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Locker's Style

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『橋の下の彼女』(43)-2



 夕食のテーブルには、社宅で食べていたのとほぼ同じ料理が並んだ。アレン町長の家のキッチンを特別に借りて、サンが作ったという。
 夕食の支度を整えると、サンは辰三と将人に「ご奉仕できて光栄でした」と挨拶した。レックスが社宅を引き払ったことで、彼女も仕事を解雇されるのだという。
「こっちに来るまえはよ、正直、食いもんのことはかなり心配してたけど、あんたがうまい料理をつくってくれたおかげで、朝昼晩のメシが毎日、楽しみだったぜ」
 辰三がサンと硬い握手を交わした。
「あの豚の煮込みの分厚い脂身、初めて見たときはとても食えないと思ったけど、今じゃすっかり好物なんだ。味付けが良かったからだね」
 言って、将人はサンと抱擁を交わした。
 それから、彼女はレックス、ライアン、アルマン、リンドン、それにいつも料理を運ぶのを手伝っていたアルバートとクリスとも、別れの挨拶を交わした。
「みなさん、お元気で」
 サンは手を振りながら、アジアンハイウェイを北へ向って歩いて行った。

 七時少し前に晩餐が終わった。
 いつもならすぐパジェロに乗り込むところだが、次にいつブエナスエルテ社に戻ってこられるだろうか、はたまた戻ってこられないのだろうか、などと考えると、将人はなかなか立ち上がる気になれなかった。見れば、辰三もさっきつけたばかりのタバコをもみ消し、次を取り出してまた火をつけた。あと一本、これ吸ってからな、といわんばかりに――。
 将人は立ち上がった――と言っても、パジェロではなく、トイレに向うために。
 五分ほど前に行ったばかりだから、小便はほとんど出なかった。辰三のタバコと意味合いは同じなのだ。
 将人がトイレから出てくると、ノノイが寂しげな顔で歩み寄ってきた。
「君がいなくなったら、また退屈な毎日だよ」
「アレンのどこが退屈なんだよ。なんなら、僕がこっちに残るから、君が日本に行ったらいい」
 ノノイが笑った。
「それはいい考えだ、今すぐパスポートをこうかんしようじゃないか」
「いいとも、僕たち二人は外見が似ているから誰も気付かないさ」将人はパスポートを取り出す振りをしながら、本当に交換できればどんなに良いかと本気で感じた。「おっと、でも日本に行くためには、どうしてもサンパブロを経由しなきゃならいんだ。関内さんの晩酌、楽しんでね」
 ノノイが両手を上げて降参のポーズをした。
「あっちは監獄だっていうじゃないか」
「明日の夜には、僕はその監獄に押し込められるわけ。考えただけでわくわくするよ」
 言って、将人はノノイに手を差し出した。
「君に会えて本当に良かった。ティサイの通訳を頼んだ夜のビーチ、露店での買い物、タタイ・アナックでハンバーガーを十個平らげたこと。何から何まで楽しかった。ありがとう。今度来たときは、ヌンチャクを徹底的に教えてくれ」
 ノノイが将人の手を握り返した。
「僕も、君のおかげでずいぶんと英語が上達したよ。リーバイスのジーンズもありがとう。それから、忘れないでくれ、僕はいつでも君のボディガードだってことをね」
「わかってるさ」
 握り合った手に、お互いのもう一方の手も加えて、四つの手を硬く組み合わせた。
 そのとき、脇をアルバートが通りかかった。将人はノノイと目で会話して、アルバートに、こっちへ、というように頷きかけた。彼は遠慮がちに近寄ってくると、将人たちが握り合わせた手を不思議そうに見つめた。
「バート、君も入れよ。一緒に氷を運んだ仲じゃないか」
「いいんですか?」
 つぶやくように、彼は聞いた。
「当たり前じゃないか」
 アルバートはぱっと顔を輝かせ、将人たちが組み合わせた四つの手の上に、彼の小さな二つの手のひらを載せた。
「これは僕たちの絆だ。何年たっても、崩れない絆だ」
 ノノイが言った。アルバートが頷く。
 将人だけが、頷かなかった。
 頷けば、目にいっぱいまで溜まった涙が流れ落ちてしまいそうだったのだ。

