きなまぶた――部屋から漏れていた明かりは、彼女から放たれていたのではないかと思うほど、美しい寝顔だった。 「ティサイ?」 将人は呼びかけたが、彼女は目を覚まさない。 テーブルの上に夕食の入った袋を置くと、将人はティサイの頬にそっと口づけし、部屋を静かに抜け出した。 下に降りると、クリスとアンジェラが顔を寄せ合って話していた。大雨のせいで、そうでもしないとお互いの声が聞こえないのだ。 「ティサイが来てるそうだね」 クリスが言った。 「ああ、きれいな顔して寝ていたよ」 将人はアンジェラに、旅行が中止になったこと、その代わりに今夜はここで一緒に過ごしたいとティサイに伝えてくれるよう頼んで、余分に買ってきたサンミゲルとコーラを二本ずつ、彼女に渡した。 「あら、私には飲み物だけ?」 いたずらっぽく、アンジェラが笑った。今もなかなかの美人だが、若いころはかなりの美人だったんだろうな、と将人はその笑みを見ながら感じた。 「タタイ・アナックではこれしか買えなかったんだよ。ウェイトレスの服をはぎ取って、プレゼントにしようかとも考えたんだけどね」 将人が言うと、彼女は声を上げて笑った。 ブエナスエルテ社に戻ったが、トラックはまだ着いていなかった。 濡れた短髪をタオルで拭いながら、将人は加工場のガーデンテーブルに腰を下ろした。 「あの子はどうだった?」 辰三が聞いた。 大丈夫ですよ、と将人が頷くと、辰三は満足そうにタバコの煙をはきだしながら、ぼんやりと宙を眺めた。 何だかアマリアに夢中になっていたころのしぐさと似ているな、と将人は思った。 しばらくして、電話をかけに行っていたライアンとアルマンが戻ってくるなり、悪い冗談のように雨がぴたりと止んだ。太陽が再び顔を出し、夕暮れだというのに、地面からはむっとするほどの湿気が立ち昇ってくる。 「リンドンからはまだ何の連絡もないんですか?」 将人はレックスに聞た。 「コテージのキャンセルの電話をするついでに、ライアンがカルバヨグの漁業組合長に連絡したんだが、リンドンはもう市場のあたりにはいないということだ。もう出発したんだろう。今朝、私たちが向こうを出てすぐに雨になったというから、トラックの手配に相当手間取ったに違いない」 ライアンとアルマンは、リーファーコンテナの周辺の、コンクリートの地面にできた水たまりを次から次へと踏みつけ、お互いに水しぶきを飛ばし合って遊んでいた。二人の顔つきはどことなく、旅行が中止になったことを喜んでいるかのように見えた。 七時ぴったりに、社宅から夕食が運ばれてきた。 ゆっくりと時間をかけて夕食を取り、ゆっくりと晩酌をしながら、サンパブロに陸路を使うことがどれだけ素晴らしい旅になるかを、もう何度目か、レックスが雄弁に語っているとき、薄暗いアジアンハイウェイの遠くから、普段は耳にしないような、くすぶったエンジン音が響いてきた。みな、一斉に道のほうに駆け寄る。ライトが一つしかないので、将人は最初、それがトライシクルの明かりだと思った。しかし、近づいてくるにしたがって、それは片方のヘッドライトしか点灯していない、ひどく汚れたトラックであることが見て取れるようになった。 助手席に座るリンドンが、窓から身を乗り出して手を振っている。 「鮮魚が来たぞ!」 レックスが声を上げた。 それまでぐったりしていた従業員たちが、息を吹き返したように立ち上がり、リーファーコンテナのプラットフォームに駆け寄っていく。 錆びた金属の擦れあう音を響かせて、トラックがブエナスエルテ社に入ってきた。ゆっくりバックして、プラットフォームに横付けする。ネジを一本緩めれば全てが分解しそうなほど、古く傷んだトラックだった。 クリスはパジェロを見張り小屋の前まで持ってきて、ヘッドライトをハイビームで点灯させた。 コンテナの中に鮮魚を搬入する従業員たちの姿が、薄暗い景色の中に浮かび上がる。魚のうろこを含んだ水がこぼれて流れ落ち、ライトの光にきらきらと反射する。レンタルの衣装を防寒着に換えたアルバートの姿も、プラットフォームの上に見えていた。 重いバケツが引きずられる音と、こぼれた水がコンクリートの地面に打ちつけられる音が響く。 見るからに疲れた顔をしているリンドンは、それでも従業員たちに大声で指示を飛ばしていた。意味もなくホイッスルさえ吹いている。普段は三十代前半にしか見えない彼も、今夜ばかりは年相応に見えた。 普段の半分ほどの量ということもあって、鮮魚の搬入は十分もかからずに終わった。しかし時間はもう九時を過ぎていた。雨上がりの夜空は澄んでいて、まともに見れば瞳孔が痛むほどまぶしい星々が輝いていた。 モーテルに戻ると、辰三は明かりのついている自分の部屋を見てにやりとした。 「おっと、セシルちゃんはまた起きてるみてえだな。さて、それじゃもうひと頑張りしちゃおうかな」 駐車場に入ったときから、将人は自分の部屋に明かりがともっていないのに気付いていた。 ボディガードとして、ノノイではなくイボンが、モーテルのカフェテリアで寝ずの番をすることになった。今日の午後、イボンはトトを連れて町中、刺客たちを探しまわったが、見つからなかったという。 