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日本のボイジャーエンタテインメントが新会社として発足に伴い、 傘下におさまるため、 4月1日付けの更新から、日本公認の、公式サイトとなります。 以前、インタビューを受けた内容が公開されましたので(もちろん英文)、日本語の内容を公開します。 初めて『ヤマト』をご覧になったのは、いつでしたか? 1974年の初回放送でしたね。16歳の高校1年生でした。 『ヤマト』以前から、マンガやアニメが好きでしたか? マンガ雑誌とプラモデルとSF小説の好きな、当時のふつうの子供でした。 少年時代で、『ヤマト』や他のアニメにまつわる思い出や逸話が、何かございますか? 『ヤマト』の前に同時間帯で放送されていたアニメ(『侍ジャイアンツ』)が打ち切りになり、その後に始まる番組は、いったいどのようなものかと興味を持ってヤマトをみました。僕の好きなアニメを打ち切りにしてまで始まるものはいったいどのようなアニメかという興味です。 そして1話を見て、その素晴らしい出来にショックを受けました。 プラモを作り始めたのは、何歳ぐらいでしたか? 5歳です。 プロモデラーになられた経緯は? メカデザインを具体化する手段として、モデルを作っていました。そして物語を創作し、同人誌を作っていました。その同人誌を出版社やメーカーに送って、2つの会社からオファーを受けました。 1982年に角川出版の映画雑誌『バラエティー』12月号でのオリジナルフォトストーリー (ストーリー、デザイン含む)としての仕事と、1983年にバンダイから依頼されたオリジナル企画(『ドラゴンズヘブン』の原型となる物語とデザイン)が、最初のプロモデラーとしての仕事です。 プロのメカデザイナーになられたきっかけや経緯を教えてください。 同人誌をアニメーターの金田伊功さんが見て、氏のオリジナル企画『BIRTH』のメカデザインを依頼されたのが最初です。 どのようにして、プロのマンガ家になられましたか? モデル・グラフィックス編集長から、急遽短編マンガを依頼されたのが最初で、 それが『ドラゴンズヘブン』でした。 マンガ家、モデラー、メカデザイナーの3つを同時に兼任した作品がございましたら、教えてください。 『迷宮都市』ですね。 それぞれの立場(マンガ家、モデラー、メカデザイナー)で、一番の自信作、代表作は何でしょうか? 全て。 どのような経緯で、メカデザイナーからアニメ監督に転身されたのですか? 元々物語を描くことを指向していましたので、『ドラゴンズヘブン』アニメ監督を依頼されたとき、引き受けました。 『ドラゴンズヘブン』こそ、あなたの3つの業績、モデラー、マンガ家、アニメ監督の集大成に思われますが、 急遽依頼されたコミックが、評判になり、アニメになりました。 『ドラゴンズヘブン』という「物語」にとっては集大成でハッピーエンドですが、それ以上の物ではありません。 その展開や成り立ちは、どんなものでしたか? ここまでで話したとおりです。 出来映えや最終的な仕上がりへの満足度は、いかほどでしたか? とても満足しています。素晴らしいアニメーターたちの仕事に感謝しました。 あなたの作品には、日本以外の国の影響が顕著に思われますが、 『ドラゴンズヘブン』には顕著だと思います。 ご自身で影響を受けたと思われる、海外作品やアーティストがいらっしゃいますか? 『ドラゴンズヘブン』に関しては、ジャン・ジロー(メビウス)の表現に影響を受けましたが、デザイン的に誰かに影響されたということはありません。 〈2.1990年代の『ヤマト』への取り組みについて〉 90年代、あなたはどういった経緯で、『ヤマト』制作に関わられたのでしょうか? 1986年に西崎氏のオフィスから、ヤマトを書いて(描いて)みてくれと電話依頼されたのが最初です。サンライズから聞き及んだと言ってました。 あなたは、『デスラーズ・ウォー』用のデザインを公表した、ただ一人のデザイナーです。このタイトルについて、教えていただけることがあれば、お願いします。 電話で概略を聞き、デザインしました。 もう少し詳しく教えていただけますか? 『デスラーズ・ウォー』について、具体的にどこまで進んだとか、証言している人でもいるんですか? この作品についての情報は、当時のファンクラブの会報のみです。そこで西崎氏は、2、3の異なったストーリー案があると語っていました。そしたら何年も後になって、戦艦スターシャを描いた小林さんの絵を目にすることになったわけです。描かれた経緯を教えていただけますか? デスラーはこういうつもりで戦艦スターシャを建造したという、大まかな意匠だけを、電話でいただきました。より強い戦艦を指向したにもかかわらず、スターシャを忘れられないデスラーは、スターシャの顔を据えてしまったと。それに応えて私がデザインしたわけですが、その他の2、3の腹案についても、別のデザイナーに発注されていましたよ。西崎さんはまずはストーリーがあって、音があって、次に絵に移行するというプロセスを取り、今度は逆に目にした絵から、音とストーリーが成立するかを逆算するんです。デザイン、プロット等を揃えてはみたものの、まだこの時点では、観客の共感を得られないと判断したんだと思います。 それは何年頃でしたか? 1985年から88年までの3年間のどこかでしたね。最初にヤマトを描いてくれと頼まれた時は、リメイクの意向でした。その後で『デスラーズ・ウォー』の企画があって、87年には復活するヤマトをイメージしていて、これが2520の、シド・ミード版のヤマトでした。これを新しくヤマトの形とするならば、復活は可能ではないかと言っていたので、西崎さんにしては珍しく、絵から入っていったなと思いましたから、記憶は確かです。 どういう方向に転ぶかわからないが、こういう断面図までは揃っている。なんとか形にできないかと相談されました。しかし輪切りの画は一貫していても、イメージボードの外形はまちまちで断面と一致しません。そこでシド・ミードが断面でイメージしたものはこうなんだと立体で示すために、模型を制作しました。 1994年のドキュメンタリー『ヤマト・我が心の不滅の艦(ふね)-宇宙戦艦ヤマト胎動篇-』に映っている、2520の大型モデルのことですね。 はい。実は『復活篇』も一時期は、このミード版で企画が進んでたんですよ。西崎氏はこの時期には、どんなエンディングにしようかということをずっと模索なさっていました。なぜならストーリーの骨子となる、ヤマト復活は必然でしたから、だったら最後はどうするんだということです。 現在、このモデルはどこにあるのでしょう? 青山にあるカフェクルーに展示中です。 0112より楽天は個人通信メッセージとBBSを廃止しました 個人メッセージは以下ミクシィにお願いします http://m.mixi.jp/show_profile.pl?&id=15757318&mhome=1 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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