 十月にアレンに戻るつもりでいる辰三は、彼らとの別れに関しては当然、将人ほど感傷的になってはいなかった。トトと身振り手振りで二人にしか理解できない別れの挨拶を交わし、「十月な、十月だぞ!」と日本語で言いながら、にこやかにパジェロに乗り込んでいく。
 明日は早朝に発つことになるので、モーテルへの支払いをあらかじめ済ませるからと、レックスとライアンも同乗した。今夜も寝ずの番を務めるイボンは、すでに荷物スペースで膝を抱えて座っている。
 パジェロが走り出した。
 アジアンハイウェイに出ると、将人は助手席の窓をあけ、上半身を突き出してうしろを振り返った。
 見張り小屋の前で、四人の従業員が横一列に並んで手を振っている。
 元空挺部隊でヌンチャクの達人、ハンサムなボディガード、ノノイ――辰三を唸らせる出刃さばきで加工場責任者に任命された元ギャングのトト――くわえタバゴにチェーンソー、無から有を生み出す大工のブノン――百五十センチほどの体躯に強靭な腕力と忍耐力を宿した召使のアルバート――。
 将人は、彼らに向けて手を振り続けた――カーブを過ぎ、彼らの姿が見えなくなっても、まだしばらくは。

 パジェロがアンジェラズ・インの真っ暗な駐車場に乗り入れた。カフェテリアではアンジェラとセシルが談笑していた。
 辰三が降りると、セシルは駆け寄ってきて、満面の笑みで抱きついた。よろけながらも彼女を胸で受け止めた辰三は、彼女の頭を優しく撫でている。まるで本物の恋人同士のように見えた。
「明日は四時出発だったな。もし俺が寝てるようなら起こしてくれよ、今夜は打ち止めになるまで頑張っちまうつもりだからよ」
 言って下品な笑い声を上げると、辰三はセシルの手を握って、そそくさと部屋に入っていった。
 レックスがアンジェラと支払いのことで話を始めると、ライアンがそっと近づいてきた。
「お願いがあるんだ」
 彼は将人に顔を寄せ、耳元でつぶやくように言った。
「どうした?」
「今夜、バネッサと会う約束をしてるんだけど、わかるだろ、社宅を引き払ってしまったから、出かけられないんだよ」
 ブエナスエルテ社のガレージを改造した簡易宿泊所で寝泊りしてるのだから、夜中にレックスに気づかれず外出するのは無理だろう。
「僕に何かできる?」
 将人は聞いた。
「今から父さんに、僕と君とアルマンの三人だけで、ショウの送別会をタタイ・アナックで開きたい、って言うつもりなんだ。もちろん、本当に行くわけじゃない。君が今夜忙しいのはわかってるからね。ただ、話を合わせてくれるだけでいいんだ」
「でもアルマンはどうする? 送別会に出かけるという口実にするなら、彼も今夜はしばらく会社に戻れないだろ?」
「アルマンは一人じゃない」
 言って、ライアンが、会ったばかりのころを思い出させるような、無邪気な顔で笑った。
「アルマンとアマリアの関係、知ってるんだね?」
 将人が言うと、ライアンがにんまりと頷いた。
「彼は本気だよ、本気で彼女と息子の面倒を見るつもりだ」
「つまり今夜、君はバネッサと、アルマンはアマリアと過ごすってわけか。そういうことなら協力するよ」
 ありがとう、とライアンは将人の手を握り締めた。
 いろいろあったが、ティサイに出会うことができたのも、ライアンがいたからこそだ。もし彼がリンドンのような堅物だったら、そもそも夜の町に将人を連れて出かけて楽しませようなどは考えもしなかっただろう。
「ショウ、あとで君にバネッサを紹介したい。部屋に連れていってもいい?」
 いいよ、と言いかけたが、ティサイはライアンに会いたくないだろうな、と将人は思った。
「バネッサと会ってみたいのはやまやまだけど、部屋には洗濯の済んでない下着やら何やらいろいろ散らかってるんだ。カフェテリアでもいいかな?」
 かまわないよ、とライアンはあっさり折れた。
「彼女が来たら、ドアをノックするよ」
「だけどあまり遅い時間だと寝てるかもしれないよ」
「大丈夫、今からすぐ迎えに行くつもりなんだ」
 支払いを済ませたレックスは、アンジェラとにこやかに握手を交わしてから、将人に歩み寄ってきた。
