1/15 フットサル5日目
11人集合(4・4・3)女性1人成績:2勝1敗3分 通算:22勝13敗5分 (貯金:9)奇しくも、私がぎりぎりに入場したおかげで、3チームになってしまいました。赤パンやガツガツ親父、金地院崇伝、S氏など問題児が多い中でしたが、4人フットサルで運動量も多く、たくさん走りました。とくに最後のチームは楽しいチームでした。ミスターに出した私のアウトサイドのパスはゴール前に走りこんだところにピタリと合い気持ちよかったです。その後、QPさんとサブがドリブルでゴールを決めていましたが、そのときのQPさんのドリブルは、ボールを見事にキープし、さらにサブへのラストパスと見事でした。ミスターはというと、やっぱり最初の一歩や、次の一歩が早いんですよね。さすがでした。モツ煮込みの味はいかがでした??QP様向け情報金地院崇伝とは・・・江戸初期の臨済宗の僧。以心は字(あざな)。普通、金地院(こんちいん)崇伝という。生前に円照本光国師号を受ける。1573年(天正1)室町幕府滅亡に際し父一色秀勝(いっしきひでかつ)と死別、南禅寺の玄圃霊三(げんぽれいざん)の下で出家。26歳で住職資格を得て諸寺を歴住、1605年(慶長10)南禅寺270世住持として金地院に住した。08年西笑承兌(さいしょうしょうたい/しょうだ)の後任で、駿府(すんぷ)(静岡県)の徳川家康の下で外交文書の書記役となるが、その後しだいに頭角を現し、幕政の枢機にあずかった。伴天連(バテレン)追放令(宣教師追放令)をはじめ、寺院法度(はっと)、公家(くげ)諸法度などにも関係し、大坂城攻撃の端緒となった京都方広寺大仏の鐘銘問題も崇伝の考えによるという。紫衣(しえ)事件でも厳科を主張し、一般の不評を買って「大欲山気根院僭上寺悪国師(だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)」とあだ名され、沢庵(たくあん)からも「天魔外道(てんまげどう)」と評されたが、初期幕政に辣腕(らつわん)を振るった功績は大きく、黒衣(こくえ)の宰相の名にふさわしいものがあった。著書に『異国日記』『本光国師日記』『本光国師法語』などがある。