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Locker's Style

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『橋の下の彼女』(50)

1999年8月29日(日)

日本・三津丘市

 顎から流れ落ちた汗が、頬を伝って顎の先から滴り落ちる。
 将人はTシャツが透き通るほど汗まみれで自転車をこいでいた。
 通訳の仕事など一度も紹介してくれない人材派遣会社から、『通訳のお仕事のあいまにいかがですか?』と紹介された、一日限りのイベント会場撤収作業の仕事を終えて、家に帰る途中だった。
 携帯を取り出す。午後三時になろうとしていた。
 メールが一件入っているのに気付いて、自転車を止めた。
 ひとみからだった。いつも通り、英語の質問だった。
 将人がフィリピンに行っているあいだ、ひとみはずいぶん変わった。母親のスナックで働くのをきっぱりやめたし、マルチまがいの下着セールスからも完全に手を引いていた。辰三のパンチパーマと良い勝負とまでは言わないが、茶髪にきつくあてたソバージュをストレートの黒髪にしたし、タバコもすっかりやめていた――とはいっても、まだメールのやり取りで、そう聞かされただけなのだが。
 しかし、そんな彼女の変化の中で将人を一番驚かせたのは、ローマ字すら満足に綴れなかった彼女が、十月の英検二級の試験を受けると言い出したことだった。初めは、どうせいつもの気まぐれだろうと取り合わなかったが、そのうち、わからない問題にぶつかるたびにメールで質問してくるようになり、その内容が、日を追うごとに高度になっていくに至って、将人はようやく、ひとみが本気なのだと悟った。そして、そのあいまの何通かのやりとりで、彼女が変わるきっかけになったのが、将人がサンパブロからサマールへと発つ直前に、ラウルに託した手紙だったということも知った。実はそう言われるまで、将人はひとみに手紙を送ったことすら忘れていた。
 昨日送られてきた質問メールの最後に、〈私が英検二級に受かったら、もう一度、会ってくれる?〉と書かれていた。
 少し悩んで、〈俺が通関士試験に受かったらな〉と答えた。どちらか片方でも合格する確立は低いのだから、二人そろって合格などありえないと思えた。しかし、もしそんな奇跡が起きるなら、ひとみがよりを戻す、という奇跡も起きるかもしれないと冗談半分に考えてもみた。
 いずれにせよ、通関士試験の試験日は十月中旬で、合格発表は十二月。まだまだ先の話だ。
 五分ほどかけて、仮定法についての質問に、わかりやすい例を挙げた解説を書いて返信すると、将人は携帯をポケットにしまって、再びペダルをこぎ始めた。会場撤収作業では、背の高い将人は重たいものばかり任された。そのせいで太ももに力が入らず、自転車の速度はなかなか上がらない。時給七百五十円にしてはしんどい仕事だったと、全身の筋肉が、将人に対してストライキを起こしたかのようだった。