「ショウ、明日は朝四時に迎えに来る。アレン最後の夜だ、もしどこかへ遊びに出かけたいのなら、遠慮しないで車を使ってくれ」
 将人が答えようとすると、ライアンが「僕とアルマンとショウの三人だけで送別会をやりたい」と予定通りのことを言った。
「そういうことなら、若者同士で楽しんでくるがいい。ただし、ショウにはガールフレンドがいることを忘れるなよ」
 レックスが言うと、ライアンは「父さん、ありがとう」と両手を上げながらパジェロに乗り込んだ。
 バネッサと合う予定は早い時間に片付きそうだな、と将人がほっとしたとき、どこかへ出かけていたらしいティサイが、懐中電灯を手に駐車場に入ってきた。ワンサイズ大きめのゆったりとしたTシャツに、脚の付け根までしかない白いミニスカートを履いている。エメラルドグリーンのパンプスが、暗闇で蛍の光のように浮かび上がって見えた。
 将人が表にいるのに気付くと、彼女はぱっと表情を明るくして駆け寄ってきた。
 彼女がパジェロの脇を通り抜けようとしたとき、レックスが彼女を呼び止めた。
「ちょっと待て」レックスは目をパチクリさせながら、ティサイのつま先から頭のてっぺんまで何度か視線を往復させた。「君はここの宿泊客か?」
 英語が通じないと見るなり、レックスは英語からタガログ語に切り替えた。
 ティサイが現地語で答えた。レックスは再び目をパチクリさせ、将人に向き直った。
「この子が『わたしはショウの知り合いよ』と言っているが、本当かね?」
「本当です」
 将人は言った。
「メスティーサ(混血)のような顔をして、ワライ語を話してるぞ」
「その子はショウの彼女だよ、父さん、聞いてるだろ?」
 ライアンが車の窓から顔を突き出して言った。
 そういうことか、とレックスが表情を緩めた。
「これは失礼した。そんな格好をしているから、てっきり日本人が泊まっていると聞いて売り込みにやってきた娼婦かと思ったよ。それにしても美人だな、おまけにマネキンみたいな脚をしてる。君、名前はなんて言うんだ?」
 レックスは、将人が会話の内容を理解できるようにと気遣ってか、英語と現地語の両方で言った。
「ティサイ」
 唇を突き出して、彼女はそっけなく言った。少し怒っているようだ。
「いい名前じゃないか、君のような可愛い子にはぴったりの名だ。そう思わないか、ショウ?」
「あ、はい、もちろん思います」
 確かに響きのいい名前だが、それは彼女の本名ではない。〈ティサイ〉は現地語で〈ハーフ〉という意味のあだ名だ。将人は今夜、彼女に本名を教えてもらうつもりだった。
「よく聞くんだ、ティサイ」レックスが言った。彼はワライ語も話せるらしく、英語のあとにワライ語で続けた。「私たちのファミリーには、マフィア、軍隊、警察のうしろ盾がある。はっきりさせておきたいが、ショウは本当なら、ワライの君の手が届くような人ではないんだ。でもショウが君のことをとても好きだというから、私たちは黙って見守ることにする。そういうことを踏まえたうえで、覚悟を持って彼と付き合うんだぞ」
 そんなことを言ったら彼女が恐がって逃げてしまいますよ、と将人が言いかけたとき、ティサイが答えた。
「オーオ」
 彼女の声は自信に満ちていた。
「本当にわかったんだな」
 レックスが聞きなおす。
「オーオ」
 ティサイは、大きな目でレックスをじっと見据えて、もう一度そう答えた。
「よし、君を信じよう。ティサイ、今夜を大切にするんだよ、次に彼がサマールに来るのは、二ヶ月ほど先になるからね」
 膨れっ面になったティサイは、将人に歩み寄ると、レックスの視界から逃れるように、背中から抱きついてきた。
 将人は顔だけ後ろに向けて、彼女の髪にキスした。
「じゃあショウ、良い夜を!」
 言って、レックスはパジェロに乗り込んだ。
 クラクションを短く一回鳴らし、パジェロは駐車場から砂煙を立てて出て行った。

 ライアンがバネッサと戻ってくるのを待つあいだ、将人はアンジェラにカメラマンを頼んで、ティサイとの写真を何枚も撮ってもらった。
「あなたたち、こうやってレンズ越しに見ると、本物のモデルみたいだわ」
 ベッドの上で、将人はティサイを膝の上に抱えていた。彼女は将人の頬にぴたりと自分の頬を寄り添わせている。
「さあ、キスして!」
