カテゴリ:教養・時事 (文化、歴史、芸術)
戦後70年の節目だからか、安保法案への危機感からか、今年はいつにも増して戦争関連の番組が多いように感じる。
(気のせいかも知れないが…) 加えて、ドラマや映画ではなく、当時の映像や戦争経験者の話など、より直接的な表現が目立つ。 次の「戦後80年」には、こうした時代の語り部もほとんどいなくなってしまうだろう事を考えると、過去をより身近に知る最後の機会かも知れない。 僕も意識的に観るようにしている。 そんな中、池上彰と櫻井翔が司会を務めた番組内で公開された、旧日本軍が原爆を開発しようとしていた証拠資料が印象的だった。 この資料の真偽は定かではないが、テレビで紹介された以上は本物であろう事を前提に書きたい。 出来るか出来ないかは「可能性」の問題であり、するかしないかは「意思」の問題だ。 両者は明確に区別されなければならない。 (世間一般では、両者を混同して語る人が多いが…) 日本はたまたま原爆を完成させられなかったため、使用できなかった。 (「しなかった」のではなく、「できなかった」という事実が重要だ) 米国は完成させる事ができたために使用した。 両国の命運を分けたのは、単に技術力(=可能性)の差であり、人間性(=意思)の差ではない。 どちらも、使用する意思があったという点では、同じだからだ。 であれば、日本人はもはや無邪気に被害者を気取ってはいられなくなるのではないか…。 番組を観ながら、今まで広島と長崎に対して抱いて来た違和感が、少し解消された気がした。 日本に限らず、これからの世代には、加害者も被害者もなく、戦勝国も敗戦国もなく、どれだけ純粋に戦争を拒絶できるかが求められる事になるだろう。 勿論、国防や外交、教育など、国家と国民がそれぞれに克服しなければならない問題は多い。 しかし、「戦後」をいつまでも「戦後」のまま語らないため、新しい平和理念が必要だ。 そういう意味で、今年の戦後70年という節目は、大きな転換期になるかも知れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.08.11 13:49:21
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