 家の前に自転車を止めると、誰かと大声で話す父親の声が外まで聞こえていた。普段めったに大声を出さない父親がめずらしいな、と思いながら自転車に鍵を掛けたとき、その会話が英語だということに気付いた。
 将人は玄関に向けて突っ走り、扉を投げ飛ばす勢いで開けると、廊下の先で受話器を握りながら「イングリッシュ、ノー!」と大声で繰り返している父親のところまで靴を履いたまま駆け上がって、その手から受話器をもぎ取った。
 険しい顔で声を荒げていた父親が、将人を見るなり、安堵の笑みを浮かべた。
「何を言っても電話を切ろうとしないんだよ」
「いいからあとは僕に任せて」
 将人は英語に切り替えて、ショウです、と言った。
『あ、ショウなのか? 本当にショウなのか?』
 聞き間違えるはずもない、クリスの声だった。
「ひどいじゃないかクリス! あれから何日たってると思ってるんだよ!」
 将人は、自分でも驚くほどの大声を上げていた。隣で父親が目をぱちくりさせている。
『君たち親子はそろって電話ではいつもそんな大声で話すのか?』
「そんなわけないだろ」言って、将人は笑ってしまった。「心配だったんだよ、とっても――」
 胸につかえていたものが、すっぽり抜け落ちたような気分だった。
 自分はまだアレンとつながっている――そんな嬉しさが、身震いになって将人の全身を駆け巡った。
「彼女はどうしてる? ティサイはどうしてるんだ?」
『それが――』
 雑音が入った。
「なんだって?」
『ショウ、実は今、レックスの使いを頼まれたついでに、電話交換所に寄っただけなんだ。長くは話せない。君が去ってから起きたいくつかのことの、要点だけを話すから、口を挟まずに聞いてくれ』
「どうした? 何かあったのか?」
 全身から噴き出す汗が、急に冷たくなった気がした。
 クリスは一度、咳払いした。
『まず一つ目。アルマンは君のキャッシュカードを受け取った。しかし、セキウチさんの命令だと言って、私に渡そうとしない』
「そんなばかな――」
『いいから最後まで聞いてくれ、他にも話さなきゃならないことがあるんだよ』
「ごめん、続けて」
 将人の顎から、冷えた汗が二滴、床に落ちた。
『そのアルマンだけど、九月いっぱいでAMPミナモトに戻ることになった。キャッシュカードについては、十月に君がフィリピンに戻ってきたときに、サンパブロで何とかするしかないと思う』
 つまりアルマンは、将人のキャッシュカードと引き換えに、アマリアとの社宅暮らしを手に入れたのだ。しかし証拠書類を手に入れた関内にとっては、将人のキャッシュカードが誰の手に渡るかなどもうどうでもいい話のはずで、要はクリスに渡すなというアルマンへの命令を撤回する手間すらかけなかったのだろう。
 ティサイがメトロバンクに自分の口座を開き、その口座情報を手紙で伝えてこない限り、将人が彼女に仕送りすることは、これで実質的に不可能になった。
「ティサイはまだメトロバンクに口座を開いていないのか?」
『まだだと思う』
「だったら彼女に催促してくれよ」
『そうする。じゃあ先に進むよ、二つ目。ライアンだけど、先日、会社でレックスと大喧嘩した。ノノイやイボンが止めに入らなかったら、殴り合いになっていただろう。それ以来、二人はひと言も口を聞いていない。レックスは来週、マカティに戻る。ここのところ、ライアンの顔つきがおかしくて、みんな心配してるんだ』
 大喧嘩の原因は聞くまでもなかった。ライアンは、父親にバネッサのことを正直に話したのだ。もう一度、もしくは何度でも、大喧嘩になってもかまわないから、思う存分話し合ってくれ、と将人は願った。すべてが手遅れになる前に――。
『三つ目。アルマンの代わりの出向社員として、カルロってやつが来る。君は会ったことがあるはずだ』
「アルマンの交代にカルロだって?」
 言ってから、将人は関内のねらいが読めた気がした。関内は、レックスとライアンの大喧嘩の報告をアルマンから受けて、ワライの娘を妊娠させたライアンが、いよいよ駆け落ちすると見越し、UP卒のインテリであるカルロを、その後釜に挿げようと企んでいるのだ。ついでに、すでに出刃をある程度まで使いこなせるようになっている彼に、辰三の築き上げた、ブエナスエルテ社の鮮魚加工のノウハウを吸収させる腹積もりに違いない。
「クリス、会社のことはわかったから、ティサイが今どうしてるのか教えてくれ」
 電話越しに、誰かが怒鳴る声が聞こえた。
『ごめん、もう戻らなきゃ。安心してよ、彼女は大丈夫だから』
「ハルディンに戻ったりしてないよね?」
『戻ってない、今は無職だ。君の渡した金でやりくりしてるよ』
 疲れに似た安堵が、将人の血液中にどっと流れ出した。
「新しい家を借りる話はどうなんだ?」
『今、探してるところだ』
「クリス、お願いだから、彼女に一刻も早く自分の銀行口座を開いて、口座情報を僕に手紙で送るよう、強く言ってくれ。今となっては、それが僕が彼女に金を送る唯一の方法なんだよ」
『わかった、伝えておく。ショウ、私はもう本当に行かないと――』
 電話の向こうで、怒鳴り声が近づいてきた。ライアンの声だった。
「それから、ティサイに、今でも愛してると伝えて――」
 たたきつけるような音がして、電話が切れた。
 汗まみれの手で握り締めていた受話器を下ろすと、将人は宙に浮いたような感覚でしばらく家の中をうろついてから、よろよろと自分の部屋に入った。
 机に座り、写真立てを見つめる。
 ティサイは笑っていた。将人も、照れくさそうに笑っている。
 通関士試験の参考書を横に払いのけ、机の上に突っ伏した。たとえ彼女が銀行口座を開いたとしても、今の将人に送ることができるのは、月に一万円がいいところだ。通関士試験に合格したら、通関士の求人に応募してみるつもりだが、資格があるからといって、通関業者なら必ず採用してくれるというわけではない。
 しばらくは、勉強のかたわら、今日のような日雇い仕事を続けるしかないだろう。彼女のサリサリに置くつもりだった将人のプレイステーションは、しばらく前からディスクを読まなくなってしまった。新しいものを買う余裕などもちろんない。
 自分のあまりの無力さに、将人はやりきれない気分を味わっていた。


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