 アンジェラに促されて、将人はティサイと唇を重ねた。フラッシュがたかれる。キスしたまま、違う角度からさらに三枚撮った。
 アンジェラはカメラマン役をかなり楽しんでいる様子だ。
「じゃあ、次はヌードを撮りましょうか? ショウが日本に帰っても、彼女の裸を思い出せるように」
「ちょっとアンジェラ、それはいくらなんでも」
 将人は真顔で答えた。
「いやね、冗談に決まってるでしょ」
 言って、アンジェラはティサイとワライ語で何やら言葉を交わしたあと、将人を指差して大笑いした。
「さあ、私の仕事はこの辺で終わり。今度は、あなたが彼女をできるだけきれいに撮ってあげなさいよ。このモデルはかなりの美人なんだから、もし映りが悪かったら、それはあなたの腕のせいだからね」
 言って、アンジェラはカメラを将人に手渡し、「さて、ジャマモノは去るとしましょうか」とウィンクして部屋を出て行った。
 二人きりになると、ティサイはベッドから椅子に移って、あと少しで下着が見えそうな脚の組み方をしたり、髪を掻きあげながら唇を突き出したりと、雑誌モデルのようなポーズを作っては、両手をたたき合わせて大笑いした。本人は冗談のつもりだろうが、日本に来ればモデルでやっていけるだろうと将人は本気で感じた。
 いつか日本のデパートの化粧品売り場に連れて行って、最高のメイクを施してみたい――そんな考えが頭に浮かぶ。きつい真っ赤な口紅でも、濃い紫のアイシャドーでも、彼女の整った顔立ちなら見事に調和すると思えた。そんなメイクを施した彼女の前を素通りできる男が、いったい何人いるだろうか――。
 カメラを縦に横に構え、彼女をさまざまな角度から撮った。ティサイはそのたびに表情とポーズを変える。少し怒った顔でうつむいたり、歯を見せて微笑んだり。
 ティサイは、テーブルの上に置いてあった将人の携帯用の英語辞書を、まるで文庫本でも読むかのように広げてポーズを取った。そこで、はっと思いついたように手を打ち鳴らすと、「ちょっと待って」と言って、持っていた小さなポーチから、細く赤いフレームのメガネを取り出してかけ、再び辞書を取り上げ、「オーケー」と言って微笑んだ。
 ハルディンで初めて会ったときの彼女がそこにいた。
 数秒のあいだ、将人はファインダーの中の彼女に見とれていた。
「どうしたの?」
 言われて、将人ははっと我に返り、ごめん、と慌ててシャッターボタンを押した。
 ストロボが光り、フィルムの自動巻取り装置が作動する機械音が部屋に響いた。最後の三十六枚撮りのフィルムを使い切った音。こんなに写真を撮ったのは、イギリス留学の最終日以来だった。
「こわれた?」
 ティサイが心配そうに、カメラをのぞき込む。
「フィルムが終わっただけだよ、自動で巻き取るんだ」
 将人は言って、彼女の髪を撫でた。
「あなたとの、しゃしん、ほしい」
 ティサイが、一つずつ単語を並べるように言った。
「日本に帰ったら、現像して、額に入れて送るからね」
「クリスに、プリーズ。わたし、じゅうしょ、ない」
 わかってる、と将人は微笑んだ。
 フィルムをケースにしまったとき、ドアがノックされた。
「私だよ、クリスだ。ライアンがカフェテリアで待ってる。バネッサも一緒だ」
 将人はドアを開けてクリスを招き入れると、ライアンたちと話しているあいだ、ティサイの話し相手になってくれと頼んだ。
 撮影が終わってもまだ、おどけるようにポージングを続けているティサイを見て、クリスが笑った。
「ああ、どうやら彼女は、サリサリの店主じゃなくて、モデルに転職するつもりらしいな」
 クリスが言った。
「悪い考えじゃないさ」将人は本気で言った。「それにしても不思議だな、なぜライアンは僕にバネッサを会わせたりするんだ?」
「ライアンが会わせたいんじゃなくて、バネッサが君に会いたがってるのさ」
「なぜ?」
 将人は首を傾げた。
「この町の若い女の子なら、君のうわさを聞けば、会いたいと思うのが普通だよ」
 クリスがティサイに、「そうだろ?」と聞いた。彼女は、「オーオ」と大きく頷いた。
「とりあえず、行ってくるよ」
 将人は肩をすくめると、部屋を出て外付け階段を下りた。