鉄柵に囲まれた社宅ではなく、薄いドア一枚のモーテルの部屋ということもあって、レックスは、ヌンチャクを武器にするノノイではなく、より殺傷能力の高い武器を扱えるイボンにボディガードを任せることにしたのだ。今夜のイボンは、普段ならバタフライナイフをしのばせているショートパンツの腰ゴムの下に、ところどころサビの浮いた、だがよく手入れされている小型のリボルバーを挟んでいた。 パジェロを降りると、辰三は「それでは、おやすみ、諸君!」と関内のようなことを言って、足早に部屋に戻っていった。 将人は二階へ続く階段を上がると、部屋のドアに静かに鍵を差し込み、明かりを消して熟睡しているティサイがそこにいてくれと願いながら、そっとドアノブをまわした。 部屋のベッドは空だった。 一階に戻り、カフェテリアに行った。イボンが不思議そうな顔で将人を見た。 「どうした?」 「ティサイがいないんだ。夕方にはここにいたんだけど。帰ったのかな」 「ティサイ、いない? ちょっと、まって」 将人が頷くと、イボンは携帯電話か何かかのようにぶっきいらぼうにリボルバーをチェックインカウンターの上に置くと、まるで自分の家かのようにフロントの周辺をごそごそと探り始めた。 アンジェラは住み込みでないらしく、姿は見えなかった。そもそも、二十四時間スタッフの待機しているフロントデスクなど、アレンで期待できるはずがない。 「ショウ、ティサイからのメッセージ、あった!」 イボンが、掲示板に使っているらしい、薄いコルクの板から、画鋲で止められた一枚の紙切れを取り上げた。英語で書かれていた。他のメモと字が似ていたから、アンジェラの代筆だと思えた。 〈夕食と、それから素敵なTシャツをありがとう。またお腹がすいてきたから、一度家に帰るわ。あとでまた来るから――ショウへ、ティサイより〉 もっとたくさんハンバーガーを買っておけば良かった、と将人は考えて、それが見当違いだと気付く。彼女が帰ったのは、待ちくたびれたからだ。 将人はGショックを見た。バックライトを点灯させると、もう十時を過ぎていた。 また来る、という彼女の言葉が、今夜のことなのか、明日のことなのかはわからなかったが、もちろん将人は今夜だと思いたくて、待つことにした。 それからしばらく、真っ暗なカフェテリアで、イボンといろんな話をして過ごした。彼の英語はお世辞にも上手いとはいえなかったが、それでも話していくうちに、彼独特の単語の使い方などがわかってきて、少ない語彙でも十分に意思疎通ができるようになった。 話が弾んでくると、イボンは将人を質問攻めにした。家族の話題から、学生時代、留学時代、そしてミナモト水産に雇われる経緯まで――。 将人は逆に、イボンのギャング時代のこと、マニラでヒットマンをやったときのこと――走っている車から、歩道を歩いているターゲットを狙い撃つことにかけては、一流だったそうだ――バタフライナイフの扱い方やリボルバーの打ち方まで、聞きたいことは片っ端から聞いた。 話の中で、イボンが実は結婚していて、五歳の子供がいると知った。それを聞いて、なぜ彼のような荒くれ者が、ブエナスエルテ社の冷凍庫で、防寒服を着込んで真面目に働いているのか、将人は理解できた気がした。 一時間以上経って、話題が女の好みやセックスに至るころには、将人はイボンとすっかり意気投合していた。 「君がこんなに愉快な人だとは思わなかったよ」 将人が言うと、イボンはサルそのものの顔で微笑んだ。 「わたしも、にほんじん、こんなふうに、はなせる、おもわなかった。ショウも、タツミさんも、いいひとだよ」 どちらから差し出したわけでもなく、二人は固い握手を交わしていた。 深夜一時になっても、ティサイは現れなかった。 「イボン、お願いがあるんだ」 「なに? アルフォンソを、しまつするきになったか?」 「冗談はよしてくれ」将人はあわてて手を振った。「今から、ティサイの家を見てきてもらうことはできる?」 「こんなじかんに、どうするつもり?」 その通りだな、と将人は思った。もし彼女が家にいたら、起こして連れてきて欲しい、と言うつもりだった自分が、とんでもない間抜けに思えた。 「いや、なんでもない。忘れてくれ」 「だいじょうぶ」イボンが将人の肩に手を掛けた。「もうすこし、まってみよう」 イボンとて、もう今夜はティサイが来ないことくらいわかっているだろう。 「ありがとう」 将人は微笑んだ。 ふと、中学生のころ、好きな女子の家に告白の電話をかけるため、親友を連れ添って近くの公衆電話まで行きながら、何時間もかけられずにいたときのことを思い出した。ようやくダイヤルをまわすことができたとき、呼び出し音を一回聞いただけで心臓が破裂しそうになり、慌てて受話器を戻してしまった。あのとき、親友が同じことを言った。 もうすこし、まってみよう――。 「なんで、わらってる?」 イボンが聞いた。 楽しいからだよ、と将人は答えた。 結局、二時まで待った。彼女は現れなかった。 イボンに見送られ、将人は部屋に戻ってベッドに寝転がった。 枕に、ティサイの髪のにおいが残っていた。 あんなに長い時間、待っていてくれたのに――。 枕を抱きしめながら、ごめんね、ごめんね、と将人は何度もつぶやいた。 次へ ジャンル別一覧
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