 チェックインカウンターで、アンジェラがタバコを吸っていた。そのうしろ、カフェテリアの奥の席に、ライアンが、フィリピン人とは思えないほど白い肌をした、つやの美しい、長い黒髪の女の子と向かい合って座っていた。
 将人に気付いて、ライアンが手を上げた。目の下のくまは相変わらずだが、その表情からは、普段会社では見ることができない、明るい生気のようなものがにじみ出ている。
 バネッサが振り向いた。まったく化粧をしていないのに、アイラインを引いたように目がくっきりと大きく、鼻はそれほど高くないがすっと筋が通っていて、唇は薄いピンク色だった。誰かに似ているなと少し考えて、それがムーンライトにいたケイシー(KC)だと思いついた。ライアンはこの手の顔立ちが好みのようだ。
「ハロー、ショウ!」
 バネッサは立ち上がり、将人に手を差し出した。彼女はフィリピン人としてはかなりの長身だった。ヒールを履いているのかと思わず足元に目をやったほどだ。
「初めまして。バネッサ、だよね?」
 将人が彼女の手を握ろうとしたとき、ライアンが慌てて彼女の腕を引っ張った。
「こらバネッサ、いくら相手がショウでも、他の男には触れないって約束しただろ」
「ライアンって、ものすごくやきもち焼きなのよ、こまっちゃう」
 バネッサは首を振りながら、訛りはあるが聞きやすい英語で言った。
「どうだいショウ、僕の言ったことに嘘はなかっただろ?」
 ライアンが、胸を張って自慢げに言った。
「確かに、こんなかわいい彼女なら、君がすっかり首ったけになるのも無理ないね」
 バネッサが、下腹部にかばうように両手を当てながらそっと椅子に腰を下ろした。ライアンが、彼女が座りやすいようにテーブルを押し下げる。
 産むつもりなんだ――将人は、そんな二人のしぐさを見て、直感的にそう感じた。
「ショウ、たとえば僕たちが日本に移住したとして、やっぱり生活していくのは大変かな?」
 将人が椅子に座るなり、ライアンが聞いた。
「いきなりどうしたんだ? まさか本気で言ってるんじゃないだろ? フィリピン人が日本に入国するには確かビザが必要で、観光ビザでも取得するのは難しいって聞いたことがあるよ。ましてや移住なんて――」
「具体的なことじゃなくて、一般的な話でいいんだ」
 ライアンがたたみかけるように言った。バネッサが、微笑みながらも真剣な眼差しで、将人の返事を待っている。恐らく、二人は真剣に話し合ったのだ――日本に移住して、子供を産んで、三人で暮らすとか、もしくはそれに近いことを――。
「そうだな、例えば入国できたとして、日本語のできない君たちが、普通の仕事を見つけるのは簡単じゃないと思う。それに、就労ビザも必要だし」
 将人が、就労ビザ、と言ったとき、ライアンとバネッサがお互いに目配せした。
 二人は日本で子供を産むつもりなのかもしれない、と将人は思った。日本で産まれた子供には、日本国籍が与えられる。その両親にどのような滞在許可が与えられるのかまでは知らないが、少なくとも、何かしらの優遇措置はあるだろう。
「もし僕たちが日本に行ったら、ショウ、君は僕たちを助けてくれるかい?」
「助けるって言ったって――」
 ティサイにあれだけのことをしておいて、と将人はさすがにむっとして、すぐに、いいよ、と言う気にはなれなかった。だが、もし本当にこの二人が、何の足がかりもなく日本にやってきたとしたら、やはり助けてしまうだろうな、とも思った。ライアンに対しては、ノノイやクリスに感じるような親しみは感じないが、彼が日本の裏社会で不法就労したあげく賃金ももらえないままフィリピンに強制送還されるのを、笑って見送れるほど嫌いなわけでもない。
「そだな、もし君たち二人が、しっかりした目的と覚悟を持って、合法的に日本に入国して、合法的に滞在するというのなら、僕にできることは協力するよ。とはいっても、日本では定職も持たない貧乏通訳の僕だから、金銭的な支援は難しいと思うけど」
 ライアンとバネッサは、お互いの手を取り合って、ありがとう、と将人に微笑んだ。
「ただねライアン、日本に限らず、どの外国へ移住したって、逃げることにしかならないんじゃないか? そんなことを考える前に、フィリピンでできることをまずやってくれよ」
 わかってるよ、とライアンは手を振った。だがその表情から、彼はもうレックスと腹を割って話す気がないのが感じ取れた。
 ライアンはメモ用紙とボールペンを取り出して、将人に日本の連絡先を書いてくれと頼んだ。将人はライアンからペンを受け取ると、英語と日本語の両方で住所と電話番号を書き留めた。
「あと、日本語の勉強も忘れないようにね」
 メモ用紙を手渡しながら、将人は言った。
「何かあったら、連絡するよ」
 ライアンが言った。
「何かあるからこうやって僕と話したんじゃないのか?」
 将人は聞かずにはいられなかった。バネッサが妊娠していることを、将人は表向きは知らないことになっている。てっきりそれをライアンから告げられるものと思っていたのだ。
 ライアンは微笑んだ。
「何もないよ、何もね。ただの一般的な話さ」
「君にはブエナスエルテ社と、そこで働く従業員たちに対する責任があることを忘れないでくれよ」
 頼むから変な気は起こさないでくれよ、という使い古されたせりふを使うのはこういうときなんだと、将人は思い知らされた気分だった。
 会話が途切れ、用件は済んだ、という雰囲気がテーブルに漂った。将人は「部屋に戻るよ」と彼らに告げて立ち上がった。
「会えて嬉しかったわ、ショウ」バネッサが言った。「うわさどおりのハンサムだったわ」
「君だって、うわさ以上の美人だよ」
 将人が言うと、バネッサがにっこりと微笑んだ。
 数ヵ月後に母親になるとはとても思えない、幼さの残る笑みだった。

 将人が部屋に戻ると、クリスとティサイが大笑いしながら話していた。
「何をそんなに笑ってるんだ?」
 将人は聞いた。
「いやね、まえにティサイとノーラが闘鶏場の近くの食堂で大騒ぎしたって話を、シャイメリーが会社までわざわざ告げ口に来ただろ、あのことを話していたんだよ」
 そういえばそんなこともあったなと、将人は思い出した。
「食堂でショウのことを大声で話していたのは、ティサイじゃなくて、実はシャイメリーの方だったんだってさ。すごくハンサムな日本人がいる、私はあの人を絶対につかまえてみせる、私が彼と結婚して日本に行ったらみんなに写真を送るから、とまで言っていたらしいよ」
 言って、クリスは腹をかかえて笑い出した。
 やれやれ、と将人はかぶりを振った。
「それがなぜティサイの話にすり替えられたんだ?」
「そこにいた客の一人が、ティサイとショウのうわさを知っていたんだよ。それで、シャイメリーにけしかけたんだ、『その背の高い日本人が首ったけになってるのは、きみじゃなくて、ここにいるティサイだろ?』ってね。ティサイがそこにいることを知らなかったシャイメリーは、彼女に大声で罵声を浴びせてから、逃げるように店を飛び出したんだってさ」
「あまり笑える話じゃないぞ」
「でも真実がわかってよかったじゃないか」クリスが肩をすくめた。「じゃあ、私はライアンたちを別のモーテルまで送っていくから、これで失礼するよ」
 言って、クリスが立ち上がった。
 ドアを開けて部屋を出ようとしたクリスを、将人は引き止めた。
「これで、今夜はノーラと過ごしてあげて」
 言って、将人は三百ペソをクリスの手に握らせた。ペナルティの二百ペソと、どこかのモーテルの部屋代の百ペソだ。
「本当に?」
 言いながら、クリスはすでに三枚の札をポケットにしまっていた。
「明日は早いから、あまり遅くならないようにね」
 将人が言うと、クリスは、まかせておいて、と満面の笑みで親指を立てながら、軽快に階段を駆け下りていった。
 部屋の前の通路から、パジェロが走り去っていくのを見送ったあと、将人は下に身を乗り出し、辰三の部屋の正面にあるベンチで寝そべっているイボンに声をかけた。
「ちょっと通訳を頼みたいんだ」
「わたしに?」
 イボンが、自分の顔に人差し指を向けた。将人は微笑みながら頷いた。退屈していたらしい彼は、飛ぶように二階まで上がってきた。
 イボンを部屋に招き入れた。彼はティサイとは面識があるはずだが、やけに緊張したような笑みを浮かべて、ベッドの前の狭いスペースを、そわそわと歩きわまっている。
「わたしが、つうやく、わたしが、つうやく――」
 そうつぶやく彼の声を聞いて、将人はようやく、イボンは通訳を任されたことに緊張しているのだとわかった。
「イボン、君の英語は、君が思ってるほど下手じゃない。僕もそんなに難しいことは話さない。ただ、要点だけを彼女にしっかりと伝えて欲しいんだ」
 わかった、と言って、イボンは立ったまま身構えた。
「話というのは、銀行のキャッシュカードのことなんだ。クリスもいずれは知ることになるだろうけど、今のところは、彼には話さずにおきたい。だから、君に通訳を頼むんだよ」
 将人は、なるべく簡単な単語を選んで、少し話しては、イボンが通訳するのを待って、また話し出す、ということを繰り返した。
 キャッシュカードの暗証番号を、決してクリスに知らせないように、そうすれば君だけが現金を引き出すことができるから、と彼女に伝えた。将人はイボンに見えないよう、メモ用紙に、暗証番号にするつもりの数字を書き留め、そっとティサイに手渡した。
「なぜ、このばんごう?」
 ティサイが紙を見ながらつぶやいた。
「その数字を日本語で読むと、僕の名前になるんだよ」
「ショート?」
 将人は頷いた。
 暗証番号は〈四四一〇〉。将人はいつも、この数字を暗証番号に使っている。
「あなたのなまえ。おおきのに、ちいさい。おもしろいから、わすれない」
 ティサイの小さな笑い声が部屋に響いた。
 それから将人は、ティサイもカルバヨグのメトロバンクで彼女名義の口座を必ず開くこと、開いたら日本にいる将人にエアメールで口座番号を知らせるようにと告げて、日本の住所と電話番号を書いて渡した。
 彼女はメモを受け取りながら、でも口座が開設できるほどのお金を持ってない、と言った。
 とりあえず開設に必要なだけの現金はあとで渡すから、と将人は答えた。
「おかねをおくるのは、たいへんだ。だから、ティサイを、にほんにつれていけばいい」
 イボンが、大真面目な顔で言った。
「そうできたらどんなにいいかと思うよ」
「じゃあ、あした、いっしょにサンパブロにいく。ティサイ、それでいいか?」
 オーオ、と言って、彼女はイボンと一緒に大笑いした。
 将人もつられて笑った。

 通訳を終えたイボンが部屋から出て行こうとしたとき、将人は彼を呼び止めた。
「イボン、今まで命を張ってボディガードを務めてくれて本当にありがとう」
 イボンは照れくさそうに手を振った。
「にほんじん、こんなに、はなしができると、おもわなかった。とても、たのしかった、ありがとう」
 将人はイボンと抱擁をかわした。
「君は僕たちがモーテルに来てから、ずっと寝ずの番をしてくれた。お礼と言ってはなんだけど、これで、サンミゲルでも買ってくれ」
 言って、将人は二百ペソをイボンに渡した。
 イボンは、サル顔をくしゃくしゃに歪めて微笑んだ。
「これは、うけとれない、うけとったら、レックスにおこられる」
 将人は首を振った。
「いいかいイボン、現金を渡すのが良くないのはわかってる。だから本当なら、タタイ・アナックで君にビールをおごるべきなんだろうけど、出かけるにはもう遅い時間だ。だから、過程を省略したと考えてくれよ。僕が君に渡したのは、サンミゲルであって、現金じゃないんだ。それなら、レックスも怒らないだろ?」
「それは、うん、そうかもしれない。だったらショウ、わたしは、このかねで、サンミゲルをかわずに、ハルディンへいってもいいか?」
「ハルディンだって?」将人は思わず吹き出した。「だけど二百ペソじゃ、ペナルティを払えば終わってしまうだろ」
 イボンが肩をすくめた。
「なんとか、おんなのこに、こうしょうしてみる」
 まさか無料にしてくれと交渉するつもりなのか、それとも、単にイボンは数学が苦手なだけなのか、将人にはわかりかねた。
「ハルディンに行くのなら――」将人は財布を広げた。あいにく、百ペソはあと一枚だけ、残りは千ペソ札ばかりだった。「あと百ペソあれば、少しはまともな交渉ができる?」
 イボンは、指を三本伸ばして、宙を眺めてぼそぼそとつぶやきながら、一本ずつ折り曲げていった。
「たぶん、だいじょうぶ」
「本当?」将人は笑いながら百ペソ札を差し出した。「もし本当に三百ペソで女の子をどうにかできたんなら、明日の出発前にぜひその話を聞かせてくれよ」
 イボンはにんまりと微笑みながら、わかった、と頷いた。そしてTシャツの裾をまくり上げると、リボルバーのつり下がったホルスターを外して将人に差し出した。
「わたし、ハルディンにいくあいだ、これ、つかって」
 将人は目をむいた。
「使ってって言っても――」
「たまは、はいってる。ひきがね、ひくだけ。ドカン、おわり」
 戸惑う将人にホルスターを押し付けると、イボンはクリスに負けず劣らずの笑みを浮かべて、転がるように階段を駆け下りかけ――ふと足を止め、戻ってきた。
「いいわすれたよ」イボンの顔から笑みが消えていた。「クリスは、レックスやライアンにつかいをたのまれると、ときどき、つりせんをごまかす。きをつけたほうがいい」
 将人は引きつった笑みを返すのが精一杯だった。この期に及んで、イボンからクリスのそんな話を聞かされるとは思っていなかった。
「じゃあ、あしたのあさ!」
 言って、イボンは今度こそ階段を駆け下り、駐車場を横切って、ハルディンの方角へ駆けて行った。

 ホルスターベルトを手にして部屋に戻り、それをテーブルの上にどさりと置くと、ティサイが目をぱちくりさせた。
「イボンがね、持っててくれって」
 彼女はリボルバーを止めている皮ひものスナップボタンを外した。
「みせて」
 ティサイが微笑む。
 将人は、人差し指と親指で拳銃のグリップを挟むと、引き金に触らないようにおっかなびっくり引っ張り出して掲げた。リボルバーは鉄アレイのように重かった。もとは銀色に輝いていたと思われる銃身には、削れたような傷が無数にあり、ところどころ茶色い錆びが浮かんでいる。木製のグリップは、汗と手垢が染み込んだような深茶色で、それでいて磨き上げたような艶を放っていた。弾倉を横からのぞいてみると、六個の穴のうち、二つが空になっていた。殺し屋に襲われたとき、トトが撃った二発分だ。
「今、ここで強盗が押し入ってきたとしても、僕にこれが使えるとは思えないな」
 将人が言うと、ティサイがやさしく微笑んだ。
「さわってもいい?」
「安全装置と、引き金にはさわらないようにね」
 彼女は、将人の手からリボルバーを受け取ると、広げた手の平の上に載せ、じっと見つめた。
「危ないから、もうしまおう」
 将人が言うと、彼女も将人がやったように、右手の人差し指と親指でグリップをつまみ、ホルスターの中に戻した。
 そのとき、彼女の親指の付け根に、小さな刺青があるのに気付いた。
「それは何?」
 将人が聞くと、ティサイは慌てて手を引っ込めた。
「むかしね」言いながら、ティサイが引っ込めた手をゆっくりと戻した。「いれたの」
 そこには、五ミリほどの大きさの〈J〉と〈S〉の二文字が彫られていた。
「何の頭文字だい?」
「わたしのなまえ」
「本名?」
 ティサイが頷いた。
「よかったら、君の本当の名前、僕に教えてくれない?」
 彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「ジャニース」
「ジャネス?」
 彼女が首を振った。
「どういうスペル?」
 将人は彼女にペンを渡した。彼女は将人の手の甲に、〈Janeath Siebro〉と筆記体で綴った。
「〈ジャニース・シエブロ〉、わたしの、なまえ」
「ジャニースか。ティサイに負けず劣らず、素敵な名前だね」
 彼女は首を振った。
「わたし、ティサイがいい」
「どうして?」
「ジャニースは、ほんとうのわたし。こころの、ふかくにいる。ティサイは、かのじょをまもる。ジャニースとよばれると、ほんとうのわたしが、いまのせいかつ、みてしまう。いまのせいかつ、いつか、ティサイといっしょに、きえる。そして、あたらしいせいかつ、ジャニースがもどって、むすめと、むすこと、しあわせにくらすの」
 彼女は、限られた英語の語彙を駆使して答えた。
 将人には、彼女の言わんとしていることが十分過ぎるほど理解できた。
 ティサイをやさしく抱きしめながら、将人は心の中でつぶやいた――もう、ジャニースにもどってもいいんだよ、と。


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